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『24時間戦えますか』
松本・太一8504


 人間は、疲れると死ぬ。
 過労死だけではない。身も心も疲れ果てている時、例えばそこが駅のホームであったりしたら、何も考えずについ線路に飛び込んでしまいたくなる。
 幸い、ここは駅ではなく公園だ。
 ベンチに座り込み、背もたれに身を預け、栄養ドリンクを啜りながら、松本太一(8504)は木を見つめた。
 良い感じの大木が、近くに立っている。
 今、手元にロープがあったら。その頑丈そうな枝に結び付け、輪を作っていたかも知れない。いや、ベルトやネクタイでもいけるか。
「……まあ、やりませんけどね」
 ぼんやりと呟く太一に、1人の女性が語りかけてくる。頭の中からだ。
『死にたいの? 許さないわよ』
「屋上から飛んだくらいでは多分、死ねませんよね。私は」
『誰かにいじめられているのなら、死ぬ前にやり返しなさい』
「……そういうわけでは、ないんです」
 姿なき女性と、太一は会話を始めた。
 疲れきった、痩せぎすの熟年サラリーマンが、公園のベンチで見えない誰かと話している。はたから見れば過労の末期症状である。通報されるか、救急車を呼ばれるか。
「私の勤める会社にはね……いじめられたわけでもなく御家族もいるのに、疲労から来る一時の気の迷いで自殺してしまった人が大勢いまして。今の私は、彼らを責められません」
 言いつつ太一は、ぼんやりと気付いた。栄養ドリンクの瓶が、いつの間にか空になっている。
『そんなものより、もっと効く……回復手段があるわよ』
 姿なき女性が、言った。
『言うまでもない、とは思うけれど』
「あれ、ですか……」
 太一は、頭を掻いた。
「私には結局、あれしかないと……」
『恥ずかしいとか格好悪いとか今更、思っているわけではないでしょうね?』
「取引先で……衆人環視の中、土下座をした事もありますよ。あれに比べればね」
 虚ろに微笑みながら、太一はベンチから立ち上がった。
 立ち上がった身体が、痙攣し、仰け反った。
「なっ何か……呪文が、必要でしょうか? 営業トークのロールプレイングなら、即興で出来なくもありませんが……」
『今はそういうものは忘れなさい。貴方はね、営業から事務へ異動するのよ』
「はい、どちらも大切なお仕事です……」
 ぼんやりと空を見つめる自分の顔が、瑞々しく若返ってゆくのを太一は感じた。くたびれた48歳の男が、30代、20代の青年に……否、青年ではない。
 年齢の割に肥満していないのがせめてもの救いである胴体が、さらに引き締まり、くびれてゆく。一方、胸の辺りでは、何やら重いものが膨らみ揺れているようだ。
 その膨らみを包み込んでいるのは、男物のワイシャツではなく女物のブラウスである。全身がキラキラと光をまとい、その煌めきの中で衣服が変異してゆく。
 ズボンも、いくらか短めのタイトスカートに変わっており、そこから形良い左右の太股がむっちりと現れている。
 外からは見えないが下着も全て、ランジェリーに変化しているのが感触でわかる。
 世の中を不必要なまでに知り尽くした熟年サラリーマン、ではなく希望に満ちた新人OLが、そこに出現していた。
「ん〜……リフレッシュしたい時は、コレに限りますねえ」
 純白のブラウスもろとも上向きに胸を揺らして、太一は伸びをした。
「何かもう、いけないお薬を決めちゃった気分です」
『そんなものより効くわよ。さ、お仕事に戻りなさい』
 姿なき女性が、太一の中で言った。
「貴女の変化に合わせてね、世の中の……会社の状況環境も色々、書き換わっているから」


 給料は、まあ普通。基本的には定時に帰る事が出来て、どうしても残業しなければならない場合は手当が付く。
 おかしな上司もいない。セクハラの類もない。俺の知る限りでは、だが。
 良い会社に入ったものだ、と俺は思う。就活の段階で、人生の運を使い果たしてしまったかと思えるほどに。
 何よりも。この会社には、天使がいる。女神と言ってもいい。
「おい、どうした。何ボーッとしてる」
 同僚が、声をかけてきた。
「この野郎。また松本さんの事、考えてたんだろ」
「ば、馬鹿野郎。声がでかい」
 そんな馬鹿話が耳に入った様子もなく、松本さんは事務仕事に没頭している。綺麗な指がキーボード上で軽やかに躍り続けるその様は、優雅に楽器を奏でているようでもある。
 新人OL、ではない。俺たちよりも何期か先輩で、我が社の才媛としてまず第一に名前の挙がる女性だ。
 気のせい、ではないと俺は思う。彼女がいてくれるだけで、仕事が上手くゆく。
 この前も、そうだった。外回りに行く時、松本さんが「頑張って下さい」と声をかけてくれた。
 いつも空回りしがちな俺の営業トークが、この日は良い感じに炸裂し、俺は取引先の偉い人に気に入られた。
 松本さん自身の能力を目の当たりにしたのは、その数日後である。
 俺がうっかりクレーマーからの電話を受けてしまい、辟易していた時、彼女が電話を代わってくれたのだ。
 声を荒げる事もなく、にこやかに朗らかに、松本さんはクレーマーを撃退して見せた。
 ト一クスキルなどという生易しいものではない。電話を通じて、人を言葉で操る。魔法にも等しいものを、俺は目の当たりにしたのだ。
「松本さんって事務だけどさ。営業やっても凄そうだよな。あのクレーム対応力、書類仕事ばっかさせとくのはもったいねえよ」
 同僚が、小声で感心・熱狂している。
「バリバリ出世して、俺の上司になってくれねーかなぁ松本さん。あの綺麗な声で命令されたら俺、何百時間だってサビ残しちゃうよ」
「俺たちの上司に、か……」
 おかしい、と俺は思った。
 松本さんという人が、もう1人いたような気がする。俺の、上司と言うか先輩に。
 入社したての俺に、仕事を色々教えてくれたのは誰であったか。
 俺のやらかしを、一緒に謝ってフォローしてくれた人が、確かにいたような気がする。
 見ただけでわかる万年平社員。
 才媛・松本さんとは似ても似つかぬ、出世し損ねの熟年サラリーマンが、俺の脳裏で弱々しく微笑んでいるような気がした。


「つ……疲れましたぁ……」
 公園のベンチに、身を投げ出すように腰掛けたまま、松本太一は栄養ドリンクを啜っていた。傍目には、やや過労状態のOLである。
「そろそろ、元に戻りたいんですけど……」
『会社の人たちが困るわよ?』
 姿のない女性が、頭の中で言った。
『今の貴女がいるだけで、良い事尽くめなんだから。地震が来ても潰れないし、火事になっても燃えないのよ? あの会社、貴女がいるだけで』
「何か私、弄っちゃいけないもの無意識に弄っちゃってません? 因果律とか」
『何を今更、としか言えないわねえ』
「ですよね……」
 俯く太一の中で、姿のない女性が笑う。
『まあ、もう少し頑張って、男の松本太一を休ませてあげなさい』
「えっと、そういうシステムだったんですか? 片方が出てる間は、片方がお休み出来るっていう……それなら私、って言うか私たち、ずうっと働いてられますねえ」
 弱々しく、太一は笑った。
「ある時はサラリーマン、ある時はOL……社畜の完成形ですか? 私」
 などと自分で言っているようでは、いわゆる社畜には程遠い、と太一は思った。
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年05月07日

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