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『銀狼は月下で歌う 』
ユエディla3295

 ユエディ(la3295)が見つめる先、鬱蒼とした草原の中を新緑を思わせる淡い光が行き交う。足を止めれば虫の鳴き声に混じってせせらぎが聴こえた。髪と同じ銀の体毛に覆われた耳を動かし、気配がないことを確認すると膝に手を当てて少し身を屈める。目の前で蛍光が揺らめいた。
「蛍は……死人の魂だという話もありましたか」
 ぽつりと零れた声は抑揚に乏しく、幻想的な光景に対する感慨もない。ただ自ら発した言葉を引き金に甦るのはもういない大切な人の事だ。僅かに眉根が寄って指は喉を伝い、自らの胸へと触れた。女性らしい膨らみもなければ男性らしい硬さもない。
 ユエディは無性だ。ヒトという種が子を産み、血を繋いで幾つもの時代を渡るだけの歳月が流れても尚僅かな成長に留まり、放浪者と呼ばれる存在らしく数多ある並行世界を漂う。感情は大きく波打つことなく、密かに呼吸する。
 じっと蛍を眺めていた目を閉じる。瞼の裏に母の姿が見えた。

「……あっ、あ……!」
 短く、切れ切れに声が漏れる。声というより喉が潰れて空気が漏れる音が出ただけかもしれない。とにかく圧迫感が酷く、手足の感覚が切り離されたような違和感と意識が白んでいくイメージが広がる。
 白い手首を掴み、引き剥がそうとしてユエディは指を外した。左右で色の違う瞳を閉じれば、苦しみが和らいだ気がする。それが気のせいだと気付いたのは頬に雫が降り注いだ瞬間だ。首にかけられた力が緩んで、急激に気道へ入り込んだ空気に咳き込む。腰を捻るようにして伏せる身体を抱き竦められた。耳元で喘ぎ混じりの声がごめんなさいと繰り返して、回った腕が小刻みに震える。長袍の袖口を引くと、苦心して息を整え、
「大丈夫」
 と何とかそれだけを口にする。暫しして身体が離れると目の前に泣き濡れた顔があった。顔をくしゃくしゃに歪めてあなたを愛してる、本当よと囁く。
 日増しに精神が不安定になる様を見て怖気を感じたこともあった。今でも死の恐怖はあるが、それもやがて鈍麻になってくる。最初は水を汲みに行ったり、昼寝したりと幾らか間を挟んだ際に急に態度が冷たくなる程度だった。だから機嫌が悪いだけだと思ったが、目先で豹変すれば嫌でも理解出来る。極めつけは偶然聞いた独り言だ。母が狂ったのは自分を産み、稀な無性であったうえ分化の兆候もないことを理由に最愛の夫を含む一族から不義を疑われ追放の憂き目に遭った所為。それでも見捨てられず愛と憎しみの狭間で狂気に囚われてしまった。
 湖に突き落とされた時は怖くて堪らなかった。全くの無警戒でいたところを突如飛び込む形になって泳ぎ方も忘れる。何度も何度も水が口に入って息がままならない怖さもあった。だがそれ以上に、明確な殺意で以って背中を強く押す手のひらの感触と無感情にこちらを見下ろす姿がひどく恐ろしくて。襲われたのは初めてだったから文字通り足掻きつつ懸命に呼び続けていたら、我に返って助けてくれた。
 今はあの時抵抗しなければよかったと思う。痛いのも苦しいのも嫌だ。けれど母は生きているだけで心が壊れてしまった。何もかも自分の存在が悪いのだから、全て受け入れなければ。結果的に死ぬとしても母が解放されるならそれでいい。そう思えども死が訪れる日は来ず、そして思いも寄らない形で終焉を迎えることとなった。

 ある日夕方になってユエディは母の待つ家へ帰ってきた。息を切らし、白詰草で出来た花冠を胸に抱え。辺りにあまり咲いておらず、集落を思い出させるのは気が引け見つけても言わないようにしていたのだ。気が変わったのは草原で寝転がって居眠りし、目覚めると懐かしいものを見つけたからだった。これなら母も喜んでくれると期待に胸を躍らせていた。
 玄関を通り抜けて、台所にも姿が見えないのを確認すると居間の方に向かう。夕食時なので食卓に皿を並べているのだろう。そう思い、開きっ放しの扉に手をかけて中を覗き込んだ。
「母様、あのね――」
 言葉は続かず掻き消えた。床に座る母が顔を上げる。目が合う。そして既に首に添えられていたナイフが皮膚と肉とを断ち、掻き切られた頚動脈から液体が噴き出した。びちゃりとそれがかかる感触に思わず目を閉じ、緩々と開き直す。
 一面を染めるのは赤赤赤。ユエディの目の前も同じ色に染まり、頬を伝い落ちる何かを拭い取ったら指が赤黒く掠れて滲んでいた。落とした視線の先では床に飛び散った水滴が広がる水溜りに飲み込まれていく。何が起きているのか目の当たりにしているのに理解出来ない。足は床に縫い付けられたかのように微動だにせず、鉄錆びに似た臭気が充満する。
 暫し凍り付いた後、床板を微かに揺らして母が倒れるのを見て、我に返った。まだ瑞々しい花を握る感触を無視し、急ぎ駆け寄る。泥濘に足を取られて躓きかけ、花冠を放り出すことで踏み留まって側まで来た。
 力を振り絞り、背中に手を回して身体を抱き寄せる。血は大きく開かれた傷口から流れ出ていて、何か考える余裕もなく手で塞ごうと試みる。
「……母様」
 頭が真っ白で何も言葉が出てこない。激情は心に押し込まれたまま、激しい勢いで脈打つ心臓の音が響く。母の瞳は宙空を見やり、声が聞こえているかも定かではない。血の気が引いた顔に死を悟った。指の隙間から血が零れ、ゆっくり手を引く。いつかとは逆にユエディの涙がひと雫零れ落ちた。
 ――ごめんね。
 か細い声が静まり返った部屋に響く。俯いた顔を上げると母は確かにこちらを見返して、そして薄く唇を開いていた。それも束の間に過ぎず、眠るように目を伏せた母の身体が急に重くなって、覆い被さるように倒れ込む。
「母様……お願い、いかないで」
 言えなかった我儘が今更に溢れ出す。まだ温かい、けれどもう目覚めない母に縋った。涙腺が決壊し、ユエディはしゃくり上げる。血と夕陽に染まる中で二つある四つ葉だけが色付いていた。

(――あの時我は、母様は苦しみに耐えられなかったのだと思いました。ですが今にして思えば、違ったのかもしれません)
 ごめんねの一言と愛憎を繰り返す日々を思えば、苦しさのあまりに自刃を選んだ罪の意識があったのではとしか考えられなかった。
 けれど最期の母の顔は優しかった。これで良かったと言うように唇が淡く弧を描いて、安らかな顔をしていた。鮮明に焼きつき心を苛む記憶がその色を、意味を変えていく。憎しみに取り憑かれていつかは本当に我が子を殺してしまう。そうなる前に自らを殺すことで、ユエディを守ろうとした。だから安心し微笑んだのだ。産んだことへの後悔以上に愛されていたのだと今になって思い知らされる。
 手を頭部へと伸ばす。指先に触れるのは四つ葉のピアスだ。あの日も血に濡れず輝いていた物。渡せなかった花冠――一つだけ見つけた四つ葉を飾ってあった――を遺体に添える代わりに形見として預かってずっと身につけている。
 幸福なんて言葉は母を散々苦しめた自分には似合わないけれど。生きていてほしいと願ってくれたなら生き続けて、そして身近にいる人たちに幸福を贈りたいと思った。四つ葉を手渡したら、母が喜んでくれたみたいに。
 唇を開く。頭上を仰げば月が、草叢には蛍が仄かに光を放っている。それらを宝石のような瞳で見つめユエディは歌う。男女どちらとも取れない透き通る声で紡ぐのはいつかどこかの世界で憶えた鎮魂歌だった。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
あまり深く考えず書きたいように書いていたら
書き終わったときには5,000字近くなっていて、
ですが首を絞められるシーンからお母さんが亡くなるシーンへと
繋げたい気持ちもあったので全体をざっくり削って纏めています。
ユエディさんのお母さんへの想いを色々考えながら書いてました。
台詞については幼少期でも今と同じ喋り方かもしれないとも
考えましたが、子供の頃からの唯一無二の大事な人ということで
子供っぽい喋り方にしています(間違っていたら申し訳ないです)。
今回は本当にありがとうございました!
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グロリアスドライヴ
2019年06月14日

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