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『地獄のサラリーマン』
松本・太一8504


 1人、バックレた。
 俺の同期で、俺よりも遥かに有能で、研修期間が終了して間もないうちに、ある重要な取引先相手の窓口役を任されるようになった。
 そこの社長と話をつけて契約にまで持ち込んだのも、そいつである。まあ功績は認めなければならない。正直ちょっと面倒臭いところのある社長で、接待役をそいつ1人に押し付けておけば俺たちは楽が出来る、という一面があった事は否定出来ない。
「なになに。彼、逃げちゃったのォ?」
 幸い、その社長は上機嫌だった。
「別に、僕がいじめたワケじゃないよ?」
「もちろんです。ただ、社長の人生の重さが、彼には耐えられなかったようですね」
 接待役である松本太一(8504)氏が、にこやかに言った。
 俺も、今回逃げたあいつも、研修期間中まずは松本さんに色々と教えてもらったものだ。
「んー。僕も、波乱の人生送ってるからねぇ」
 気取った仕草で酒を飲みながら、社長は悦に入っている。空になったグラスに、ホステスの1人が酒を注ぐ。
「思えば色々あったものだよ、うん」
「まだまだ、大変なのはこれからではないですか社長」
「それなんだよ松本君。人生っていうのはねェ、頑張っても頑張っても楽にはならない。むしろ頑張れば頑張るほど、厄介事が押し寄せて来るものなんだ」
 社長が、松本さんによって波に乗せられている。
 俺は今回、松本さんの助手と言うか付き添いと言うか、とにかくこの社長の接待に同行するよう言われてしまった。窓口役としての仕事を覚えさせよう、という事だろうが正直、俺は帰りたかった。
 綺麗どころのホステスが何人もいるが、末席の俺をちやほやしてくれるわけもない。
 惨めだった。酒が、美味くない。
 こうなる事はわかっていた。俺もバックレてしまおうか、とも思った。
 そうしなかったのは、何だかんだで松本さんには色々と世話になっているからだ。
「あー、君。逃げちゃった彼の友達?」
 社長の矛先が、俺に向いた。
「は、はい……」
「彼ねぇ、確かにお喋りは上手だったけど、今思えばそれだけだったよね。耳当たりのいい言葉に、重みがないんだよ。最近の若い子ってのは、ああなんだよねぇ。駄目だよ? 君も。辛い事もっといろいろ経験してさあ、波乱万丈の人生を送らないと」
「彼も、それに私も、まだまだ学びの真っ最中でして」
 松本さんが、さりげなく助けに入ってくれた。
「……聞きましたよ社長。例の保育事業、随分と投資をなさったそうで」
「えっ何、バレちゃってるのォ? 参っちゃうなあ、もう。そうそう、やっぱり働く女性の力って必要なんだよ。もちろん子供たちだって守らなきゃいけない。ここはやっぱり、お金も力もある男が立ち上がるべきところでねえ」
 もはや俺など眼中になく、社長は得意げに御高説を垂れ流している。松本さんが、絶妙なタイミングで相槌を打つ。
 綺麗どころのホステスが、何人もいる。
 だが、俺は思う。社長の機嫌を取る事に最も成功しているのは、男の松本さんであると。


 缶コーヒーを1本、松本さんが奢ってくれた。
「ど、どうも……」
「楽しくもない飲み会に参加させて、申し訳なかったですね」
 松本さんが微笑んだ。
 疲れきったサラリーマン、そのものの微笑だった。
 見ていて辛い。俺は目をそらして缶コーヒーをすすった。
「……思ったより大変じゃなかったですよ。もっとこう、裸で土下座とか、やらされるかと」
「あの社長は、そういう人じゃないですから。お話さえ聞いてあげれば、そう無理な事はおっしゃいません。良い人ですよ」
「聞き上手になれ、って事ですか。接待ってのは……」
 あいつは言っていた。営業なんて楽じゃね? と。
 松本さんがやってる仕事なら俺、2人分だって3人分だって出来るよ。要はバカな老害ども言いくるめりゃイイんだろ? 俺トーク力ばっちりだし、松本さん要らなくね? その分の給料俺によこせっての。
 そんな事を言っていた奴が『老害どもを言いくるめる仕事』を結局はやり遂げられず、逃げ出した。
 あいつが今回の契約を取ってこられたのも、今思えば松本さんのフォローがあってこそ。あの社長が本当に信用していたのは、あいつではなく松本さんだったのだ。
 深夜の公園のベンチに座ったまま俺は今、松本太一という一見冴えない万年平社員の真価を思い知らされていた。
「さて、終電がなくなる前に会社へ戻りましょうか」
 松本さんが言った。
「ああ、君はこのまま帰宅して下さい。今日はお疲れ様でした、また明日」
「ちょっと待って下さい、松本さんは帰らないんですか?」
「上げなければいけない書類がありましてね。いくつか資料も揃えておきたいし」
「松本さんは」
 知っていて黙っていた事を、俺は口に出した。
「最近……会社の帰りとかに、保育園に行ってますよね。あの新しく出来たとこ」
「見られてましたか」
「……お子さん、いるんじゃないんですか。独身って聞いてましたけど」
「まあ……色々と、ありまして」
 本当に色々あったのだろう、と思わせる笑みを、松本さんは浮かべた。
「そこは夜中、朝方まで子供を預かってくれるところなので大丈夫ですよ」
「俺も」
 何か考える前に、俺は言ってしまっていた。
「……手伝います、俺も。書類と資料集め……俺、帰っても寝るだけですから」
「…………ありがとう、助かります」
 松本さんが笑う。
 疲れ果てた、まるで過労で死んだ人間の幽霊みたいな笑顔。
 俺まで、黄泉の国にでも引きずり込まれそうな感じだった。
(本当に……ブラックなとこで働いてんだな、俺……)
 上司が罵声を浴びせてくる。そんなものは、本当のブラック企業ではない。
 本当にブラックな上司というのは自身も地獄にいて、罵声を口にする事なく暴力も振るわずに、部下を自身の意思で地獄へと歩み入らせる。
 この、松本太一のようにだ。


 部下が手伝ってくれたので、書類も資料集めも思いのほか早く終わった。
「今日もお仕事、大変だったみたいですねえ松本さん」
 職員の女性が、すやすやとよく眠る赤ん坊を抱いている。
 松本太一は一礼して、赤ん坊を受け取った。
「本当に、ありがとうございます。いつもいつも……こんな時間まで」
「うふふ。ここだけのお話、松本さんは特別ですから」
 職員が微笑む。
「知ってる人は少ないですけど……この保育園、大元の出資者は」
「宝くじで当てたお金です。私は、何も苦労はしていませんよ」
 出資と言うより、寄付しただけである。
 結果この保育事業は軌道に乗った。ここ以外、いくつもの保育所が出来た。あまり公に出来ない利権も、見込めるようになった。
 そこで、さらなる投資者を募集してみたところ、あの社長がそれに応じたのだ。
「まあ、なかなか……綺麗には、いきませんよね」
 眠っている赤ん坊に、太一はぽつりと語りかけた。
「人の世の、あまり綺麗ではないものに……まみれながら、でも構いません。君には、まずは人の世の中で普通に育ってもらいますよ」
東京怪談ノベル(シングル) -
小湊拓也 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年06月03日

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