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『耳を澄ます 』
温羅 五十鈴aa5521)&沙治 栗花落aa5521hero001

 空気が動く“音”がする。
 風というほどの強さはなく、かといって無にはほど遠い……控えめながら確かな意志をもって動く音。
 沙治 栗花落は耳を覆う飾り布の角度をなおし、息をついた。発生源を見ずとも、この音がなにを示すものかはわかる。なにせ数え切れないほどこの音に呼ばれて来たのだから。
 五月蠅いことだな。相も変わらず自己主張が強い。
 飾り布のおかげで、その身に宿った“千里耳”は機能をほぼ抑えられている。しかし鋭すぎた耳を補おうとしてか他の四感、特に触感が高まっていて、彼は自らが臨んだ静寂を得きれずにいるのだった。
 というわけで、自己主張の主へのせめてもの意趣返しとして、気づかないふりをする。本をめくり、読みふけっている体を装って――
 一気に眼前が暗くなる。塞がれたのだ。和装にくるまれた小柄な体によって。
「……射手の間合をいたずらに潰すことの意味、教えておいたはずだが」
 ため息交じりの抗弁は大きな瞳に弾かれ、あらぬ方角へ飛んでいった。兜の鋼を滑っていく弾のように、だ。
 と。鉄壁を見せた瞳がしばたたき、次いでその下にある唇が“意味”を刻む。
 晩ご飯、なにがいい?
 そんなことを訊きたいばかりに踏み入ってきたのか。思ってはみたが……栗花落はあきれながらもあきらめた。
 温羅 五十鈴という少女は、いつ何時もそうしたものなのだから。

 栗花落が自分を無視していたことには気づいていた。
 普段の彼は、細やかで濃やかだ。声を喪った五十鈴の唇を読み、手話を読み、気配を読み、不足なく理解して応えてくれる。ただ、独り静寂に浸っているとき、時折こうして意地悪をする。
 出逢って間もないころは、そうされたときおずおずと退いたものだ。少し間を置けば、栗花落のほうから声をかけてくることも知っていたから。しかし。
 黄泉路を逝く友たる敵、その背を見送って、彼女は誓ったのだ。
 強くなろう。今度こそ、大切なものを壊される様をただ泣きながら見ていなくてもいいように。つかむべき手を離してしまわないために。
 だから、勇気を振り絞って踏み入る。
 そして声ならぬすべてで告げる。
 どれほど他愛のないことだろうとも、ためらう内で喪われてしまう前に。
 あきれてあきらめ、顔を上げた栗花落に笑みを返した五十鈴はもう一度訊いた。
 晩ご飯、なにがいい?


 五十鈴の決意に対して栗花落が返した答は「なんでもいい」だった。
「なにを怒っている?」
 親子丼を前にした栗花落は、ぷりぷりと膨れた五十鈴に問う。このあたりは女性への気づかいならず、やかましいガキどもをあしらってきた経験則、「放っておくと悪化する」によるものだ。
 つーくんはひどい。
 五十鈴は丼を抱えたままぷいと横を向いた。
 あれだけの覚悟と決意をもって訊いたのに、「なんでもいい」だなんて……そういうの、いちばんだめだと思う。
 ああ、これは面倒臭いところに落ちているな。そう思いながら栗花落は箸を繰り、出汁をたっぷりと含んだ卵とやわらかな鶏もも、艶々の白米を口へと運ぶ。
「うまい」
 ちらり。五十鈴の視線がかすめていった。
「あんたの飯はなんでもうまい。だからなんでもいい」
 そろり。五十鈴の体が少しこちらへ向きなおる。
 そのわかりやすい有り様に栗花落は思わず笑みかけて、やめて。少しだけためらった後に薄笑んだ。
 惜しむことは喪うことだ。理解を、機会を、心を。
 そうだからこそ、惜しまずに伝えよう。
 自らで耳を塞ぎ、伝えられることを拒んだ俺が虚無の淵へ落ちるのを引き留めてくれる、伝えることを封じられたあんたにだけは。
「本当に、うまい」
 重ねて言えば、五十鈴の体はいつしか前へ向きなおっていて。
 なんとも納得のいかない感じの表情ではあったが、それでも漬物など栗花落に勧めたり。
 つーくんはずるい。
 ちゃんとこういうこと言われたら、いつまでも怒ってられないもの。わかってて言ってるんだよね。前の世界でもそうだったの? もしかして人たらしだった?
 心の内で大きくかぶりを振って、五十鈴は想像を追い払った。
 そうじゃないんだよね。つーくんはやさしい人だから。言葉をなくしちゃった私が空っぽにならないように言葉をくれるだけ。
 ――私は絶対聞き逃したりしない。聞かないことを選ばなくちゃいけなかったつーくんの代わりに私が聞くの。つーくんの言葉も、ほかの音も全部。それが伝えられない私ができる、たったひとつのことだから。
「漬物を噛むと骨が五月蠅い」
 漬物のぱりぱり感が骨伝導で響くらしい栗花落のしかめ面に、“あ”。五十鈴はあわてて茶を淹れて差し出した。これで飲み込んで!
「その、熱々の茶でか?」
 あー。


 五十鈴は掲げるように構えた光弓「サルンガ」を慎重に引き下ろす。その動きの内で弦――アタランテの髪を引き絞り、顎先へ矢が触れるほどのところで止めれば、射る準備が整った。
『そうだ、弦は力で引くものじゃない。特に経験が浅い内は速射しようと思うな。一射ごとに余裕をもって定めることを心がけろ』
 内の栗花落がかすかな声音でささやいた。
 五十鈴が主導で共鳴しているとき、栗花落の耳は彼女へ預けられる。ゆえに音は容赦なく、彼女の剥き出された耳より押し入り、脳をかきまわすのだ。
 これがつーくんがいた世界。ううん、それに比べたらきっと天国みたいなところなんだよね。ノイズに惑わされちゃだめ。覚悟を決めて、前を向く!
 つーくん、そのままなにかお話して。と、唇の動きで伝える。
『集中をこれ以上かき乱すことになるぞ?』
 五十鈴はかぶりを振って告げた。
 つーくんの音だけを聞いて、射るから。
 爆ぜるようなノイズで濁る世界のただ中、標となる音を。その思いは栗花落を揺らし、そして据えさせた。
『前を見ろ。あんたが射るべき的を。ほかのものは仲間に任せろ。経験も強さも俺たち以上の猛者ぞろいだ、心配はいらない』
 ノイズが薄らぎ、世界が彩を取り戻していく。
 ここは戦場で、五十鈴は後方の一角から迫り来る敵へ狙いを定めていた。
 敵の前衛は防御力特化の虫型従魔。その虫甲のしなやかな硬さに、味方の前衛は攻めあぐねている。
『俺たちがしなければならないのはきざはしをかけることだ。この一射で敵の動きを止める。それだけで仲間の踏み込む間ができる』
 距離はおよそ50メートル。幸いにして風はなく、これならば射線を損なわずに矢を射込むことができる。
『見定めたな。なら、吸った息を絞れ。絞って、絞って、絞りきった瞬間、ただ指を放せ。意志はいらない。余計なものを乗せればそれだけ矢が惑う』
 意志を消す。いや、肚に据えるのだ。そうか、据えるって、そういうことなんだ。
 人は自らの喜怒哀楽に容易く乱れ、狂う。強い意志や覚悟とて同じことだ。挙動の内でそれらはノイズとなり、純粋を穢してしまう。
 消すんじゃなくて、自分の奥に据える。一点を穿つ、それだけを為すために、澄ます。
 息を絞るごとにノイズが薄らいでいった。弦を引く指から力みが、目から気負いが、心からは「射貫きたい」という欲が消えていく。
『いいぞ。その無心があんたを射手にしてくれる。そのまま絞れ』
 研ぎ澄まされる五十鈴を邪魔したくないと思いながら、それでも栗花落は語り続けた。
 今こそが伝えるべきときだと、そう思えてならなかったから。
 忌むばかりだったはずの声音だが……この声があんたを導くなら、俺は惜しまない。
 理解が喪われるよりも、機会が喪われることよりも、心が喪われることよりも、あんたを喪わないために尽くすから。
『ここだ』
 果たして放された矢は、迷うことも惑うこともなく直ぐに飛び、従魔の継ぎ目へ突き立った。
 なにかをわめいて硬直した従魔へ、味方前衛が襲いかかる。こうなればもう、従魔に為す術はなかった。

 ふう。
 息をついた五十鈴の耳に音が戻りくる。
 甲高くきしむ世界は相変わらず五十鈴を痛めつけるが、かまわない。
 つーくん、次に射るのはどこ?
 目と耳とを巡らせ、五十鈴は次に射るべき的を探す。
 駆ける足音はバスドラムのごとくに晴れた世界を打ち鳴らし、仲間と従魔が交わす攻防の不協和音が再び彼女の視界を曇らせた。
 しかし、打ち据えられたりしない。音の激流の最中にあっても、彼女を支えてくれる音があるから。
『駆けている間も息を荒げるな。心臓が跳ねて、構えたときに狙いがぶれる。音を追いかけるんじゃなく、置き去ってやれ。聞くべき音は敵の挙動の起こりだけだ』
 了解。
 短く応えた五十鈴は栗花落の示したとおりに息を整えた。鎮まれ私、削ぎ落とせ私。私は弓。この矢を射放すためだけのもの。
 片膝をついて体を固定し、元弭(もとはず)を地に突き立てるように構えて射る。
 矢の行方を追うことなく、そのまま前へ転がるほどの勢いで駆け出した。
『射手は常に動け。居場所を見とがめられれば潰されるからな……と、ここだ』
 足を止め、立ったまま弓を引き絞って射た。
 次の瞬間には遠距離攻撃が撃ち返されてきたが、遅い。敵の挙動の起こりは、この耳で確かめている。
『俺よりも耳を使いこなせているな』
 栗花落は褒めてくれたが、ちがう。
 私はつーくんがいてくれるから聞けるんだよ。
 ――元の世界、独りぼっちで音の責め苦に耐え続けていた栗花落。そこに自分がいたら、彼は少しでもその地獄で安らぎを得られ、救われたのだろうか?
 そうかもしれないし、そうではないかもしれない。そんな可能性の話に答を出せるはずはない。
 だから、今だ。
 今このとき、眼前に拡がる地獄だけを見て、その先の答を探そう。
 つーくん、声を聞かせて。私が迷ってしまわないように。
 心身を引き裂くがごとき音の地獄、そのただ中で五十鈴は耳を澄ます。
『そのまま進め。還るべき道は、敵が塞ぐ向こうにある』
 栗花落は五十鈴のために声音を紡ぎ、届ける。
 俺の先はあんたが穿った先にあるんだよ。そこがどんなところなのかは知らないが、きっといいところなんだろうって思い込んでな。
 心を合わせてその耳を重ね、ふたりは押し寄せる喧噪をその矢で貫いた。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【温羅 五十鈴(aa5521) / 女性 / 16歳 / 命の守り人】
【沙治 栗花落(aa5521hero001) / 男性 / 18歳 / エージェント】
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2018年11月19日

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