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『唇に熾ほのか 』
氷雨 柊ka6302

 悪夢にうなされることもなく、安らかな眠りからいつも通りの時間に目覚めた柊は、布団から出かけてすぐ引っ込んだ。

「むむ、まだ寒いですねぇ……」

 春は遠いらしい。部屋の中なのに吐く息が白い。風通しの良さが自慢の日本家屋は、冬は大層冷えるのだった。
 ぬくぬくな布団を身体に巻きつけ、伸び上がって火鉢を覗くと、昨夜火を入れた豆炭はすっかり白く燃え尽きている。熾の余韻すら感じられず、柊はぎゅっと布団の端を握って気合いを入れた。

「……うー。毎朝のこととはいえ、この時期はお布団から出るのに勇気が要りますねぇ……いざっ」

 布団から手を離し、傍らに用意しておいた綿入れに素早く腕を通す。ひやっとした袖の感触にぴゃっと首を縮めつつ火鉢の許へ。
 しゃがみ込み、まぁるいまま白くなった豆炭を火箸でつつくと、ほろりほろりと崩れ細かな灰になる。ちょっと楽しい。それを均して新たな豆炭を置き火を着けた。
 綿入れの前を掻き合わせ待っていると、やがて黒くつやつやしていた豆炭の表がじんわり紅くなってくる。手を翳し、ほぅっと息をついた。

「やっとあったまってきましたねぇ……そういえば、龍園のタイルは暖かかったですねー」

 極寒の龍園で使われていた龍鉱石のあったかタイル。便利ですよねぇなんて思い出していると、

「――……っ。は、はにゃ……」

 つられてあの夜の出来事まで思い出されて、柊は上気した頬を立てた膝に押しつける。


 紅き世界でも蒼き世界でも祝われる聖なる夜。
 白銀の地、氷のドームの中で、彼とふたりきり過ごした。
 以前のように飲み過ぎまいと誓っていたのに、お酒の弱さは相変わらずで、ほんの少しで酔ってしまって。ねだって彼の膝にお邪魔して、頼もしい胸に身体を預け、隙をついてその唇を――

「はにゃあっ、これ以上は思い出すとダメですー……っ。というか、弱いのは変わってないのに、どうして覚えているんでしょう〜……はにゃ……」

 少しはお酒に慣れてきたのかもしれない。成長と言えるかもしれないけれど、酔いの勢いを借りて大胆な行動に出た時に限って覚えているのは何故なのか。
 ちょっぴり恨めしく思うけれど、口付けのことを全く忘れてしまうよりは良かったのかなぁ、なんて思ったりもして。思ったということは思い出してしまったワケで、再び頭を抱えたり。
 火照った頬を両手で包みぶつぶつぼやく。

「うぅ。……お酒の勢いでーっていうのは確かにありましたがぁ……だって初めての時は不意打ちだったんですもんー。ちょっぴりずるいじゃないですかぁ」

 彼が初めての口付けをくれたのは、橙と黒で飾られた街でイベントを楽しんだあとのこと。
 帰り際、黒猫に扮した柊の唇を、狼男と化した彼がさらっと奪っていったのだ。
 予想だにしていなかった柊は一瞬何が起こったか分からず、彼が背を向けてしまってからようやく事態を飲み込んで、これ以上ないほどわたわたした。させられた、と言うのが正しいかもしれない。

「……私だってちょっとした仕返しくらい考えちゃうんですよぅ」

 思い出すだけで体温が上がる気がする。初めてのキスの味は檸檬味だとよく聞くけれど、ほんのりカラメル風味だったなぁなんて考えていると、恥ずかしさで額に汗まで滲んできた。

「あああぁ〜いけませんっ、もう本当にダメですーっ。これ以上思い出してたら倒れちゃいますよぅっ」

 言いながら火鉢の傍を離れ、布団へぼふんっと身を投げ出した。ひんやりした上掛けの感触が気持ちいい。熱い頬をすりすり擦り寄せ、汗ばんだ手のひらでぎゅっと握って、懸命に甘酸っぱい記憶を追いやろうとする。
 けれど思い出すまいとすればするほど、ますます鮮明にその時の光景が蘇ってきて、じったばったと脚をばたつかす。
 それでも浮かぶ彼の顔から逃れようと、布団の上をころころ、ころころ。夢中で転がるあまり、襖へどしんとぶつかった。
 痛みでちょっぴり落ち着きを取り戻した柊は、布団よりも冷たい畳の上で仰向けになり、見慣れた天井を見るともなしに見上げた。髪がさらさらと畳に溢れる音が、ほんの少し涼をもたらす。

「はにゃ……。……困りました、次はどんな顔して会えばいいんでしょうかー……」


 彼は、酔いに任せて口付けた柊をどう思っているだろう?
 落ち着いてくるとほのかな不安が頭をもたげる。
 自分だって不意打ちで口付けきたのだから、嫌悪感はもたれていないはず……。
 まだ熱い額に手を当てる。口付けたあと、柊はうとうとと眠ってしまったけれど、額に何かが優しく触れた気がした。あの感触はきっと、記憶違いじゃなければ彼の――

「……っ。も〜っ、思い出すたびに照れて考えられなくなってしまうの、なんとかなりませんかぁ……っ!」

 恥ずかしさのあまり誰にともなく喚いて、はふっと大きく息をつく。
 酔いに任せた、と言えば少々聞こえは悪いけれど。
 両想いになって以降、ろくに目も合わせられなくなってしまったほど照れ屋な柊にしてみれば、ちょっぴり『お酒の力を借りた』だけ。
 素面で彼と見つめ合い、自分から顔を近寄せるだなんて、今考えたってできそうもない。
 あの夜空のように深く澄んだ双眸と視線を交わすだけで、どうしようもなく頬が火照る。
 言葉少なに想いを告げてくれる唇が視界に入っただけで、胸が痛いくらいきゅっとなる。
 その唇が、触れたのだと思うだけで――

 唇をそっと指でなぞる。
 唇に残るぬくもりの余韻が指先から伝播して、身体の芯まで焦がれてしまいそう。こうしているだけで他の何も考えられなくなる。
 息が詰まるくらい切なくて苦しいのに、どうしようもなく甘い熱にいつまでも溺れていたい気もして。

(次は、ちゃんとキスを……)


「……はぅ。できるかしらぁ……」

 途方もなく遠い道のりに感じる。
 けれど、いつかはちゃんと……、と密かに決意していたら、気付けば手のひらどころか全身うっすら汗ばんでいた。

「はふ……ちょっとあついですねぇ。お水でも飲みましょうかぁ」

 綿入れを脱ぎ、廊下へ続く障子をからりと開けた。少し風をいれようと雨戸を開けて、柊は思わず声を大きくする。

「はにゃ……!? 雪ー!?」

 いつから降っていたのか、外は雪がはらはらと舞い、庭木もその向こうの森もうっすらと雪化粧していた。

「えぇー……おかしいですねぇ、だってこんなにあついのにー……」

 雪景色を眺めながら、熱帯びたままの頬を手でぱたぱた扇ぐ。
 そんな柊をよそに、雪は次々降ってきて、雨戸の隙間から入り込み爪先の上で溶けていく。

「これじゃあお出かけはできませんねぇ。お家でのんびり過ごすとしましょうー」

 呟いてから、やっぱり雪の中のお散歩も楽しいかもしれないと思い直す。
 さて、どうしようか。
 今日の過ごし方にあれこれ思い巡らせながら、柊は楽しげにカタンと音を立てて雨戸を閉じた。





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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【ka6302/氷雨 柊/女性/20/縁を絆へ】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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甘酸っぱい思い出にじったんばったんする柊さんのお話、お届けします。
重ねてご縁いただきありがとうございます。
重ねていただいて有り難いばかりですので、どうぞお気になさらず、ですっ。
貴重な出来事を2度も担当させていただいていたのですよね……感慨深いです。
改めて、大事な時間を書かせてくださりありがとうございました。
イメージと違う等ありましたら、お気軽にリテイクをお申し付けください。

この度はご用命下さりありがとうございました。

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2019年02月25日

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