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『かつて呼吸を止めていた 』
剱・獅子吼8915

 初め聞き間違いか疑うほど小さかった雨音は急速に大きくなっていった。どうやら風向きが良くないようで、ちょうど部屋の窓――それもベッドの直ぐ脇にある方を叩くように降っているのでひどく耳障りに響く。深夜に怪異と戦って帰ってきた後、同居人ともさして言葉を交わさずに自室へと引き篭った。腹が減っていたが食欲は湧かず、読書などもする気にはなれず。ベッドに横たわって瞼を閉じれば、眠気が直ぐ目の前に忍び寄ってくる。しかしそれは枕元に立つに留まった。白兵戦を得意とする自分にしては動き足りなかったのが原因だろうか。眠りたいと思いながら意識は覚醒し、同居人のように気配を探知する能力は持たないが、鋭敏になった感覚は周囲の物音へと引き寄せられた。雨音に混じって秒針が時を刻む。
 剱・獅子吼(8915)はまだ二十代も半ばに差し掛かる前の年齢ながらも、隠遁者として日々を送っている。しかししがらみを厭うのはむしろ若い人間の方がずっと多いだろう。持って生まれた世界の、その小さなコミュニティで己の人生と将来に絶望するなんて状況は世の中には数多溢れている。そして、その問題に一人で立ち向かおうとするのは至難の技に等しい。生きることを目的に据えるなら、現実から逃げてしまうのが最も無難な解決方法だ。
 眠れているのかも曖昧な状態で獅子吼の意識は虚像の入り混じった記憶を辿る。物心がつき、他者との関わりを持って初めて、自分の家が特別だと知った。それは苗字を名乗るだけで見知らぬ大人がこちらの顔色を窺うようになることだったり、家が用意した持ち物が見るからに周りと違う物だったり。間もなく両親が他界しても尚変化することはなかった。家に遺された血縁は兄と獅子吼の二人。歴史の長さ故に古い慣習も多く、年長者とそして男児を尊ぶ家柄だったので兄が跡継ぎになるのは火を見るよりも明らかだった。両親もその意向でいたと聞く。使用人たちは獅子吼を万が一の時の血を繋ぐ手段として確保したいと静観したが、一部の者は跡目争いの火種になることを恐れ排除しようとし、あるいは自ら実権を握ろうとして擦り寄ってきた。そんな水面下で混迷を極める状況から手を差し伸べ、救い出してくれたのは他ならぬ兄だった。大人の利己的な思想から獅子吼を遠ざけ、時には両親のように振舞う。兄は要領の得ない自分の説明を理解しようと努め、そして常人には無い能力の存在を知っても変わらず、側にいて守ってくれた。獅子吼は兄を慕った。彼は暗闇に射す一条の光だった。
 感情さえも時にままならないのに、他人にはない感覚を正確に伝えるのは不可能に近い。だから兄も結果だけを見て、エスパーのように思っていたのかもしれない。実際には獅子吼の持つ“観察眼”は、もっと漠然としたものだ。普通の人間でも訓練すれば身につくような洞察力に、ほんのひと匙の直感が混ざっただけ。見ただけで相手の素性や接触してきた意図が分かるわけではなく、目で捉えた物に感覚的な結論を出すのだ。目は口ほどに物を言うの言葉通り、人間とは案外分かりやすく出来ている。嘘で本心を覆い隠そうとすればその綻びは必ず細部に表れ、見続ければ善悪の色がついた。そうして降りかかる厄介事を回避しているうちにいつしか、獅子吼の前では感情が筒抜けになると噂が立ち良き友人であった者までが離れていく結果を生んだ。
(――あの時)
 兄はどうだったのだろう。ふとそんなことを思う。刀を手にし、静かに構えるあの日の姿が脳裏で鮮明に蘇った。両親が亡くなったのは遠い昔の話で、当時の自分は無知なただの子供で。だからいつまでもずっと一緒に居られるものと思い違いをしていた。永遠はあると馬鹿な夢を見ていた。一番の理解者だと信じてやまなかった彼と袂を別ち、悲しかったが、同時に自分が考えているより人生とは何とかなるものなのかもしれないと大部分を失った左腕を見下ろしながら思ったのをよく憶えている。
「この傷も今や、当たり前だな」
 小さくうわ言のように呟いて、自らの顔に右手を伸ばした。指は眉間から左頬にかけ斜めに刻まれた刀傷を辿る。地肌よりも少し赤みがかって盛り上がったそれは、回復力の高さのお陰で苦痛を感じたのは極短い間だったが、笑うと引き攣れる感覚に慣れるのには苦慮した。隻腕の不便さも今は、家事の大部分を担ってくれる同居人がいるので、むしろ甘えるのに利用している感が否めない――そう思うくらい気にしていない。
 兄が亡くなり家の全てを自由にする権利が自分に回ってきた時、良くも悪くも大人になっていたがそれでも誰を贔屓しただの何をすべきだのと周囲に剱家の当主として型に嵌められるのだけは我慢がならなかった。全権を放棄すると宣言し、事前に弁護士に用意させた書類を叩きつけた際の使用人たちといったら――顔には出さず、笑っていた。宙に浮いたおこぼれに群がった。
 実家を出て、もう戻ることもないのだと実感して。ふと思い立って電車に乗り込み、知らない駅で降りた瞬間に世界の色が変わる。獅子吼の周囲を歩く人々は皆、無関心だった。人目を引く姿ではあるが、視線を感じたのはほんの僅か。哀れむでもなくただ少し変わった人がいるとそれだけだ。その興味のなさは優しくて、世界の広さを思い知った。地位と金に覆い隠された自分という存在が初めて呼吸をしたと、そうに思うくらいに。
 一人気ままに生きるようになって、それも当たり前になってくると飽きを感じた。その矢先に出会ったのが同居人だ。
 ――良かったらキミ、うちに来る気はないかい? この通り、私はああいう手合いを相手にして食い扶持を稼いでいてね。キミは弓矢を使うだろう。それで援護してくれるとこちらとしても非常にやり易い。勿論、食うに困らないだけの給金は支払うよ。……ああでもそれはキミの働き次第かな?
 言い募っても彼女は仏頂面を崩すことなく、それでも考える素振りでいたので獅子吼もほんの少し期待と不安を抱きつつ返答を待った。半分異国の血を引く彼女とは血縁関係では有り得ない。しかし異能の出自は同じではないか――そう考えるほど似ていた。だから情が湧いたのだと思う。
「……いや、違う」
 興味を持ったのは図らずも共闘する流れになったその前。本当の初対面の時に彼女が、真っ直ぐに自分を見返したからだ。彼女の視線はただ事実を確認するように左腕と顔の傷を追った。雑踏が獅子吼の容貌に無関心だったのは名前を知ることも関わりを持つこともない相手故で、しかし彼女は違う。いっときでも時間を共有する人間が気にならないはずがない。後で聞いた彼女の出自を思えば尚のこと。なのに一つだけの瞳を向けて、ただ一人の人間として向き合った。そんな彼女を見て気付いたのだ。
(私は誰かと一緒にいたかった)
 付かず離れず側に居てくれる人が欲しくて差し出した手を、彼女は握り返してくれた。今日自分を庇って血塗れになったのを見て、失う可能性に恐怖を覚えたのは悪い兆候か。それとも――。
 コンコンと普段よりも遠慮がちに扉を叩く音がする。ついで名前を呼ぶ声。顔が見えないから“観察眼”は使えないが、声のトーンで心情を察する。それだけの月日が流れていた。
 身じろぎ、右手をついて上体を起こす。痺れを切らした同居人に怒られる前にと、獅子吼も名前を呼び返しそして、伝えたい言葉を探し始めた。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
ほとんどセリフもなく過去を振り返る形ではありますが
しがらみを嫌い財産を放棄するほど周囲の環境が酷かったのかなとか、
だったら観察眼で見えたものも悪い感情がかなり多かったのかなとか
思いながら、獅子吼さんが今の生活に落ち着くまでを考えてみました。
これだけ傷を負わされてもあまり気にしていないということは
お兄さんのことが好きなんじゃないかと思い、かなり好意的にしています。
今回は本当にありがとうございました!
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東京怪談
2019年04月22日

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