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『HOPE 』
天間美果aa0906

 天間美果は妊婦である。
 優しい夫の枯れぬ愛情、医師と看護師の誠実、両者に守られて臨月を迎えた彼女であったが。
 彼女を収めた病室は、すでに彼女でいっぱいになっていた。
 実際はそこまでではないにせよ、ここへ踏み込んだ者なら全員がそう感じるはずだ。それほどに美果の腹は膨張し、空間を埋め尽くしているのだから。
 原因は知れている。
 誓約を結んだことで彼女の身にももたらされた英雄の大罪――“暴食”の影響だ。
 影響はそれだけじゃないわね。
 美果は息をつき、特製のベッド上で首をもたげる。視界のすべてを塞ぐその腹は、エージェントたちとの決戦を控え、その力を高めつつある愚神王のライヴスに“暴食”が反応していることによるのだろう。
 負けられない。ううん、負けない。
 腹の内に浮かぶ5つ子をこの手に抱くため、身動きすらおぼつかなくなってからも体を鍛え続けてきた。見えざる王のライヴスへ抗うように全力を込め、ライヴスを燃立たせる。
 抗って。抗って。抗って。
 いつしか美果は眠りに落ちていた。疲れ果てたのか、愚神王の魔手によるものなのか、それすらも意識できぬうちに……

 気がつけば美果は、病院のロビーにいた。
 受付嬢も行き交う看護師も、その顔は影に沈んではっきりとは見えない。ああ、これは夢なのね。そう思ってみたが、突き上げる焦燥感が彼女の思考を黒く塗り潰した。歩かなくちゃ! この子たちを無事に世界へ送り出して迎え入れるんだから!
 大きく膨れ上がった腹を抱え、1、2、3、数えながら足を踏み出していく。4、5、6、もっと歩かなくちゃ。7、8、9、もっともっともっと。
 いつしか周りの看護師が足を止め、美果に言葉を投げかけてきた。天間さん、もっと歩いてください。天間さん、まだ歩かないといけませんよ。天間さん天間さん天間さん天天間さ間天さ間んんさん。
 わかってる! わかってるから黙って見てて! あたしは負けたりしないから! 絶対にあきらめたりしない! だから!
 思わず耳を塞いでかがみ込んだ、次の瞬間。
 美果の顎がやわらかくも張り詰めたものに突き上げられて、彼女はそのまま仰向けに倒れ込んだ。
 なに!?
 確かめるまでもない。ガスを送り込まれた風船さながらに、腹が急膨張し始めたのだ。
 膨れゆく腹は看護師たちを壁に押しつけてすり潰し、やがて壁すらも押し割って、それでも止まることなく膨張し続ける。
「やめて――!」
 必死で叫んだが、止まるはずはない。彼女はすでに悟っている。この膨張は、なんとかごまかして心の底へ押し込めてきた、「母になることなどできないのではないか」という不安の発現なのだと。
 こんなに不安で……あたしは……
 崩壊する病院の外に拡がるものは虚無。
 その内を、美果は腹を抱きしめたまま、どこまでも落ちていった。

 かくりと頭が落ちた衝撃で、目を醒ます。
 どうやらダイニングのテーブルに腰をかけたまま、うたた寝してしまっていたらしい。
 怖い夢でも見たの? コンロに向かい、なにかを煮込んでいた夫が気づかわしげに振り返る。
「なんでもないわ」
 心配させたくなくて、美果は無理矢理口の端を上げてみせた。
 夫はコンロにかけていた鍋をテーブルの上に置き、それはよかったと息をつき。
 今夜はごちそうを詰め込んだ鍋を用意したよ。これなら君も、いくらでも食べられるだろう?
 途端、ダイニングキッチンににおいがあふれ出す。バニラアイス、肉、ミルクチョコ、魚、生クリーム、ブイヨン――混ざり合っているはずなのにひとつひとつが猛烈に主張してくる、甘くて辛くて生々しい悪臭。
「やめて」
 かぶりを振る美果へ、夫は泡立つにおいの塊を盛りつけた椀を指しだしてくる。どうしたんだい? 僕はこんなに君のためを思っているのに、それが受けられない?
 と。美果の腹が膨張を開始した。「夫の気づかいはいつだって的外れ」であることへの憤りが、どんどん膨らんでいく。
 こんなことを思ってしまうのは全部あたしのせいなのに……あたしが……
 夫を押し潰す感触にどこか安らぎすらも覚えながら、美果は再び顕われた虚無の中で意識を手放した。

 机に突っ伏していた顔を上げる美果。
 そこはエージェントである彼女の詰めるオフィスであり、彼女と同じ黒スーツに身を固めた同僚たちが忙しなく行き交っていた。
 こんなに活気があったかしら?
 膨らんだ腹をさすり、美果は小首を傾げる。それぞれをアルファベットのひと文字で呼び合う同僚たちは、常になにかしらの事件の解決に駆り出されていて、オフィスにはひとりか、せいぜいふたり残っているくらいなはずなのに。
 と、ここで同僚がコーヒーを差し出してきた。仕事熱心なのはいいが、そろそろ産休の時期なんじゃないか?
 砂糖とクリームをたっぷり混ぜ込んだ褐色のインスタントコーヒーは、美果こと“M”の愛した非常食である。仕事の前に食事を摂ることは難しかったから、動きが妨げられぬ程度のカロリーを手軽に体へ入れるため、飲んでいた。
 飲んでいた? 今、あたしはエージェントとしてオフィスにいて、これから出動するんでしょう? 出動。出動って、どこへ?
 あわてて事務机の上を探ってみたが、彼女を導いてくれる依頼書はどこにも存在しない。どういうこと!? あたしはエージェントM! どんな依頼だってこの手で――
 どくり。跳ねた腹がそのままに膨れ上がり始める。「失くしてしまったあるべき未来」への悲哀によって、限りなく、限りなく、限りなく。
 あたしがいちばん大切なものは、この子たちじゃなかったの? あたしの……
 暗転。

 美果は病院のベッドにいた。
 ああ、でも、わかるの。これも夢の続きなんだって。身勝手な不安と憤りと悲しみの次に、あたしはあたしのなにを突きつけられるの?
 たまらないほどに膨らんだ腹を抱え、彼女はベッドから起き出した。現実では寝返りを打つことすらままならない体が、こうして動く。辛いばかりの夢の中、そればかりはありがたい。
 外を目ざす彼女に、誰かが問う。美果はどうしてそんなことを思うの?
 あたしは、エージェントっていう在りたかったあたしよりも夫の愛に報いられる妻になりたくて、この子たちの母親になりたいから。
 じゃあ、安静にしてそのときを待つべきでしょ? どうして外に行こうとするの?
「この子たちに、広い世界を見せてあげたいから。あたしとあの人とみんなで生きていく、新しい戦場をね!」
 問うていた声音がやわらかく笑む。
 なら、呪いはあたしが連れて行くわ。あなたのそばにいられなかったことだけは喰い――じゃなくて、悔いが残るけど。これがあたしが美果に残していける、精いっぱいの祝福よ。
 美果は離れゆく声音の主が、彼女と共に在った英雄であることを悟る。ありがとう、さよなら。そんなことは言わない。あなたはあたしの片翼。たとえ離れていたって、あたしたちはふたりで“あたし”なんだから。
 腹の内から笑い声が聞こえる。1、2、3、4、5。皆わくわくと高い声をあげて、美果を促した。行こう、この夢の先へ。
「ええ、みんなで行くわよ。明日に」

 目を醒ました美果は笑みを浮かべ、腹をやさしくなでた。
 確かに普通よりは大きく膨らんだ、腹。しかしそれは異様ではない、5つの命を収めていればこその大きさを映す腹だ。
 変わらず身の内で渦巻く不安と憤りと悲哀。しかしもう、彼女がそれに傷つけられることはないだろう。
 はち切れんばかりに膨らんだ希望を掌に抱え込んで、彼女は静かに唱えた。
「おはよう、あたし」


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【天間美果(aa0906) / 女性 / 30歳 / マザーM】
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2019年04月04日

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