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『 変わる視界 』
神取 アウィンla3388

 放浪者アウィン・ノルデン(la3388)は、眼鏡をかけている。
 視力が低いのは放浪者となる以前からのことであって、眼鏡もそのころからかけていた。
 彼の世界、カロスで作られた黒縁の眼鏡は、彼が放浪者となってからも、しばらくの間は生活の支えとなっていた。



 その日、アウィンは昼過ぎに自室を出た。夕方からアルバイトの予定が入っている。

 この世界にやってきてから一ヶ月あまり。ようやく生活スタイルも固まり始めてきた頃だった。
 バイト先は今日が初出勤の場所。実は以前面接に行ったとき一度不採用になっていたのだが、急な欠員が出たとかで声がかかっていた。

 二車線の道路を右手に見ながら、歩道をジョギングの速度で走る。不意に左側から、てん、てんと小さなボールが転がってきた。
 ちょうど目の前だったので、アウィンは車道にでる前にボールを右手でキャッチした。
「すみませーん」
 声がした方を見ると、公園の入り口で少年が左手のグローブを差し上げている。キャッチボールでもしていて、捕り損ねたのだろうか。
 少年の顔に視点を合わせようと、アウィンは目を細めた。黒縁眼鏡のおかげで視界がぼやけることはないが、ピントを移すときは少し気を使う必要があった。
 そうして少年の顔を見ると、表情が少し強ばっているのが分かった。まるでこちらの視線に射すくめられたかのように、差し上げた左手も固まっている。
「……投げるぞ」
「えっ……わっ」
 アウィンが軽く投げたボールは緩やかな放物線を描いて少年の胸元に届いたが、少年はボールを捕り損ねた。足下で跳ねるそれをあわてた様子で拾うと、アウィンにぺこりと頭を下げて公園の中へ走り去っていった。
(怖がらせてしまっただろうか)
 どうも相手の顔をよく見ようとするときに相手を睨むような目つきになってしまうらしい。直したいとは思っていても、そうしないとちゃんと見えないので難しいことでもあった。

   *

 気を取り直して走り出そうとしたアウィンの右手側から、でん、でんと今度はサッカーボールが転がってきた。
 先ほどの気まずい思いはまだ胸にありつつも、生来の人の良さがボールをスルーはさせなかった。足下にボールを止めてから拾い上げ、はて、と思う。右は車道ではなかったか。
 アウィンが見やると、反対車線側でベビーカーを押し、男の子を連れた母親と目が合った。母親が申し訳なさそうにこちらへ頭を下げたのを見て、おそらく男の子が歩きながら蹴っ飛ばしたボールが逸れて飛んできたのだろうと察する。
 横断歩道はない場所なので、さてどうしたものかとアウィンは思案する。と突然、男の子がぐいと向きを変えて車道を横断し始めた。
「なっ……」
 子供の行動とはかくも突然であり、車道をちょうど走っていたトラックのブレーキが遅れたのも分からないことでは──。
 ──などと言っている暇はない。アウィンは手の中のボールを放り出し、全速力で駆けた。
(間に合えっ……!)
 向かってくるトラックが悲鳴のようにブレーキ音を響かせる中、男の子の体をかっさらうようにして腕に抱き、車道の上をごろごろと転がった。そのまま反対側の歩道まで到達する。
「無事か?」
 己の体には痛みがないことを確認しつつ、アウィンは腕の中の子に声をかける。
 男の子はしばらく目をぱちくりしていたが、やがてアウィンに向かってにっこりと笑いかけた。
 アウィンに漲っていた緊張がゆっくりとほどけていった。

 止まっていたトラックの運転手に手振りで大事無いことを伝えていると、ベビーカーを押しつつもあわてた様子で母親が近づいてくるのが見えた。そこで初めて、アウィンは己の視界がぼやけていることに気がついた。
「む、眼鏡は……」
 右手で顔を触りつつ呟くと、男の子が言った。
「おにーちゃん、眼鏡ならひだりの──」
「左?」
 全力で左を振り向くアウィン。すると、左耳につる先だけ引っかかっていた眼鏡が、勢いよく車道へ飛んでいった。

「「あっ」」

 車道を滑る眼鏡。その上を絶妙なタイミングで通過するバイク。
 全てがスローモーションのように見えたという。



「こりゃ、修理は無理ですねえ」
 出来の悪い愛想笑いを顔に張り付けた店員が、やる気があるのか無いのか分からない、抑揚のない声でそう言った。
 子供を助けた代償として(?)車道へ飛んでいった眼鏡は、フレームはひしゃげ、レンズも片方割れてしまっていた。
 母親が弁償するといって聞かないので、助けた子供も一緒に、修理のため眼鏡屋にやってきたのだったが。
「とりあえず、使えるようにしてくれればいいのだが」
 アルバイトの予定も控えている。アウィンとしては、割れたレンズだけでも直してくれればという気持ちだったのだが、店員の口振りには是非もなかった。
「あなた、放浪者さん? ──やっぱり。素材もなんか違うんですよねえ。材質の違うレンズ片方ずつ嵌めて使ったりしたら気持ち悪いですし、ここはフレームごと新しく作り直した方がいいですよ」
「そう……なのか」
 結局、新しく作り直すことになった。

「じゃ、好きなフレーム選んできてください」
 店員が言ったはいいが、店内には(アウィンからすれば)無数の眼鏡フレームが所狭しと陳列されていた。
「選べといわれても──?」
 正直、使えさえすればデザインなんてどうでもいいとアウィンは思っていたのだが、これだけ並んでいるとその『どうでもいい一つ』を選ぶことさえ戸惑わずにはいられない。
 面食らっていたら、裾を引かれた。
「おにーちゃんの眼鏡、これがいいよ」
 先ほど助けた男の子が、アウィンを見上げていた。その手には既に、フレームが一つ握られている。
 それはシルバーのスクエアフレームであった。シンプルだが、その分上品さを感じさせるデザインである。
「おにーちゃん青いおめめきれいだから、これがにあうよ」
 自信満々の男の子に導かれて、フレームを耳にかけた。仮のレンズには度が入っていないから、鏡にはめいっぱい顔を近づけなければならなかった。
 ──悪くないな。
 それが第一印象だった。似合っているかは自分では何とも言えなかったが、少なくとも違和感は無かった。
「どう?」
「ああ。──これにしよう」
 男の子の頭に手を置いて、微笑みを作ってみせる。ぼやけた視界の向こうで、男の子が笑顔になったことを手の先で感じた。



 出来上がった眼鏡をかけて、男の子たちと別れたアウィンは、アルバイトへ。
(これは──)
 歩いているだけで、少なからず驚きがあった。

 店員に言われて検眼をしたところ、これまでのレンズは少し度がきつすぎるものだったらしい。
(故郷ではあんな風に個人に細かく合わせないからな)
 新しい視界は、広げ直したシーツのようにさらりとしていて、引っかかるところがなかった。遠くと近くを交互に見ても、全く目が疲れないのが驚きだった。

 新しいバイト先で店長に挨拶したら、店長がこう言った。
「ん? ……きみ、少し感じが変わったね」
「ああ……眼鏡が変わったので」
「少しだけど、柔らかい印象になったよ。最初からそうなら、そもそも不採用にしなかったのにね」

(そんな理由──だったのか?)

 アウィンを取り巻く世界は、世界そのものが変わってしまったときほど劇的ではなくとも、眼鏡と共にまた少し、変わっていたようであった。




━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 ご依頼ありがとうございました! 眼鏡が変わったとある日の出来事をお届けいたします。
 眼鏡って、結構印象が変わりますよね。周りから見られる印象も、自分が(レンズ越しに)見る印象も。
 顔の一部とも言われるパーツが変わる、貴重なときを描写する機会を与えていただきありがとうございます。
 イメージに沿う内容となっていましたら幸いです。
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嶋本圭太郎 クリエイターズルームへ
グロリアスドライヴ
2019年08月13日

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