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『【任説】残響』
柳生 楓aa3403

 両手がある。
 両足がある。
 両目がある。
 両耳がある。

 心臓がある。
 声帯がある。
 味覚がある。
 嗅覚がある。

 触覚がある。
 痛覚がある。
 視覚がある。
 聴覚がある。

 ……ほんとうに?


     ・※・※・※・


 ふっ、と目を覚ます。
 手足が肌触りのいいシーツを掻き分けた。心臓の音が嫌に大きく聞こえる。天井がいつもより高く感じられた。でもなんだか圧迫感がある気がする。
 はぁ、と息を吐き出した。耳に聞こえる音はない。鼻先をくすぐるのは穏やかな夜の香りを含んだ風。ああ、どうやら窓を閉め忘れていたらしい。
 なんだか目が冴えてしまった。掛布団から足を出して床につま先を触れさせる。キンとした冷たさに、指の先がわずかに痛む。慌てて近くのスリッパに両足を突っ込んだ。ふわふわとした感触にホッとする。
 喉の渇きを覚えて、自室の扉を静かに開いた。薄暗い廊下がなんだか恐ろしく感じられて、扉も閉めず足早にキッチンへと向かう。自分の足音だけが響く廊下は寒々しい。
 階段を急ぎ足で降りてキッチンへ続く扉を見れば、わずかに明かりが漏れていて驚いた。
 なんだか秘密を覗いているような心地でそっと扉を開いたら、食台に向かう母の背中が見えた。

「あら、起きちゃったの。どうかした?」

 その声が、その表情が、その仕草が、その姿が、その全てが自分を安心させる。
 食台で何か書き物をしていたらしい母は、夜中に起きてきた娘を心配して席を立った。そのままパタパタとスリッパを鳴らして自分の元へと近付いてくる。
 それがなんだか嬉しくて、扉の前から動かずに待っていた。

「どうしたの。怖い夢でも見た?」

 そう言いながら、母は楓の両脇に両手を差し入れて抱き上げた。優しいぬくもりが楓の身体を包み込んで、遠ざかっていた眠気がまたやってくる。

 ああ、あんしんするなぁ。

「のどかわいた」
「ああ。じゃあ何かあったかいものでも飲む?」
「んーん。お水でいい」
「そう?」

 母に抱かれたまま、シンクの蛇口からコップに水が注がれるのを見つめる。

 おかあさんはすごいな、こどもをかかえたままみずをそそげるなんて。

 母に手渡された、コップに半分も入っていない水を飲み干す。冷たいはずの水道水は、母がぬるま湯を注いだらしく、少しだけ温かい。

「もういい?」
「ん」

 楓が空にしたコップをシンクに置いて、母はまぶたの降りてきた楓を抱え直す。その振動まで眠りを誘った。ゆっくりと視界が落ちてくる。

 ああ、いやだな。まだねむりたくないな。もっといっしょにいたいなぁ。

「おやすみ、楓」

 母の声が聞こえる。視界はもう暗闇に閉ざされてしまった。身体に伝わる暖かさと優しい振動が、楓の意識をふわふわと奪っていく。
 とん、とん、と聞こえる音は、階段を上る音だろうか。

 それとも、生きている母の、心臓の鼓動だったのだろうか。



「――ッ!!」

 はっと意識が覚醒した。ふわふわとした微睡みが急激に遠ざかる。
 身体を起こそうとして上半身に力を込めて、さっきまで感じていたやさしい温もりまで遠ざかってしまう気がしてやめた。身体から力を抜けば、膝の向こうだけ妙に浮いたような感覚がする。
 慣れたはずのその感覚が、今だけは嫌に気になった。

「……は、ぁ」

 息を吐き出してはじめて、柳生 楓(aa3403)は自分が泣いていたことに気付いた。
 手で目元に触れるとしっとりと濡れている。耳がなんだか冷たい。後頭部まで冷たい気がするのだが、もしかして枕まで濡れてしまったのだろうか。
 ああ、明日は天気だろうか。干してしまえるといいのだけれど。

 そこまで考えて、楓はなんだかおかしくなった。あの頃の自分はこんなこと考えもしなかったのにな。成長したってことなのかな。

 まさか、夢を見て泣くとは思わなかった。
 あの頃は怖かった夜の静けさが、今は心を落ち着かせてくれる。成長すると、そんなところまで感覚が変わるものなのだと、今はまだ鮮明に覚えている夢の感覚を思い出して、笑いたいような泣きたいような、妙な気分になった。

 なんで今更、あんな夢を見たんだろうか。あんなに、幸せだった頃の夢を。
 シーツを新しいものに変えたからだろうか。布団を干してふかふかにしたからだろうか。部屋の芳香剤がお気に入りのものだったからだろうか。
 そこまで考えて内心で否定する。そんなこと、今までだって何度もあった。

 じゃあもしかして、と、楓は心に浮かんできた考えを口にする。

「やっと、乗り越えて、受け容れられたってこと、かなぁ」

 夜の青暗い部屋だけが、楓のつぶやきを聞いていた。
 瞬いた目尻から、まだほんの少しだけ残っていた夢の余韻が、静かに流れて吸い込まれていった。
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2019年05月07日

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