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『今も呼吸をしている 』
空月・王魔8916

 壁へ叩きつけられる衝撃に舌打ちする。直ぐ側からは己の名を叫ぶのが聞こえた。らしくもない切羽詰まった声だ。自分と彼女の繋がりなんて以心伝心と呼べるほど強固なものではなく、ただ一緒に過ごす時間だけは積み重なっていく。居心地は決して悪くない。所詮それだけの話。だから。
(そんな声を出すな)
 幾ら何でも死にそうには見えないだろうに。思うと自然、空月・王魔(8916)の口元に笑みが刻まれた。遅れを取ったことに対して焦りも強敵と相対した興奮もなく冷静に状況を探る。敵と彼女の位置、そして動こうとしている方向。腕の動作や呼吸の荒さに至るまで隻眼の視覚ではなく、他の人間には備わっていないもう一つの眼で捉えられるのが王魔の大きな強みだった。
 脅威を取り払う為の武器を番え、呼吸する。気を循環させて痛みを押し流す。矢尻は敵の動きを先読みし、さながら王魔が誘導して自在に操っているようですらあった。
 ――正射必中。心が矢のように真っ直ぐと伸びているのならば、撃ち損じることは有り得ない。
 弓の適正距離を敵が踏み越えようとも、恐れるものは何もない。感覚は少しずつ遠ざかりつつある過去へと立ち戻って。
 風を切る音が耳を掠め、間もなく言葉にならない悲鳴が迸った。

 実体を持たず、寿命という軛から解き放たれた霊的な存在より。地位や名誉、一度手に入れた悦楽をくれる何か――究極的にいえば命――に執着する生物の方が厄介だと王魔は思う。それは日本に腰を落ち着けるまでに見てきた、ありとあらゆる者の目が物語っていた。己の正義の為にその手を汚して笑う者。身を守ろうと止むを得ず抵抗し、招いた結末を受け入れられずに狂う者。メディアでは神様気取りの権力者が瞳を三日月に歪ませて笑う。そして自らが盤上の駒になれば情けなく悲鳴をあげ、それでも他者を蹴落とし助かろうと必死になった。日常と非日常は隣り合わせで、いつ自分や身の回りの人間がそちら側に入ってしまうか分からない世界。子供の頃はそれが当たり前だと思っていた。
 逃げられないのよごめんねと母が悲しそうに眉を下げて抱き締めてくる。違う体温は次第に同じ温かさへと変わる。この悲惨な状況を見て少しでも多くの人が何か感じたら必ず時代は変わるさと、理想を語る父の眼差しは本気だった。当時は分からなかったが、今ならその意味が理解出来る。そうして二人とも土煙と硝煙の匂いの中で苦しみながら、最愛の子の身を案じて死んでいった。生まれ故郷にいた時に奪われたのは家族だけではない。
 鏡の前で眼帯を外して、長く伸びた前髪を掻き上げる。咄嗟に目を閉じても瞼の厚みなど高が知れていて、痛みを飲んだ眼球はその機能を失って只の飾りになった。無事を保つ左眼と比べれば美しいなどと表現出来るものでもないが。
 蛇口をひねり、顔を洗って、下ろしたてのタオルで水分を綺麗に拭き取った。眼帯を付け直して位置を整える。洗面台の隣にある窓からはノイズのような雨音が漏れ聞こえ、洗濯物をどうするべきか憂慮する。同居人は王魔を家事手伝いも兼任していると揶揄するがそんなことはない。ただ隻腕だと暇を持て余しているとはいえ両腕を使える自分より何倍も時間がかかるから。雑事もスマートにこなすに限ると、役割分担をしているだけだ。最初はどちらがマシか分からないレベルの手際の悪さだったのが、いつの間にやら考え事をしつつ手癖で出来るようになってしまった。人間の慣れというやつは恐ろしい。何せ片眼を失ったことも当たり前になるくらいだ。常人ならざる能力が備わっていた為に同じ状況下に置かれた者よりも生き易いというのもある。
 家の中はしんと静まり返り、王魔の呼吸と衣摺れの音、雨音以外には特に何も聞こえない。同居人もとい家主兼雇い主は行く宛のない自分をわざわざ誘った程度には饒舌で、しかし賑々しいタイプでもなかった。――ああいうのを場の空気が読めるというのか。相手が触れられたくないと思っている部分には踏み込まず、自ら破滅の道を歩もうものなら手を差し伸べる。彼女の“観察眼”は人智の埒外で、素姓や本心を隠したい人間には忌避の念を抱かせた。王魔は特別隠したい事柄などなく、知り合う契機になった出来事の頃に過去も明かしている為、真正面に座って食事しようが何とも思わないが。ただ家事を頼んで、嫌そうな顔をしているこちらを見て微笑むのはやめてほしい。楽しいからやっているわけではないのだ。彼女にはそれが判る筈なのに。
 ボディガードとして雇われた身ではあるが四六時中側にいろとは言われていなかった。実際、日常生活はおろか怪異と対峙する時でさえ互いに単独行動を取ることも度々だ。だから少し出掛ける程度なんてことはないのだが。
 鏡に映る自分はにこりともせずにこちらを見返す。普段より雑だったせいで、濡れた前髪が額や頬にうっすらと張り付いていた。常人の半分しかない視界を遮らないよう軽く整える。
 思考に割く時間は一分未満。踵を返すと、足は迷いなくキッチンの方へと向かう。洗濯物の処理はとりあえず後に回して、食事の用意を優先した。王魔の物になった時点では一応新品だったスリッパはすっかりくたびれていて歩き辛いことこの上ない。それほど使っていない筈だと記憶を辿るが、特別印象に残っていなかった。そういえばと思い立ちキッチンに入るなり冷蔵庫を開ける。今作る分はどうにかなるにしろ、今日中に買い足さなければ明日は犬の餌も同然の代物しか出来なさそうだ。小雨が降っていて雇い主は珍しくも隠遁者の自称に恥じない引きこもり状態。憚らずにいえば煩わしい状況だが。
「……嫌いではない、な」
 そんな風に思ってしまうのは毒されているからか。ぽつりと零して食材を幾つか取り出す。故郷で独りになった後は自主的に調理を行なうのが当然だった。選り好みなんてしていられず、しかしだからこそ当時から味にはこだわりを持つようになった。いつ戦闘の火蓋が切って落とされるか気を張り、命を繋ぐ為ならば武器を手に取ることも辞さない。女で早熟だったゆえに余計な厄介事を背負い込む羽目にもなった。そんな中で食事は唯一の楽しみであり、不味い料理は生存意欲を失わせる。日本ではレトルトだのインスタントだので手軽に美味しい物が食べられるのだからやはり、自分がやる必要はないと思いつつ。やめると言ったら雇い主はどんな顔をするだろう。キミの好きにすればいいと普段通りに受け流すのか、あるいは――。
 水洗いしたり包丁の刃を通したりと、黙々と単純作業をこなしながら昨夜の出来事を振り返る。庇った時、自分のそれよりもやや緑がかった瞳に走った動揺は一瞬。その後いつも通りの顔で手を差し伸べ、王魔も何も言わずに応えた。右眼こそどうにもならなかったが、大抵の怪我はじきに治る頑丈な作りだ。今はもう、何事もなく生活している。なのに未だ引き摺っている? ――まさか。
(私たちはそんな仲じゃないだろう?)
 心中で言って、胸に手を当てる。ちくりと刺すような痛みにシャツを握った。いい加減アイロン掛けをしなければと所帯じみたことを考えて、直ぐに頭の中から追いやった。
 食事が完成したらあいつの部屋に行って、駄々を捏ねるようなら温かいうちに食べろと首根っこを掴めばいい。そんなことを思いながら、王魔は味噌汁から漂う湯気にそっと目を細めた。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
お二人がどれだけの付き合いなのかは判りませんが、
はたから見ていてもそれほど仲が良いように見えないし
本人たちも仲の良さを言動で伝え合うわけでもない、
でもお互いに必要な存在だと内心認め合ってもいる……
というようなイメージで自由に書かせていただきました。
王魔さんの過去にも少し触れてますが大丈夫でしょうか。
今回は本当にありがとうございました!
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りや クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年04月16日

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