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『錦秋閑日 』
オルソン・ルースター8809

 硫黄の匂い混じりの湯けむりを深く吸い込み、オルソンは岩場にのせておいた手拭いを取って、滴る汗を拭った。
「ふう……」
 岩場の横の平らになっているところには、徳利と盃の置かれた盆が据えてある。オルソンは盃に酒を満たして、クイ、とひと息に呷った。
 露天風呂より見える見渡す限りの全天が、山の稜線に囲まれて徐々に暮色に染まりつつある。空を仰いで、もう幾度目になるだろうか、と考えた。
 里を離れた山谷沿いの道の途中にぽつんと一軒だけある、知る人ぞ知る秘湯の宿である。温泉街にあるような旅館ではない。
 オルソンにとっては、そろそろ雪化粧が美しかろう、月がいい時節だろう、梅が咲いた頃だろう、蝉の声の風情ある頃合いだろう、と都度思い出す宿の一つである。年に一度は訪れているはずだ。
 おのずと宿の主人とも見知った仲にもなり、以来オルソンの逗留中には、風呂に入っていれば「おひとついかがですか」などと、このとおり何くれとなく用意してくれる。

 露天風呂から和室に戻ると、部屋で茶の支度をはじめていたのは、はたして宿の主人だった。
「おお、御主人、いらしてましたか。お久しぶりです」
 主人はオルソンの戻ったのに気づくと手をとめていそいそと出迎えた。
「いやぁ、お久しぶりでございます。遠路はるばるようお越しくださいました」
「まずはひと風呂と思って露天に入ってきたのですが、湯ざわりの心地良さがまず堪らないでしょう。それから紅葉の美しさに見惚れて見飽きず。いやはや日の落ちかけていることにも気付きませんでした。随分と長湯をしてしまった」
「それはようございました。旦那がいらっしゃると伺って、これは是非ともお顔を拝さねばと飛んで参ったのですがね、いやぁ、お元気でいらっしゃったようで何よりです」
「御主人こそ、お変わりなくて嬉しいですよ。私にすれば我が家に帰ってきたようなもので、肩の力も抜けようものです」
「はは、旦那のような方にそう言って頂けると、わしらも本望ですわ」
 そう照れ笑いをしながら、宿の主人はオルソンの手元に淹れたばかりの煎茶を置いた。
「ときに御主人。露天に入っておりましたら、奇妙な声を聞きました。山の中からか、長く尾を引く泣き声のような。何とも哀れげな声だった。あれはなんでしょうな」
「はあ、尾を引くような…と言いましたら、鹿の鳴き声でしょうかなぁ」
「鹿が?」
「この季節は鹿の鳴き声をよく聞くんです。仲間恋しさに鳴くんでしょうな。猿もうちの庭に来たり、風呂に入りに来たりしますよ。なにぶんにも山奥ですから鄙びたそういった風情だけなら、それはもういくらでも」
「ほう……。ならば御主人、夕飯までもうしばらくあるようなら少し、その庭を歩いてきたいのですが」
「ええ、庭には照明も少しありますから、夜の紅葉もようございますよ。しかし足元にはお気をつけて。行燈を用意させましょう。案内もおつけしましょうか?」
「それは有難い。いや、案内の方までは結構です。自分ひとりで充分ですよ」
 主人が今日はいくらなんでも冷えこんでいるからとさらに用意してくれた丹前に袖を通し、オルソンは手持ち行燈を片手に庭に降りた。
「旦那はやっぱり丹前がお似合いだ」
 日本人よりも日本人らしい、と縁側から見送りながら主人は笑っていた。

 山の向こうに日は没し、忍び寄る夕闇の前に白く靄がかかって山の端の陰翳は水墨画の様、さながら深山幽谷の趣だ。
 昨夜は雨だった。しかし、流れこそ速いが渓流は濁らず、谷には翡翠の玉が飛沫となって飛び散っているような清冽な水がある。
 この景色を愛して、
「…私は半ば日本人となったわけだ」
 オルソンは静かに微笑む。
 ウォール街、ロンドン、香港、モスクワ、アブダビ……
 渡り歩いたさまざまな都市、それらのどこにも安住の地はなかった。
 こここそにあったのだ、と、夜目の利くオルソンのこと、さほど行燈の世話になるまでもなく、秋一色に染まったあたりを眺め渡していると、足許にはらりと一枚の紅葉が落ちた。
 冷たく湿った色づいた葉を拾いあげようとして、ふと、何かの気配が動いたのを感じた。顔を上げると、オルソンのほんの目の前、斜め横の茂みから茶色の獣が顏を出していた。頭に枝分かれした立派な二本の角を冠した一頭の牡鹿。弓のような四肢を茂みの中に張り、オルソンを見つめていた。
「…もしやおまえだったか。先刻の鳴き声、宿の御主人が言っていた…」
 尾を引く鳴き声の主、とは。
 ――都のたつみしかぞすむ
「…『世を宇治山と人は言うなり』か…」
 丹前の袖に手を入れて、ふ、と笑った。
「…なあ、鹿よ。おまえは人恋しいと言う。一方の私は、たしかに厭世人やもしれぬ」
 紅葉を一枚、指に揺らし、石に腰を下ろす。
「だが、落ち着ける地がある、ということだけでも、どれほど幸せなことか。……聞くかね? 私の昔話を――」
 晩秋の月明かりが枝葉の陰に降りそそぐ。
 その中に、ひとときの間、鹿と語らう男の姿があった。



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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【8809/オルソン・ルースター/男/43/ご隠居】


ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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初めまして、工藤彼方と申します。
このたびの発注、たいへんありがとうございました。
オルソンさんの玄人な御隠居生活はきっと充実していらっしゃるのでしょう。
そのかわり、さまざまな物思いとともにある旅なのかもしれませんが…。
そんなある日の姿を切り取ってみたく思い、かような物語と相成りました。
あらためてまして、ありがとうございました。

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東京怪談
2018年12月03日

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