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『To say Goodbye is... 』
トリプルJka6653

 誰かが言った。
 さよならを言うことは、ほんの少しの間死ぬことだ。
 今の俺には、その気持ちがわかる気がした。

 俺の名はトリプルJ(ka6653)。いや流石に、こいつは本名じゃあない。
 ジョナサン・ジュード・ジョンストンという立派な名前があるんだが、クリムゾンウェストに飛ばされてきて、わかりやすい名前で通すことにした訳だ。
 初めは驚くことも多かったが、慣れてみると案外この世界も悪くはない。
 少々レトロな道具や、自然の残る景色が郷愁を誘うあたりも気に入っている。
 だがひとつだけ、困ったことがある。本が手に入りにくいのだ。
 この世界では精霊のおかげで、会話に不自由はない。
 だが文字まではキノコ連中もフォローできないようで、なかなかに苦労した。
 まあそれも今となっちゃ笑い話にできるぐらいには慣れたわけだが、俺の好む本が見つからないのだ。

 人間の考える物語ってのは、案外パターンが限られるものだ。
 だからこちらでも、敵を打倒し国を作った英雄の話や、悲運の王子や王女が国に戻って悪い家臣を倒す話なんかは、子供向けに限らず本になっている。
 しかし、だ。
 俺の好む、薄汚れた都会の片隅でストイックに生きる男のほろ苦い物語――いわゆるハードボイルド物が存在しないのだ。
 こいつは俺にとっては、ほとんど死活問題と言っていい。
 一日の終わりに、美味い酒を飲みながら本のページをめくる時間は、俺にとって最高の癒しだったからだ。
 だが、こっちの世界の神も捨てたもんじゃない。
 いや大精霊か? まあそれはどうでもいい。とにかく、ある日突然、一筋の光が差し込んだのだ。

 俺は仕事を終えてリゼリオのオフィスで手続きを済ませた後、とある店へと急いだ。
 そこは雑貨店――いやもっと正確には、古道具屋に近い。
 閉店時間ギリギリに飛び込んだ俺を、奥に座って爪やすりを使っていた店主が、眼鏡の奥からちらりと見る。
「あれ、まだ売ってねえだろうな?」
 なるべく内心の熱が漏れないよう、静かな声で尋ねる。
 もちろん、これが無意味な努力なことは承知の上だ。
 取り置きを頼んだぐらいなのだから、心底欲しいに決まっている。
 店主の親爺はクリムゾンウェストの創成期から存在しそうな古びた棚から、無造作にそれを取り出して俺の前に置いた。

 俺はゆっくりと息を吐く。
 安物の紙を束ねた本体に、それよりはちょっとばかり厚めだが大した質でもない表紙と背中と裏表紙がついている。
 表紙にはトレンチコートを羽織って中折れ帽を被り、いかめしいオートマチック拳銃を握った男が、ややぼけた印刷で描かれていた。
 タイトルは『Murder in Twilight』……いかにもなペーパーバックだ。

 俺は昨日聞いていた金額の紙幣を、親爺の前に投げ出した。
 正直言って、高い。
 こっちの世界なら、金の箔押しの立派な本が新品で買える値段だ。
 だがどういう経緯でか流れ着いた貴重なペーパーバックだ。
 しかもこいつは、最初期の、ペーパーナイフでページを切りながら読むという、俺が元いた世界でもマニア垂涎の本だ。
 まだナイフの入っていないペーパーバックなんて、人生で巡り合えることはもうないだろう。
 昨日この店で本を見つけた俺が、雷に打たれたような衝撃を受けたことは、どんなに想像力の乏しい奴だってわかるはずだ。
 生憎、たまたま持ち合わせの少なかった俺は、店主に頼んでこの本を取り置きしてもらっていたのだ。

 店を出た俺は、幸福だった。
 ここから大事なのは、このお宝をどこで読むかということだ。
 家で熱いコーヒーを淹れて読むのも悪くない。
 だがうまい酒を飲みながら読むのは、もっと素晴らしい。
 ついでに言うと、俺は一刻も早くこの本のページをめくりたかったのだ。
 そこですぐ近くに見えた、程よく古びた、どこか懐かしいような酒場の扉を押し開ける。

 中は本が読める程度に明るかった。
 まだ早い時間で、ぽつぽつと客が入り、程よく賑やかなのも気に入った。
 俺は一番奥のテーブルに空席を見つけると、バーボンと適当なツマミを頼んで座り込む。
 実際、この世界の酒はなかなか大したものだ。
 きっと俺のように、リアルブルーの物をどうしても飲みたい奴がいるのだろう。
 俺はグラスに口をつけ、先人の偉業に心から感謝する。
 それからペーパーナイフを取り出し、ゆっくりと本に差し込んだ。
 紙が裂ける心地よい感触。
 涙が出るほど懐かしい印刷の字体が、俺をリアルブルーの古き良き時代へと連れて行ってくれる。

 だがささやかな幸福は、長くは続かなかった。
 主人公の私立探偵が、遺産争いに巻き込まれた若く美しい未亡人の依頼を受け、交渉に行った屋敷でゴリラのような用心棒とにらみ合ったくだりで、俺の意識は嫌々ながら現実世界に引き戻される。
「なんだ?」
 店の中が騒がしくなっていた。
 見れば、ひとりの若い女が、険しい目で周囲の男たちを睨んでいる。
 どうやら店に何かを届けに来たところで、酔客に絡まれたようだ。
 下卑た声に鼻息を返して女が立ち去ろうとする。無論、ゴロツキどもがそれで見逃してくれるはずもなく。

 俺は天を仰いだ。尤も、見えたのは煤けた天井だったが。
「ったく、いいところだってのによ」
 本を置いて、椅子から立ち上がると、女の腕をつかんだ男の肩を叩いた。
「よう色男、そいつはみっともないと思うぜ」
 男が悪態をついて振り向く。仲間2人も殺気立った目で俺を見た。
 俺がひとりだとわかると、途端にゴロツキどもは強気になる。
 折り畳みナイフなんぞを、これ見よがしにひらひらさせる奴までいる始末だ。

 俺は思った。
 およそ人間が作る物語にパターンがあるように、三下の行動にもお決まりのパターンがあるのかもしれない。
 いきがってる姿なんか、大昔のペーパーバックの悪役と全く同じに見える。
「こいつは笑える話だな」
 思わず漏れた俺の感慨は、奴らのお気に召さなかったらしい。
 動物のような唸り声と共に、ナイフの切っ先が俺の顔をめがけて伸びてくる。
 俺は脇に避けると、ブーツの先で相手のむこうずねを小突いてやった。
 そいつは大げさな叫び声をあげて、目の前のテーブルに抱き着いたまま床に転がる。
 続いて他の連中も襲い掛かってくるが、相手はいきがるだけの素人だった。

 だが悲劇に気づいたのはその後だった。
 連中を片付けた後、倒れたテーブルを起こした俺は、そこに大事な宝物を見つける。
「おい、冗談だろ?」
 途中までしか読んでいないペーパーバックがこぼれた酒にまみれている姿に、俺は途方に暮れた。
 そっと拾い上げるが、元々安い上に年代物の紙だ。くっついたページを剥がすのは、おそらく不可能だろう。
 俺は、家に帰らなかった少し前の俺自身を呪った。
 それが無意味だとはよくわかっていたが、そうせずにはいられなかったのだ。

 そのペーパーバックは、まだ俺の家にある。
 読めないとわかっていても、余りに名残惜しくて捨てられないでいるからだ。
 俺は今でもときどきその背表紙のタイトルを眺め、永遠に失われた物語に思いを馳せる。
 そしてほんの少しの間、死んだような気分になるのだ。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

またのご依頼、誠にありがとうございます。
パルプマガジンやミステリがお好きとのキャラクター紹介が以前から気になっていまして。
ペーパーバックはやや路線が違うかもしれませんが、活字中毒なら食いつくのでは、というところから趣味に走ってしまいました。
お楽しみいただけましたら幸いです。
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ファナティックブラッド
2019年05月21日

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