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『透明の強度、透明な距離 』
鬼塚 陸ka0038

●今
 キヅカ・リク(ka0038)は手のひらを握ったり開いたりしていた。
「うん、問題なし」
 彼は訓練場にエリクシールの噴霧を浴びに来ていた。これは魔術儀式が施された場所でなければ効果を発揮しないからだ。
「ありがとうございました」
 相手をしてくれた訓練場の人間に礼を言う。
 だが、彼は回復したキヅカを見て、やや不満そうな顔をしていた。
(あれ、僕なにかやらかした……?)
 そう思って、自分の行動を思い返したキヅカにかけられた言葉は、なるほど彼の立場からならそう思っても仕方のないことだった。

(あんまり無茶しないでね、か……)
 彼はそう言っていた。エリクシールの噴霧を浴びたのもこれがはじめてではないからだ。
 キヅカは活動的なハンターで、それ故に負傷することも多い。重体だって一度や二度ではない。ただ、最近の方が重体になる確率は上がっていた。
 それは、キヅカが大精霊と契約したからだ。大精霊由来の力を行使するには、重体というリスクが伴う。そのリスクを背負ってでも戦わなければならない戦場がある。そして、重体はエリクシールで回復できた。
(ともあれ、今日は休みか……)
 明日には依頼がある。そのためにも重体を回復しておく必要があったのだ。
 キヅカは近くの公園にあるベンチで昼食をとることにした。
 彼が食べるのは、小麦粉を固めたような長方形の保存食だ。味気ないけれど、栄養面は問題ない。部屋にはこれと同じものを箱単位で買い込んである。
 持ち運びも便利だし、不味いわけでもない。保存がきくし、その為に気を使う必要もない。とても便利な食べ物だった。
 見上げる空には分厚い灰色の雲が流れている。空気は湿気っているし、一雨来るらしい。
「やべ、傘持ってない……」
 リアルブルーにいた頃は、テレビとかスマートフォンの天気アプリとかで1日どころか1週間の天気がわかった。だが、クリムゾンウェストはまだまだ情報伝達技術は遅れているので、天気の変化を予測しづらかった。
(降られる前に帰るかな。風邪をひいちゃ、依頼に支障がでるし)
 今日はパーカーを着ているので、ちょっとの雨ならフードをかぶればやり過ごせるだろう。それでも早く帰るに越したことはない。
(傘が買えたら、もうちょっと外にいてもいいんだろうか)
 ふと、そんなことを考えた。
 クリムゾンウェストでは、まだまだ傘は高い買い物で、1本数百円のビニール傘は存在しない。そもそもビニール傘を売っているコンビニが存在しない。
(傘が高いものだからといって、買えないわけじゃないんだけど──)
 キヅカは危険な依頼を掛け持ちしたために、財布にはそれなりの金額が入っている。
(できないわけじゃないんだけど……)
 こんなことが昔にもあった気がする。キヅカがまだ、リアルブルーにいた時の話だった。

●過去
「雨降って来てんじゃん……」
 僕は辟易として言った。教室の窓の向こうでは雨が降りはじめていた。空模様から、しばらく振り続けると予想できた。天気予報では、夜に降り出すはずだったんだけど。
 同じく、雨に気がついたクラスメイトが早速その話題で盛り上がった。
 傘がない。折りたたみ傘持っている。湿気で髪の毛のセット台無し。今日は寄り道できないな。相合傘で帰ろーよ。
 僕も傘を持って来ていないのだけれど、雨に濡れてはいけない理由を見つけられなかった。教科書やノートが濡れるのを嫌がるほど優等生でもないしな。ただ、湿気った教科書の入った鞄は重くて嫌いなんだよな、と考えていた。

 とはいえ、雨脚はどんどん強くなる。流石に傘が欲しくなる程だ。
 行きつけのゲームセンターへの道中にコンビニがあった。ビニール傘なら1本数百円。買えない値段ではない。ただ、これを買ったらゲームのための資金が減ってしまう。高校生にとっては小銭だって貴重なのだ。
 僕はコンビニの軒先で雨宿りしながら、買うべきか買わざるべきか考えていた。
 コンビニには、雨に見舞われた人たちがひっきりなしに傘を買い求めに来ていた。
 ……ずぶ濡れで行ったらゲーセン側も迷惑だろうし。と僕は考えて傘を買う決断をした。覚悟を決めて、入り口の自動ドアに目を向けた時、ちょうど横断歩道を渡って来たずぶ濡れの男がコンビニの入り口にたどり着いた。
 彼は入り口外に置かれている傘立ての前で、肩についた雨粒を軽く払うとそのまま傘立ての中から1本の傘を抜き取って再び横断報道を渡って走って消えた。
 僕は呆然とその光景を見ていた。傘泥棒である。見ればわかる。ただ、恐ろしかったのは、彼は他人の傘を自分のために使うことが当然であるかのように、しゃんと伸ばした背筋をしていたことだった。
 コンビニに入ろうと思っていたのに、びっくりしてそこから動けなかった。
 そのうちに、今度は買い物を終えた男が出て来て、傘立てに自分の傘がないことを憤慨していた。地団駄さえ踏んでいた。
 結局僕は、ビニール傘を買わないで、ゲーセンまで走った。鞄を盾にするとかそんな小賢しい考えを実行している余裕もなかったので、全身ずぶ濡れになってゲーセンにたどり着いたのだった。
 店に入った途端に鼓膜に殺到する機械から流れるゲームの刺々しい音。薄暗い店内でモニターや筐体の発光だけが鮮やかだった。それらの人工的な音と色を浴びて、ダッシュによって息切れした僕は一生懸命呼吸した。何かを回復しているみたいだった。
 そんな風にぼんやりしていたら、親切にしてくれる店員が話しかけてくれて、タオルを貸してくれた。
 その日も、いつも通りゲームをプレイしたのだが気持ちはふわふわしたままだった。

 次の日の朝には雨は止んでいて、空は汚いものを全て地上に吐き出したみたいにひとり、すっきりした顔をしていた。
 地面はまだ濡れている。僕はいつも通りの通学路を歩いていく。
 道の途中にはゴミ置き場がある。今日は収集日ではないので、カラス除けの網も片付けられて空っぽ、と思ったが違った。
 ビニール傘が捨てられてあった。持ち手の部分が白いタイプの傘だった。広げられたまま投げ捨てられたのか、傘の部分を下に、柄は空に高く伸びていて、骨の部分がきらりと光っている。その銀色の輝きは異様に獰猛に見えた。牙のような、爪のような、殺人鬼の凶器のような、刺されば血が出る色だった。
 この傘はきっと誰かにとって、昨日の雨を防いだ英雄だった。でも、晴れてしまえばゴミでしかない。ちゃんと分別すらされない邪魔ものだ。
 なんとなく、僕はそれを拾い上げた。透明な傘布越しに見る世界は少し解像度が低くて、モニターの向こう側と似ていた。
 僕は傘を携えて学校に向かった。

●今
(学校に行ったら、今日雨降るの? って聞かれたなぁ)
 キヅカは何かしら答えたはずだけれど、その言葉が思い出せなかった。
 そんな思い出を再生していると、頬にぽつりと雨粒が垂れて来た。
「帰るか……」
 今なら本格的に降り出す前に、部屋までたどり着けるだろう。
(土砂降りになるのかな)
 そう望むわけではないけれど、そんなことを考えた。

●過去
 傘を持っている理由に対して、ゴミ置き場に落ちてたから拾った。とは言いたくなかった。
「傘が欲しい人を助けられるように……、かな?」
 そう答えると、なんだそれ、と笑われてしまった。傘はさ、自分が濡れないために差すんじゃないの? と彼は続けた。
「でもほら、僕、丈夫だし?」
 冗談めかして冗談のつもりで言ってみた。でも、それじゃ済まない何かが潜んでいるんだろうな。
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2019年05月29日

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