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『不気味の谷の綱渡り』
セレシュ・ウィーラー8538


 固い、とセレシュ・ウィーラーは思った。
 身体のどこかが、固い。どこか、としか言いようがない。
「筋が強張っとるんかな……何やかんや言うて疲れとるんやな、うちも」
 浴槽の中で、自分の身体のあちこちをマッサージしながら、セレシュはぼやいた。
「あかんわ、この程度のお仕事で身体が悲鳴上げとる……年っちゅう事かなあ、うちも。認めとうないわ」
 マッサージをしても、凝りをほぐすような手応えはない。
 自分の身体は、柔らかい。人形ではないのだから当然だ。
 その柔らかさの、どこかに違和感がある。無理やりにでも言葉にすれば、そうなる。
「身体動かすから疲れるんやで。お人形なら、動いたらあかんて……」
 湯に沈みながらセレシュは、ぼんやりと呟いた。
「……あかん……お人形の本能みたいなんが、うちの身体に残っとる……」
 倒したはずの敵の、魔力の残滓であった。
「ま、普通に生活する分には支障ないやろ……朝までには治っとるって。せやから、その前に」
 セレシュは片手をかざし、指先で空中に呪文を書き綴った。それだけの動きが、ひどく億劫に感じられる。
 ともかく、呪文の力は発動した。
 倒したはずの、あの敵の魔法技術を、いくらかは参考にして組み上げた呪文である。
 セレシュは、浴室内の鏡を見つめた。
「ええやん……お目々パッチリ、それ以外のパーツもくっきり整って言う事なしな感じや……」
 人形の、美貌であった。
 自分が人形に変わりつつある事を呆然と感じながら、セレシュは己の肉体の手触りを確かめてみた。
 生身の柔らかさが、失われつつある。
 胸の膨らみは、まるでゴムボールであった。
「まだ柔いなぁ、中途半端や……」
 などと言っている間に、ゴムボールはプラスチック球に変わっていた。
 肌だけではなく、身体の中身まで硬質化しつつある。
「……あかんわ、関節がカッチリ固まっとる。動けへん……ま、お人形が動いたら変やしな……ホラーやし、なぁ……」
 ぼんやりと、セレシュは天井を見つめた。
 風呂からも出られないが、皮膚がふやける心配はない。そんな事を思いながらセレシュは、湯の中に沈んでいった。
 手足が動かない。人形なのだから、当然だ。
 あるべき状態に戻りつつある、という安堵すらセレシュは感じていた。
 人形なのだから溺死はしない。呼吸の必要などない。
 そんな事を思いつつセレシュは、湯の中で己の身体に触れてみた。動かぬはずの人形の手足が、動いた。
 セレシュの身体の各所に、球体関節が生じていた。
「ははっ……指まで、フル可動やで」
 その指でセレシュは、己のボディラインを確認してみた。
 胴の引き締まり方と、尻から太股にかけての膨らみは、生身の時よりも増しているようである。
 繊細にして可憐、程良く肉感的。理想の曲線であった。人形であるから、自堕落な生活で崩れる事もない。
 胸も、いくらかは大きくなっているのだろうか。露骨な巨大化ではないのが良い感じである。
「そうそう……程々で、ええんやで……」
 硬い、だが柔らかい。今のセレシュは、そんな矛盾の塊であった。
 硬く滑らかな体表面は、しかし人形の指先に、柔肌の心地良い手触りをも感じさせるのだ。
 その肢体を、セレシュは湯の中から立ち上がらせた。
「うちは、お人形……けど着せ替えてくれる御主人も、いてへんし。自分でやらな……」


 長手袋とニーソックスで、手足の球体関節は隠す事が出来る。
 そうした上で、丈の短い薄手のワンピースをこうして身体に貼り付ければ、人形には見えない。このまま街を歩けば皆、人間の美少女だと思ってくれるだろう。
『ふふふん、不気味の谷をひとっ飛びやでえ』
 鏡の前で、セレシュはふわりと身を翻した。細いウェストが捻転し、柔らかな胸の膨らみが際立った。
 触れば当然、硬い。だが視覚で感じられる柔らかさは、生身のセレシュの胸を遥かに上回る。
 すらりと露出した二の腕も、ワンピースの裾とニーソックスの間で美しく引き締まった太股も、人形とは思えぬ瑞々しい生気を漲らせている。
『この年で、絶対領域に目覚めてもうたわ……うち、可愛いやないの。別嬪やないの、まるで女神様や! 超・女神級の美しさや!』
 その美しさを見せる相手がいない現実を、セレシュは実感せざるを得なかった。
『ここまでお洋服に興味持ったん、生まれて初めてかも知れへんなあ。あの子と女子トークが出来るわ』
 あの少女はしかし、セレシュの人形化など目の当たりにしたら、自責の念に苛まれてしまうかも知れない。
 ともかくセレシュは、地下の工房へと向かった。
 軽やかに階段を降りても、胸は揺れない。この辺りが人形の限界ではある。
 胸の代わりのように、ワンピースの短い裾がひらひらと跳ね上がる。そこでセレシュは、ようやく気付いた。
『ちょっ、穿いてないやん! ……ま、ええけど』
 跳ねる裾をとっさに押さえたが、そんな必要はなかった。見ている者など、いないのだ。
 いたとしても、隠す必要などあるのか。そもそも何故、隠すのか。
『……なあんて考え始めるあたり、もう完璧にお人形やな。不気味の谷の向こう側には戻れへんわ』
 下着を着用するという発想そのものが、綺麗に消え失せている。それをセレシュは自覚した。
 下着は不要。ただし、着飾るための服は必要。それが人形なのだ。人間の側から、谷を越えて来た結果である。
 そしてセレシュと同じく、谷を越えてしまった少女が、工房の作業台に横たわっている。
『お人形同士の約束や。今、着るもの作ったるさかいな』
 セレシュと違い、人形と化した途端に動かなくなってしまった少女。
 その全身各所を巻き尺で採寸しながら、セレシュは溜め息をついた。
『普通そうやな、お人形になったら動けるワケないわ……うちが、普通とちゃうんやろな』
 何を今更。そんな声が、また聞こえたような気がした。
 動く人形が、動かぬ人形のスリーサイズその他諸々を計っている。硬い手足や身体が触れ合う音が、工房内に静かに響き流れる。
『うち……何しとるんやろ、今……』
 まるで人間のような事を、呟いてみる。
 着飾る。そして、着飾らせる。人形の本能を思うさま解放しているのだ、と思うしかなかった。
 ふと鏡の前に立ち、ワンピースの裾を捲ってみる。
 恥部とも言えぬ、人形の一部分が丸見えになっただけだ。
『うちは、お人形……うちはお人形……』
 意味のない言葉を繰り返してからセレシュは作業台に向かい、作業に入った。
 少女のドレスは回収してある。これを、人形用に仕立て直すだけだ。
 まるで機械のように黙々と正確に、セレシュはドレスを解体し、裁断し、縫い直していった。
 魔法の防具の作成に比べたら、遊びのようなものであった。


 登場人物一覧
【8538/セレシュ・ウィーラー/女/外見年齢21/鍼灸マッサージ師】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年01月21日

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