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『天使の理』
松本・太一8504


 まず、信号を守らなければならない。
 走る方向も決められている。逆走は、犯罪である。
 法定速度というものも存在する。遵守されているのかどうかは、ともかくだ。
 そして何よりも、普通免許がなければ話にならない。
 陸上を車で進む事に関しては、かように細かい規則が存在する。
 ならば、空中を行く事に関してはどうか。
 松本太一は、詳しい事を知らない。航空機を勝手に飛ばしたら、犯罪になってしまうのであろうか。
 身体1つで空を飛ぶのであれば、どうか。
「日本人の私が、日本の上空を飛ぶ……何も問題ありません、よね?」
『さあ、どうかしら』
 今の太一は日本人ではない、と言うより人間ではなかった。
 豊かな胸の膨らみを、ひらひらとした白い衣服に閉じ込めている。深く柔らかな胸の谷間も、むっちりと形良い左右の太股も、丸見えである。
 たおやかな背中からは6枚の翼が生え広がり、ゆったりと羽ばたいて、太一の身体を危なげなく空中にとどめている。
 艶やかな黒髪が、高空の乱気流を受けて舞い乱れる。いくらか童顔気味の美貌が、可愛らしいしかめっ面になった。
 48歳、冴えない熟年男の肉体が、性別を変えながら瑞々しく若返り、6枚の翼を生やしているのだ。
 その姿は、まさしく天使であった。
 天使が、空を飛んでいる。はたから見れば、そのような事にしかならない。はたから見ている者など、いないはずではあるが。
『誰も見ていないなんて……本当に、もったいないわね』
 太一の中にいる女性が、言った。
『今の貴女、本当に可愛いわよ? 美しくて、神々しいわ。天使そのもの、信仰を集めてしまうかもね』
「悪魔族の方が、神々しいとか言っちゃいますか」
 空を飛びながら、太一は苦笑した。
「勘弁して下さいよ。私ね、誰かに見せたくてこんな恥ずかしい格好してるわけじゃないんです。ただ便利だから」
 帰省する事になった。
 たまには帰って来い、という両親の言葉から、いよいよ逃げられなくなったのだ。
『そんなに恥ずかしい? もっと際どい格好した事、何度もあるじゃないの』
「当然どれも恥ずかしかったです。それはそれとして、この格好も恥ずかしいです。大事なことですから何度でも言いますよ」
 太一は強調した。
「だいたいですね。空を飛ぶのに、こんなテンプレな天使に変身する必要あるんですか? 要は空を飛べればいいわけで、翼さえあればいいわけで」
『想像してごらんなさい。48歳の貧相な男が、翼を生やして空を飛ぶ。様にならないでしょう? 有翼型の人体というビジュアルはね、人魚と同じで基本的に美少女限定なの』
「はあ……拒否権は無しですか」
 太一が苦笑した、その時。
 後方から、いきなり声をかけられた。
「止まりなさい。そこの不審飛行体、止まりなさい」
「ふ……不審って、飛行体って……」
 いささか気を悪くしながら太一は振り返り、そして息を呑んだ。
 目に見えぬ道路があるかのように、それは空中を爆走していた。
 不可視の路面を転がる、巨大な車輪。
 その中央、軸棒が突き刺さるべき部分では、血走った眼球が禍々しく見開かれている。
 太一の中で、悪魔族の女性が呟いた。
『……座天使、ね』
「えっ、あんなのが天使なんですか」
 ついそんな事を言ってしまう太一の前方に、その眼球ある車輪は回り込んで止まった。そして言葉を発する。
「何をしているのですか、こんな所で」
「何って、まあ……空を、飛んでますけど」
「ほう。私どもに届け出もなく空を飛んで、一体どちらへ」
 座天使が、じろりと眼球を向けてくる。
「地上からは、行けない場所なのですか」
「い、いやその帰省をですね」
「まさかとは念いますが」
 異形のものが、もう1体、いつの間にかそこにいた。
「電車賃等を節約するために空を飛んでいる、などとは……言いませんよね貴女、天使の格好をしておきながら」
 人面が言葉を発し、獅子が牙を剥き、猛牛が角を振り立て、猛禽が啼く。
 それは、4つの頭部と4枚の翼を備えた怪物である。
 太一は、とりあえず会話に応じた。
「えっ、駄目なんですか? だって結構バカにならないんですよ、新幹線の乗車賃とか」
「天使ともあろう者が、何と心根の貧しい……いやまあ、貴女が天使ではないのはわかりますが」
「はい、私は天使ではなく夜宵の魔女ですが……貴方も、天使さんですか?」
『智天使ね』
 女悪魔が言った。
『階級としては、上から2番目。ちなみに座天使は3番目よ』
「お偉い様じゃないですか。そんな方々が私に一体、何の用で」
「……なるほど、貴女でしたか」
 座天使の眼球が、ギロリと太一を観察する。
 いや自分ではない。自分の中にいる、この女性が観察されている、と太一は感じた。
「人間を玩具にしておられる、という話は聞いていましたが」
『玩具にしているわけではないわ。この松本太一という人間の、可能性を追究しているだけよ』
「そうですねえ。玩具と言うより、大人のホビーという感じですかねえ。手間暇かかってます。子供みたいに飽きて放り出してもくれません」
 太一はぼやいた。
「こんなテンプレ天使の格好をさせられているのも、その一環で……いやまあ電車代ケチってるのは私なんですけど」
「6枚翼が許可されているのは、本物の熾天使の方々だけです」
 智天使が言った。
「天使の形をなさるのなら、もう少し威厳というものを考慮していただかないと! 電車代惜しさに6枚翼など、一昔前であったら炎の剣で斬首刑」
「……いいですよね、6枚翼の美しい乙女。私なんて、こんなですよ」
 座天使が、泣き出していた。
「人間たちのイメージする天使というものは……美しいのですねえ……」
「私もこんな姿です。本物の天使なんて皆、こんなものですよ」
 智天使が自嘲しながら、4つの顔面で太一を睨む。
 6枚の翼を生やした、美しい乙女の姿を。偽物の、天使の姿を。
「無数の眼球の塊とか、翼の生えた生首とか、そんな連中ばかりです。これからも好んで天使の格好をなさろうというのであれば、まあ覚えておいて損はないと思いますよ。私たちと同じような姿になれ、と言っているわけではありませんが」
「はあ……その、何か……すみません、本当に」
 太一は頭を下げた。
 智天使が、咳払いをした。
「とにかく人間の身で、乗り物を用いず、生身で翼を生やして飛行する。これは天界の法のみならず、様々な理に抵触する行為です。今少しの慎重さを求めたいものですね……相手が貴女では、取り締まるのも一苦労なのですよ」
『あら心外ね。一苦労、で済んでしまうの?』
「やめましょうよ、もう」
 太一は言った。
 この天使たちとは、美味い酒が飲めるかも知れない、と思わない事もなかった。


 登場人物一覧
【8504/松本・太一/男/48歳/会社員・魔女】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2018年12月26日

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