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『澱を掬うように 』
薙原・牡丹7892


 朧気な視界のはしで、やはり水面だけが緩やかだった。しかし音は聞こえない。思い出すことが出来ない。
 おそらくは。そのときに振り下ろされた刃の煌めきが、あまりに鮮烈過ぎたためだろう。 
 
 薙原・牡丹(7892)はキーボードから指をはなして一息ついた。小旅行から帰ってからは、ほぼ手がけていたとはいえ、思いの外スムーズに仕上げることができた。
或いは旅行先で想起された記憶が作業中の想像につながっただろうか。
 あまりよい、記憶とも言えるものではないが。
 そのせいか一仕事終えた達成感や充実感というものも今日はうつろだ。いまだに気持ちのどこかが浮ついているような気がする。
(お茶でも入れようか)
 そういえば、とコンロに手をかけながら、ちらつく記憶に思いを馳せる。
 振り下ろされた刀。その後ろにあったはずの、男の顔。
(あの時、どんな顔をしていただろうか)
 自然に焚かれた火とも違う色を、牡丹はしばし見つめていた。


「いやあ、また旅行に行かれると聞いて心配しましたが杞憂だったようで安心しました」
 実際、無事短編を仕上げてきたことに安堵した様子で、編集の男は笑顔を浮かべている。
「それでいかがでした、旅行の方は」
「うん、まあ」
 なんと言ったものか分からず、牡丹は言葉を濁した。何か名所のあるような所へ行ったわけでもなし。普段の牡丹であればそれでも何かしら気の利いた返しでもしたかもしれないが、そんな気分でもなかった。
 そんな牡丹を編集者はちらりとうかがっていたが、やがて話を仕事に引き戻すのだった。
「今回のも含めて先生の短編もたまってきましたからね。それでですね、そろそろまた単行本をという話があがってるんですよ」
「単行本……」
 ぽつりとこぼれた呟きは、これもまた平素の牡丹に漂う、飄然さや自信といったものを感じさせない響きを帯びていた。
 己の一人の名で出す、というのは確かにそれだけ意味が重い。
 しかし、妖怪である牡丹にしてみればそうした人としての営みも所詮は酔狂じみたものと言ってしまえるかもしれない。
 そう思っていたが、存外、自分はこの仕事に入れ込んでいるのかもしれない。
 こちらの逡巡を見抜いたのか、編集者は少しばかりいずまいを正した。
「評価や需要の面でも十分いけると踏んでます。特に今のご時世、世の中は随分進んだと思いますが、一昔前を思わせる怪談やホラーの類の話はあふれてるじゃありませんか。不自然なくらい」
「妖怪とかね」
 編集者は笑っている。
「そういった、なんというかちぐはぐな部分を、ちゃんと作品に落とし込めるというだけでも個人的には意味があると思うんです」
 話は少し続いた。
「それでですね、そうなるとやはり書き下ろしをお願いしたいと思うんですが」
 このときには牡丹は多少いつもの調子を取り戻して、
「ありがとうございます。何かしら練ってみます」
 そう返していた。

 部屋に戻ると、牡丹はソファーに体を預けながらバッグから封筒を取り出した。
 次の打ち合わせの日程を決めてからの別れ際、そうそうと少しわざとらしく手渡されたものだ。
 綺麗な便箋に綴られた文面や思ったとおり、読者からのファンレターだった。
 ただ、触れている作品の内容が気になった。最近の短編についても触れられていたが、若き武士と妖怪の作品について特に丁寧な感想が綴られていた。
 牡丹の最初期の作品だった。
 随分時間が立っているから、自分で少し目を通してもほぼ別人の作品を見るようなものである。
 ただ内容的にはやはり己であるから、己と少しずれた文面を追い続けてしまうような気持ちになって、結局抱く感想としては、
(もう少し、ここを)
 といった小言じみたものばかりになってしまう。
 同族嫌悪などという言葉もあるが、近いが微妙な違いが気になるという意味では似たものかもしれない。
 牡丹は仕事机の中断の引き出しに封筒を仕舞った。
 この作品を出して何年も経っていないというのに、己の感覚の変化にこうも戸惑う。
 妖怪、妖怪していたころなど何十年経とうが自分の内面の変化など無かったしそもそも気にもとめなかった。
 人の世の営みはかくも流れが早い。
 静まった水面の下に、ただ折り重なるのに任せるままに澱を溜めてゆくあの沼とはきっと対極にあるだろう。
 長くに降り積もり、静かに固められた澱もつよい流れに身をさらせば、少しずつその身を削って粉のようにまきあがり、ついにはその姿を消すのだろうか。
(……また少し、頑張ってみようか)
 すでに夜も更けつつあるが、酒も飲まず牡丹は椅子に腰掛けた。
 いつまで続くか。それでもいましばらくは、この人の世という流れに身を任せる日々が続くことになるのだろう。



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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【7892@TK01/薙原・牡丹/女性/31/小説家】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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 お待たせいたしました! この度もありがとうございます。少しでもお気に召して頂ければ幸いです。

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東京怪談ノベル(シングル) -
遼次郎 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年06月18日

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