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『生きる音、花弁の音。 』
八瀬・葵8757

 八瀬・葵(8757)は久しぶりに外の音に触れていた。
 彼は極端に人との接触を避けてきた時期がある。自分の持ち合わせる能力の為に、そうならざるを得なかったという顛末だ。
 かつては、歌手になりたいと思っていた。その為に大学にも通っていたが、中退した。自作の歌唱曲により、死者を出してしまった為だ。
 それ以来、葵は自分の殻に籠りがちになり、他人とのコミュニケーションも取らなくなった。
 だが、そんな葵にも救いの手を差し伸べてくれる存在が数人いた。彼らのおかげで闇に落ちることは無く、最近では以前より他人の音に惑わされなくなった。
 救いの手の恩で喫茶店のバイトを続けていられることが、大きいのだろう。
「……まぁ俺も、成長したってことだよね……」
 思わずの独り言が漏れた。
 ピークを過ぎた桜並木を見上げての、小さな響きだった。風に乗り、ハラハラと舞い落ちる花弁を見て、意識が遠のく感覚を得る。
 息吹そのものが音として葵に届く。少し前までは雑音でしかなかったそれは、心地良いとすら感じるようになった。
 人の生み出す音は今だに『煩い』と感じる。それでも、悪いものばかりではない。優しくも厳しい喫茶店のマスターとその妻子、とある組織のエージェントの青年、そして護衛と謳い自分の前に現れた遠い記憶の遠い兄と見た目は子供でしかない祖父。接点がなさそうに見えて、どこかしらで繋がっている。奇縁とも言える人々のその『支え』に救われてきた。葵にとってはその誰もが大切な存在だ。
 出会わなくては、きっと自分はダメになっていただろう。自作のあの忌まわしき曲がばら撒かれ、悪人と化していたかもしれない。『虚無の境界』の思惑通りの自分になっていたかもしれない。
 そう考えるだけで、ぞっとした。
 絶望の音は、いくらでも広げられる。自分の心の音、他人の恨み言、世の中すべての負の感情。
 葵はそれら全てを、音という形にすることが出来る。だが、自らは望みはしない。
「そうだ……俺はもう、一人じゃない……」
 自分に言い聞かせるかのようにして、葵はそう呟いた。そして心の中でも何度も呟いて、飲み込む。
 結んだ縁は出来るだけ大事にしたい。最近の葵が特に思うことがこれであった。
 何も無かったあの頃、何も無いと思い込んでいたあの頃とは、違うのだ。
「…………」
 言葉なくもう一度、宙を見上げた。桜色の雨が視界をよぎり、目を細める。
 世界はこんなにも美しい色に溢れている。
 だから尚更、これ以上の心の闇を広げるわけにはいかない。自分が見つけられるだけの美しい音を、探して受け入れていけなくてはならないのだから。
 桜の花びらは、そんな彼の背中を押しているかのような気がして、その場で小さく笑った。

 ――ピリリリ……。

 ショルダーバッグから、スマートフォンが鳴る音がした。
 葵は無言でそれを取り出し、画面を確認して溜息を吐く。
「……もしもし」
『――……』
「大丈夫、何もないよ。もう戻るから」
 護衛として同居している義兄からだった。外見的な冷たさとは裏腹に、過剰な過保護でもある彼には様々な事情がある。
 分かり切っているのだが、たまに一人きりになりたい時もあり、それがこの瞬間でもあった。
 だからこうして一人で桜を見ていたのだが、こっそりと部屋を抜け出してきたのがバレて、電話をかけてきたらしい。
「マンションの近くの桜並木だよ。――うん、黙って出てきてごめんって……今、もうエントラスだから」
 葵は少しだけ呆れ顔になりつつ、言葉通りに移動して住んでいるマンションのエントランスへと入ってきた。そこで何とか義兄を言い含めて、スマートフォンを切る。
「……説教、長いんだよなぁ……」
 ぽつり、と本音が漏れる。
 戻れば兄の小言が待っている。だがしかし、やはり黙って出てきた事はルール違反であるし、そこはきちんと謝らなくてはならない。そして彼のその響きは、本音といえども嫌がっている音では無かった。
 そして、彼は無言でエレベーターのボタンを押す。
 降りてくる籠に乗れば、自分はまた少しだけ非日常な時間に戻される。少し前まではそれにすら悲観を覚えていたものだが、抵抗もなく前向きな気持ちになれる今の現状はやはり良い傾向なのだろう。
 ――ポン。
 頭上でそんな音がして、目の前のエレベーターの扉がゆっくりと開いた。
 葵はそのまま、一歩を進んで籠に乗り込む。
 彼が着ていたジップパーカーのフード部分から、ひらり、と何かが舞った。
 それは先ほどまで見上げていた桜の花びらだった。
「…………」
 静かに舞う『音』を、葵は確かに聞いた。言葉なくゆっくりと振り向いた彼は、小さな花弁が床に降りるまでの数秒を見届けてから、エレベーターの扉を閉じるためのボタンを押したのだった。



━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

この度はご指名ありがとうございました。
少しでも気に入って頂けましたら幸いです。
東京怪談ノベル(シングル) -
涼月青 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年04月22日

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