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『母帝降臨』
松本・太一8504


「どうも、こんにちは」
 松本太一(8504)が挨拶をすると、その夫婦は無言で会釈をした。訝しむような目を太一に向けながらだ。
 20代の、若い夫婦である。太一と同じアパートに住んでいる。太一の部屋は1階の端、夫婦の部屋は2階の中央だ。
 2人が階段を降りて来るのを、太一は待ち構えていたのだ。問いかけるために。
「ご夫婦で、お出かけですか。部屋に1人、お子さんを残して」
「…………あ?」
 男の方が、ギロリと睨み付けてくる。
 見つめ返し、太一は言った。
「子育てに行き詰まっておられるなら、しかるべき所へ相談なさった方が」
 そこで太一の言葉は詰まった。男の拳が、顔面に叩き込まれていた。
 鼻血を噴いて、太一は尻餅をつく。そこへ男が蹴りを叩き込む。
「余計な事はしなくていいんだよ、おっさんよ」
 48歳・熟年サラリーマンの痩せた身体を、男がガスガスと容赦なく蹴り転がす。
「俺らよ、半グレの知り合いとか大勢いるからよ。何かあったら人1人さらって山ん中に埋めたりとか簡単に出来るワケよ。言ってる意味わかるよなあ、なあ? なあ!?」
「早く行こーよー、そんなゴミほっといてさあ。いい台、埋まっちゃうよ?」
 妻に急かされた男が、ようやく暴行の動きを止めて歩み去る。
 血まみれで放置されたまま、太一は若夫婦を見送った。
「……手を出さずにいてくれて、ありがとうございます」
『とりあえず……怪我を治しましょうか』
 ある1人の、姿なき女性が、太一の中で言った。
『あんな連中、最初からいなかった事にも出来るのよ?』
「そういう安易なやり方には、出来るだけ頼らず……って言うか、これって怪我が治るって言うよりもぉおおお」
 鼻血にまみれた熟年男のみすぼらしい顔が、つるりと綺麗に若返ってゆく。
 痩せぎすの身体がさらに嫋やかに引き締まり、だが胸と尻周りはふっくらと肉感を増してゆく。
 うら若き『夜宵の魔女』に変化しながら、太一は立ち上がっていた。
「怪我が……最初からなかった感じになっちゃいますねえ。ま、それはともかく」
 太一は、2階中央の部屋を見上げた。
 あの部屋で今、1人の幼い子供が、栄養失調で死にかけている。
『安易なやり方で、いいじゃない』
 姿なき女性が、言った。
『魔女の力を使っての、安易なやり方でしか……救えないし守れないわよ、今は』
「ですよね……」
「あの、すみません」
 配送業者と思われる青年が、いつの間にかそこにいて声をかけてくる。荷物を抱えてだ。
「松本さんという方、こちらでしょうか?」
「あ、はい。このアパートで松本は、私1人ですけど」
「お届け物です。ハンコかサイン、いただけますか?」
 サイズは、いくらか大きめの通勤鞄といったところであろうか。感触で、恐らくは衣類であろうとわかる。
 どういう類のものであるのか、太一は大方を理解した。こういうものを受け取るのは初めてではない。
 それでも、受け取る以外の選択肢はなかった。このような危険物、一般人の配送業者に預けたままにはしておけない。
 それに。安易なやり方、以外の方法に、もしかしたらなり得る品物かも知れない。


 羽衣であった。
 いわゆる、天女の羽衣ではない。鳥の羽で作られた、文字通りの「羽の衣」である。
「着ると、鳥に変身出来る感じですね。本当に、それだけのものみたいです」
 取扱説明書のようなものが添付されていたので、太一は読んでみた。
「変化術式の魔力が籠もった……そこまでしなくてもってくらい本格的な、コスプレ衣装。まあ、いつもの事ですよね」
『着てみるの?』
 太一の中で、姿なき女性が呑気な声を発した。
『選択の余地が、あるようには見えないけれど』
「で、ですよねー。それもまあ、いつもの事……」
 羽の衣が、生ける猛禽の如く羽ばたき、太一に襲いかかっていた。
 アパートの一室が、またしても魔女の工房と化していた。松本太一という素材で怪物を作り上げるための、工房である。
 抗う事は出来ない。もふもふと全身を撫でる羽毛の感触が、太一から全ての抵抗力を奪っていた。
 心地良さの中で、全身がメキメキと変異してゆく。嫋やかな胴体が痙攣しながら柔らかく反り返り、豊麗な胸の膨らみが、悩ましげに揺れながら羽毛に包まれる。
 その胸を、太一は両手で抱いた。
 否、手ではない。翼である。優美な細腕の原形を僅かに残した、左右の翼。その間で、深く柔らかな胸の谷間が出現している。
 いささか育ちすぎた白桃を思わせる尻には、広い尾羽がミニスカートのように被さっていた。
 むっちりと形良く膨らんだ太股の曲線は、凶器そのものの爪を生やした猛禽の足へと続いている。
 太一は泣いた。鳴いた。啼いた。可憐な唇から、怪鳥の絶叫が迸っていた。
『ハルピュイア……いえ姑獲鳥、かしらね』
 姿なき女性が、太一の中で呟いた。
『誰が一体こんなもの……まあ夜会の連中の誰かだとは思うけれど。まずいわね、これは。姑獲鳥だとしたら、今の貴女の心にあまりにも合い過ぎている』
「はい……私は、姑獲鳥です……」
 涙を流しながら、太一は翼を広げた。
「親から子供を奪う、怪物……それが私」


 赤ん坊を、何年か放置していただけ。ミルクや離乳食くらいは与えていたのだろうか。
 痩せ衰え、汚物にまみれた幼子を、太一は両の翼でそっと抱き上げた。
 虚ろな瞳が、ぼんやりと見上げてくる。明らかに栄養が足りておらず、目も見えていないのかも知れない。
「この子を、今からでも健やかに育ててあげるには……いくつか情報を改変しないといけません。許可をいただけますか?」
『御自由に。私の許可なんて必要ないのよ』
「結局……安易な手段を使う事になってしまいました」
 人体の残骸が2人分、部屋中にぶちまけられている。
 悪態を吐き散らしながら帰宅した若夫婦と、太一は穏便に話をつけるつもりだった。
 気がついたら、このような事になっていたのだ。
 太一は何もしていない。ただ、風が吹いただけだ。
『姑獲鳥にして、ハルピュイア……それも、あれね。食べ物を盗んで糞尿を散らかすような、ちんけな連中とは違う。原点たる風の女神に近い存在。貴女が少し不機嫌になっただけで、人間なんて竜巻で木っ端微塵よ』
 姿なき女性が、解説をしてくれた。
『その力で……さあ何を為すの? 松本太一』
「私は姑獲鳥……全ての人間から、子供を奪います。このように……」
 屍寸前の子供に、太一は頬を寄せた。
「人間の親など、必要ありません。全ての子供を、私が奪って育てます……皆、幸せにして見せます……」
 
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年05月07日

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