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『雪解けはまだ少し先の話』
アンネローゼ・マーラーla0135

 走る。ひたすらに地面を蹴って、前へと進む。目の前の景色は徐々に移り変わっていくのに、何故か前進しているようには思えず焦燥感ばかりが募っていった。自宅兼アトリエとして借りている古民家を脇にすり抜けて、教会を通り過ぎ。瞬間に街並みがガラリと雰囲気を変える。一秒ごとに積み重なる疲労と、懐かしさの一言では収まらない複雑な想いが混ざって短く引き攣れた喘ぎが唇から零れ落ちた。歩幅がだんだんと狭くなっていく。振り返るのを躊躇いながらも気にせずにはいられなくて背後に顔を向けかけた時、ショーウインドウに映る自らの姿が目に入った。年端もいかない少女の頃の自分がそこにいる。ガラス越しに母の袖を引き買ってほしいとせがんだパステル調の絵の具が飾られているのが見えた。それに気を取られて躊躇をすれば、足は縺れバランスを保てなくなる。膝や咄嗟についた手のひらに鋭く痛みが走り、首から下げたメダイが石畳に擦れる音が聞こえたが、それを気にしている余裕なんてなかった。
 上体を起こして振り返れば、ずっと迫ってきていた巨大なシルエットが直ぐ目の前にあった。碧色の瞳がギラつき、自分と違って然程息を切らしていない口がゆっくり開かれる。聞きたくないと思った。例えそれが、己の頑なな心を溶かすような優しい言葉だったとしても。だから。
「――やめてっ!!」
 喉の奥から迸る声が世界の全てを切り裂いた。

 目を開けばうっすらと差し込む太陽光が眩しくて、アンネローゼ・マーラー(la0135)は一人眉根を寄せてブルーグリーンの瞳を細めた。布団を抱き込むように寝返りを打ちつつ小さく唸り声をあげる。
 夢というのは往々にして益体もなく、けれど現実と無関係かといえばそうでもない。だってそれは自分の心の延長線上にあるものだ。いち人間の脳が持つ情報なんてたかが知れていて、そして記憶や感情を整理する為の機能とも言われる。だったらあんな夢を見てしまうのも当然のことと、アンネローゼ自身納得せざるを得ない。
 ライセンサーとフォトグラファーの二足の草鞋を履くアンネローゼにとって貴重な休日。何も考えず寝て過ごすのも悪くないと考えていたが、今二度寝したところで良い夢を見直せるとは思えない。頭も冴えてしまったので仕方なしに上体を起こした。それでもふわ、と欠伸が一つ零れる。
 着替えて顔を洗ってと一通りの身支度を整え、朝食とも昼食ともつかない中途半端なご飯を用意しながら空いた時間で庭に出て池の魚に餌やりをする。ぼうっと水面を眺めてから周囲に目を向けた。庭の手入れはまだ暫くは大丈夫そうだ。しかし蔵をアトリエとして使い一部は一般開放もしている手前、半端な状態を晒すのも――と、顎に人差し指を添えて思案した。ライセンサーとしての仕事は言うまでもないが、写真を撮るのもまず目的地への移動が大変だし、奇跡的な瞬間を目撃するまで何時間も留まり続ける忍耐力も必要だ。心身の疲弊はどちらも決して少なくなく、時間のある日でないとなかなか手をつけられないのが実情で。しかし趣味兼勉強の一環に日帰りで小旅行もと誘惑が目の前にぶら下がった。やりたいことが多過ぎて、時間も体力も追いつかないのは贅沢な悩みだ。しかし反面で目下の物事に没頭し、現実逃避をしている感もある。
「……だからあんな夢を見ちゃうのかなぁ」
 呟き、あははと乾いた笑い声を零す。パンが焼きあがったことを告げる音が鳴って、アンネローゼはしゃがんだ状態から立ち上がり、ついでに大きく伸びをした。石の上でしっかり重心を保って身体の硬さを抜いていく。そっと目線を上げて見た空は先程と違い、薄曇の不安定な色をしていた。

 ご飯を済ませた後、目につく箇所の雑草取りだけして家から出た。カメラストラップと夢の中と同様にメダイのかかったペンダントを下げて、鞄にはスケッチブックや筆箱も一応。途中教会に立ち寄ってから駅に向かい、路線図を前に目を閉じるとクルクルと指を動かす。そうして指先が止まった場所を目指して電車に揺られた。
 規則正しい揺れと春の陽気がうつらうつらとアンネローゼを眠りへと誘う。隣に座った人の体重で座席のクッションが深く沈んだ時、ふと横に目を向けて一瞬驚いた。
(偶然鉢合わせるなんて早々ないもの)
 この街の周辺に住んでいる人間の数を想像すれば可能性は限りなくゼロに近い。あの時は緊急性の高い依頼で、ライセンサーという前提に時と場所の条件が加わっていて。だからまだ確率的に高かった。それだけの話だ。そっと息をついてさりげなく隣の男性に向けていた視線を外す。
 今は問題なく自制出来るが、子供の頃は落ち着きがないと評される子供だった。自他共に認めるマイペースな性格なのにそう言われたのは自分の目の前で起こる素敵な光景を見逃したくないからだ。写真と違って想像でも描くことは出来るけれど。全くの空想よりも現実を脚色した物の方が好きだった。うずうずする手で膝の上のカメラに触れる。鮮やかに甦りかけるまだ消化しきれない過去を息と共に飲み込んだ。
 電車は前へと進む。時も流れ続ける。

 アンネローゼが電車に乗る前に検索した場所――とある植物園に辿り着いた頃にはちょうど、くすんだ水色から茜色へ空がグラデーションを描き始めていた。レンズを向けて空を一枚切り取った後、入口で貰ったパンフレットを手に、園内をさくさく歩いていく。見頃には少し早い為、目的地に近付くにつれて観光客の姿が消え、ほんの少しだけ置き去りにされたような心許なさを感じた。
 藤棚の紫が風に揺れて、香りがほのかに鼻先を撫でて通り抜ける。満開になれば多くの人がその美しさを求めて訪れるのだろう。しかしその瞬間を前に後少しと頑張っている現在の姿にだって、違う魅力があるとアンネローゼは思う。植物も動物も人もピーク以外無価値ではないのだから。何事にも良い面と悪い面の両方が存在し、見る者によって意味を変える。
「――バカ兄貴も、多分」
 彼には彼の、選択した意味があった。頭では理解しているし、嫌いにはなれないけれど。向き合うのを避け仕事を済ませた矢先に逃げ出した。自分なりに兄への感情を咀嚼したらそれには、許せないと名前が付くのだろう。同じ一日なんて有り得なくて、死んだ人間は戻らなくて。天国に旅立つその前に顔を見せてほしかったと思うのは傲慢だろうか? そんな風に考えると感情がぐちゃぐちゃになる。
 逃げる夢は逃れたい心理の表れ。相手は言うまでもない。本人が出てきたのだから。夢の中の像がやけにホラーじみていたのは――単純に彼が長身で体格も良く、背が高めのアンネローゼから見ても結構な威圧感があるからか。あれで目つきが悪かったら完全なる悪人だ。
「実際はああ見えて全然頼りないけど」
 お人好しとも言える。いっそ絵に描いたような非情さを持っていたなら嫌いになれたのにと責任転嫁して、少しだけ笑う。
 しゃがんでカメラを掲げ、空と藤棚の両方をバランスよく配置してシャッターを切る。写真に収まるのはほんの一部に過ぎないが。人間の眼も同じかもしれない。見えるのは見たいものだけ。
 手は絵を描きたいと疼く。スケッチくらいなら描いてもいい。
 ――いつかまた、ちゃんと向き合う。
 どちらに対して思ったのか分からないまま、アンネローゼは別の画を求めて園内を色々と歩き回ることにした。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
どストレートに記載されていたリプレイの一つから
お兄さんとのあれこれについて触れさせていただきました。
過去に言及しているので暗めの雰囲気になってますが
解釈違いになっていたら本当に申し訳ないです。
古民家暮らしとのことだったので、普通にがっつりと
日本に住んでいるっぽい雰囲気にしちゃったんですが
その辺りも大丈夫でしょうか……。
今回は本当にありがとうございました!
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グロリアスドライヴ
2019年04月12日

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