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『徂春落花之記 』
オルソン・ルースター8809


 『朝に宿を発ってから、列車に揺られること1時間半。
  この辺り一帯は、海辺近くまで山が迫っている地形が主とのこと。
  そのために山の麓のような風光でありながら、大気に潮の匂いを感じる。
  不思議な感覚ではある。
  河口沿いの道には桜の老樹たちが今年も紅色の強い八重の花を咲かせていた。
  本日は、今回の旅の目的である例の一里塚の大桜を見に、』
 
 そこまで書くと、オルソンはふとその手を止めてペンをおいた。
 顔を上げる。窓ガラス越しに見える庭には、黄色いやわらかな日差しがあふれている。
 植込みには芽吹いて間もない若葉がようよう繁りはじめていた。
「そろそろ時間か」
 日記を閉じ、書き物机の隅に寄せる。
 外套を羽織って宿を出た。


 川辺の土手から見下ろすと、斜面の緑の中に濃紫色の小花がぽつぽつと見えた。
「ここにも菫か…」
 オルソンの頬が緩む。
「春だな」
 あたたかな陽を仰ぐ。
 ぬるんだ風が吹き過ぎてゆく。
「おう、よう来たなぁ!」
 聞き慣れた声がした。
 土手の下から初老の男が上がってくるところだった。
「ふぅ…。ちょうど今窯から降りてきたところだったもんでよォ。汚ねぇ格好で悪いね」
 白髪交じりの男は笑って汚れたタオルを首から解いた。身につけている作務衣はところどころ灰で白く、鼻や頬も炭で煤けたのか黒くなっている。
「先生、お変わりなく」
 オルソンが恭しく御辞儀をすると、男は手を振った。
「先生とかよしてくれ。そっちこそ『ルースター大先生』じゃねぇか」
「何を仰いますか。私にこの国の美をご教示下さったのは先生でしょう。ほら、『先生』です。私の方は先生に何かお教えしたことはありませんからね」
「うむぅ」」
「先生」と呼ばれた男は言い返せぬという顔で顎髭を掻きながら唸っている。オルソンは笑った。
「そんなことより、先生。この度は一里塚の大桜が見られるというので飛んで参りました」
「おうよ、えらいあったかくなったから花見に最適ってやつだ。俺ァ酒の量が増えていけねぇ」
「お言葉を返すようですが、酒の方は、底冷えするというので冬も随分召しあがっていらしたようですが?」
「ああ? あー…まあ、酒はアレだ。日本全国酒飲み音頭の言う通りよ!」
 豪快な笑い声をあげた。
「つゥこって、さっそく一里塚の桜を見に行くか。もう散り始めているが、なァに桜つぅのは何も満開ばっかりがいいんじゃねえ。咲き初め、散り際にこそ風情がある」
「はい」
 ふたりは歩きだした。
 土手の上をゆっくりと大小ふたつの人影がゆく。
「しかしなァ、冬はクソ寒ィがモノ作るには欠かせねえよ。何やるにしてもそのためのエネルギーちゅうんかね、そいつを蓄えるのが冬だから。桜もそうだろォ…冬の間にあンだけの花咲かす力を溜めてんだ。草も木も花も人もそう変わりゃしねえ」
「ご尤もです。今年の冬の抱負としなければ。…そういえば先生、花と言えば先ほど菫を見かけました。野草のはずが今や都会ではなかなか道端に見られる花でなく」
「ハハ、ここらじゃそこら中に咲いとるよ。2時間に1本バスありゃいいようなド田舎だからなァ。不便なとこだが、ま、つまりバス待ってる間に花見てられるちゅうこった。都会にゃねェ時間だろ? だから俺はここに住んどる」
「なるほど」
「そういや、おまえさんは、外国の…いや欧米の花の方は好かんのかな。もっぱら日本の雪月花を追いかけとる印象だが」
「いえ、欧米の花に情緒を感じないというわけでは。たとえばイングリッシュガーデンなどというのも、あれはあれで良いものですし、英国の花樹に縁どられた田園風景を、…そうですね、ヴォーン=ウィリアムズの『揚げひばり』あたりを聴きながら遙かに望んだとして、それはもう懐古の情を誘われずにはいられません。ですので、blossom…fiore…fleur…そういうそれぞれの国の『花』たちを思い描けば、それぞれに詩情は呼び覚まされます。ただ、それら欧米の花たちと、日本の桜という花とでは、喚起される情趣の質が異なるということです。その結果としての日本贔屓でして」
「ほォう…。俺は海外はそう行っちゃいねェンで、そういう他所の国の話はおまえさんに教えて貰わなならん。ほらよ、やっぱり俺の『先生』やれよ」
「はは、そうですか。でしたら、お求めとあらば幾らでも」
「よし、これで俺もおまえさんも先生だ。――お。もうそろそろ大桜が見えて来るぞ」
「あれですね、あの家の屋根の向こうの。おお…」
 幹は大人のふた抱え分もあろうかという大桜だった。
 枝々を押しひしぐほどにあふれる花、花、花…。
「思えば昨年は既に葉桜、一昨年はまだ三分咲きでした。これだけ花のある時期に見るのは初めてだ…」
「そうやったか。そら意外だな。見事だろ?」
 青い空を埋め尽くしてあまりある。春の光を抱いて燃え上がる白い炎のようですらある。息をするのも忘れそうだとオルソンは思う。
「…桜とは神の宿る樹だそうですね」
「ああ、豊作の神さんの居所とは聞いたことがあるな」
「そうなのですか。サクラという名の響きの清らかさ。こうして感じる一種の荘厳さ。それだけでも私は確信します。これは神の木なのだと」
 晴れ渡った空に溶けこんでいきそうな大桜の白。
 花の枝々の間からたえまなく降る、降りそそぐ、白。
 やまず花散る大桜の下に、ふたりは言葉もなく佇んでいた。
 オルソンの肩にも髪にも、もう淡い花びらがつもっている。
「ああ、思い出した。…桜散る木の下風は寒からで空に知られぬ雪ぞ降りける」
「和歌かね」
「はい、たしか紀貫之だったかと。”冬は去った。こうして花を散らす桜の下に立っていても、風にはもう冬の寒さを感じない。だから春の空は雪というものを知りませんが、ここ桜の下では、今もなお、こうして雪が降りつづいているのですよ”という。そんな歌です。私なりの解釈ですが。ちょうど私たちが今見ているような、こんな情景だったのでしょうね…」
「雪か…。うむ、雪だな」
 男は目を細めて大桜を見上げていたが、おもむろに懐に手を入れると小さな布包みを取り出した。
「この大桜を見に来るっちゅうから、渡さねぇとと思ってたんだ。ちょうどいい。開けてみろ」
 包みを開くと袱紗の中からあらわれたのは、小ぶりの器だった。
「これは…」
「天目のぐい呑みだ」
 夜を思わせる深い紺青の地に、うっすらと桜色をおびた銀の斑紋が静かな渦をなしている。
「まるで風に舞う桜吹雪だ…。春風にさらわれて…」
 雪片のごとき花びらが、夜の底に音もなく積もりゆく。
 ぐい呑みの底に幻を見た気がして、オルソンは目元を押さえた。
「同じやりかたで釉薬かけても滅多にこの色味は出ねぇ」
 黙り込んでいたオルソンだったが、そっと顔を上げた。
「…先生、このようなものを頂いてしまっていいのですか」
「花見酒に誂え向きだろ?」
 悪戯っぽい目がそこにはあった。
「先生はまた何というものを私に…。さぞかしこれに満たした酒は旨いことでしょう。桜を飲むようなものだ。…そうだ、先生、でしたら今夜、この大桜の下で夜桜酒といきませんか」
「おお、そいつァいい! 今夜でいいぞ。俺の秘蔵酒持って来てやる」
「それは楽しみだ。夕刻にお迎えに上がります」
 今年の桜は今年の桜。来年の桜ではないのだ。何もかもは一期一会。過ぎゆくのみ。
 風に散りゆく大桜の枝の下を、やさしい春風がふきぬける。この時間もまた。
 オルソンは思う。これは忘れ得ぬ時間となるだろう。
 掌の中のぐい呑みに、ひとひら、花弁が滑り入った。



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【8809/オルソン・ルースター/男/43/ご隠居】

東京怪談ノベル(シングル) -
工藤彼方 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年05月08日

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