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『2つの満月』
満月・美華8686


 食べた。
 ステーキをナイフで切断しフォークで口に運ぶ、という作業を自力ではこなせないので、量産メイドたちに手伝わせた。
 同じようにしてローストビーフやマグロ兜煮を食らい、スープをがぶ飲みした。大盛りパスタを掃除機の如く吸引し、特上寿司は数人前を平らげた。もちろん野菜も摂らなければいけないから、ロールキャベツや肉無し餃子などをメイドたちに作らせて、ひたすら食べた。食材があれば、彼女らは大抵のものを作ってくれる。下手な人間より、ずっと有能だ。
 食後のデザートも欠かさなかった。ケーキは丸かじりしてコーヒーあるいは紅茶で流し込んだ。
 もはや椅子に座る事も出来ないほど肥え太った巨体の内部で、無数の命が常に飢えている。過剰なほどの栄養を、ことごとく吸収してくれる。
 そして、命は殖えてゆく。満月美華の体内で。
 命の群れを、美華は育み続けた。食べて眠って、目覚めて食べた。
 やがて、椅子に座れないどころか、ベッドから起き上がる事も出来なくなった。
 こうして寝転んでいるだけで、呼吸が乱れる。
 この肥満した巨体を維持するだけで、体力の消耗となる。
 もっと食べなければ、と美華は思った。思いながら、巨大な腹を撫でた。
「お母さん……」
 ぼんやりと呟いてみる。応えてくれる母は、もちろんいない。
 代わりに、何者かが声を発した。
「千の仔を孕む……その運命を受け入れた、というわけ? にしても呆れたものね」
 それは、いつの間にか、そこにいた。
 美しい女性、のようでもある。醜悪な怪物にも見える。生えているのは、ねじ曲がった山羊の角か、蠢く触手か。
「そこまでする理由は……懺悔? 贖罪のつもり? 自責の念? 生まれてごめんなさいと言いたいわけ? 貴女の、お母さんに」
「会わせて……」
 存在を維持する事すら、体力の消耗に繋がる。声を発するだけで、無数ある命のいくつかが削れて消えてしまいそうだ。
 それでも、美華は言った。
「お母さんに、会わせてよ……千の仔を孕む身体に、絶対……なって見せるからぁ……」
「……いいわ。契約が次の段階へと進んだ、事にしてあげましょう。ここまで馬鹿と無様を晒してくれた、御褒美はあげないとね」
 美しい女性か醜い怪物か、よくわからぬものの姿が膨れ上がった。急激に、肥満していった。まるで今の美華のように。
 よくわからぬ何者かの中に取り込まれていたものが、外へと出現したのだ。解放された、とも言えるか。
 それが、布団の如く美華に覆い被さる。のしかかって来る。
 布団のような、巨大な肉塊。
 特注品のベッドが、その重量に負けて潰れ砕け、飛び散った。
 破片にまみれながら美華は、その巨大な肉塊と、倒れ込んだまま相対した。
「お母さん……」
 声をかけてみる。
 人の原形を半ば失うほどに肥え太った母が、悲しげに微笑んだ。
 巨大な腹と、巨大な腹が、密着している。
「おかあ……さぁん……」
 肉塊と化した母は、やはり涙を流すだけで応えない。脂肪に声帯を圧迫され、言葉を発する事も出来ずにいるのか。
 ごめんなさい。
 私のせいで。
 私なんか、生まれなければ。
 様々な謝罪の言葉が、美華の胸中で渦巻いている。
 全て、口から出した瞬間、空々しいものになってしまう。
 だから美華は何も言わず、手を伸ばした。母も、五指が辛うじて判別出来る片手を伸ばしてきた。
 互いの、巨大に膨張した腹をそっと撫でる。頭を撫でようとしても手が届かない。
 ベッドの残骸が散乱する夜の寝室内で、肥え太った母子はいつの間にか宙に浮かんでいた。浮揚の魔術。
 それは、2つの満月が浮かぶ様に、見えない事もなかった。
 美華は笑った。母も、笑った。
 満月と見紛うほどに肥満した、母と娘。もはや笑うしかない、と美華は思った。


「ぐっ……」
 微かな悲鳴を漏らしながら、それは寝室の床に倒れ込んだ。ベッドの破片がいくつか、衝撃で跳ね上がる。
 美しい女性のような、醜い怪物のような、謎めいたもの。
 それを美華は、満月の如く浮揚したまま見下ろしていた。
 2つの満月は、1つになっていた。
「貴女……何をしたの一体、人間の分際で」
「お母さんは、返してもらったわよ」
 答えつつ美華は、己の巨大な腹をそっと撫でた。
 無数の命と共に母は今、この中にいる。
「満月美華……お前は最初から、それが目的で!」
「貴女がね、たとえ一時的にでも、お母さんを外に出してくれる。それを待っていたのよ」
 片手に携えたものを、美華は軽く掲げて見せびらかした。
「それは……」
「お祖父ちゃんの……形見、と思う事にするわ」
 美華は言った。
 それは一見、何の変哲もない、古びただけの書物である。
「お祖父ちゃんがね、貴女への対抗策……みたいなものを書き記した本。貴女に対して、本当に効果があるかどうかは、使ってみないとわからないけど」
「……使いこなせる、とでも? あの男が遺した秘術を、お前のような出来損ないに」
 それには答えず、美華は言った。
「お母さんには……とりあえず、私の使い魔みたいな形で存在してもらう事にするわ。今までお母さんを預かっていてくれて、本当にありがとう」
「……お礼を言うのは、私の方よ」
 美女のような怪物のような何かが、低く笑いながら消えてゆく。去ってゆく。
「これから、面白くなりそう……まさか私が、お前に見下ろされるなんて……ね」
 やはり、よくわからぬ姿である。
 だが、と美華は思う。
 ぞっとするほど美しい女性の、敵意に満ちた凄惨な笑顔が今、確かに見えたと。


登場人物一覧
【8686/満月・美華/女/28歳/魔女(フリーライター)】
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年02月20日

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