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『 Papilio protenor 2 』
水嶋・琴美8036


 琴美(PC8036)はエレベーターホールから降りた。
 しんと静まりかえった廊下に出る。警戒は解いていないが傍から見れば隙だらけに見えたかもしれない。琴美はまるで公園を散歩でもするかのような足取りで奥の部屋を目指した。彼女の長い髪を風が揺らすばかりでその歩みを止めるものはない。
 警備員は1階に配備されていたあれが全てだったのだろうか。だとしたら、ホワイトハッカーの手引きがあったとしても手薄などというものではない。いや、あの屍人を倒すのは厄介か。
 目標が逃げたという連絡はない。ただのバカなのか或いは自信があるのか。恐らくは後者。
 琴美は偵察に覗いた双眼鏡の抜こう側を思い出していた。男は間違いなくあの時琴美に気づいていた。その上で琴美を待っているのだ。
 無意識に握られる手汗は緊張と言うよりも昂揚がもたらすものか。烏合の衆をいくら叩いても楽しくは、ない。それは歓喜にも似て。
 只人でないことは任務を受けた時に知らされている。準備はエレベーターの中で済ませた。
 琴美はノックもせずに目的の扉を開く。その黒い瞳に映ったのは、これが酒池肉林というものか、そんな光景だった。ペルシャ絨毯の上にソファセット、応接室なのかリビングルームなのか、全裸の女が十数人戯れる。何れも行方不明者リストに載っていた顔だ。その中に1人筋骨逞しそうな男が混じっている――ターゲット。
 それから部屋の片隅にスーツ姿の巨漢が2つ。ボディーガードといったところか。
 誰何の言はない。動じた風もなく戯れる女共に身を委ねたままその部屋の主が届けたのは、この唾棄すべき輪に琴美も加わらないかという誘いの文句だった。並べ立てるのは琴美の官能的な嬌態か、普通の女性なら聞いているだけで恥じらい顔を赤らめたであろう。しかし琴美が動じることはない。そんな事は百も承知だからだ。
 丁重にお断りを申し上げる琴美に男が右手を振る。
 巨漢が動いた。ナックルダスターをはめた巨漢が臨戦態勢をとる。琴美の両手が静かに腰帯の下のベルトに収納されたクナイのリングに指をかけた。
 前傾に身構えた琴美の今にもこぼれそうな胸の谷間に淫猥な視線が横から絡みついてきたが正面に立つ巨漢らは興味もない風で拳を振り上げてきた。重いパンチだろうが当たらねばどうという事はない。
 巨漢に違わぬ大振りと思ったが、振り下ろされるスピードと切れ味は琴美の想定を大きく上回った。余裕でかわす筈が紙一重になった事に笑みがこぼれたのは自嘲……ではあるまい。
 巨漢の左ジャブ。牽制をかわした先を狙いすましたようにもう1人の巨漢の蹴り。それを見越して琴美は後ろに退かず前に伏せながらクナイを凪いだ。軸足を狙ったつもりが飛んでかわされる。それを追うには蹴りを繰り出していた男のパンチを食らわねばならず後追いを断念して琴美は間合いをとった。
 動きに無駄のない見事な連携だ。
 肩を竦める間もなく巨漢共が畳みにかかってくる。
 琴美は全身を巡る血液を感じた。それが筋肉の隅々にまで行き渡る。滾る血流にギアを1つあげた。それだけで巨漢はもう琴美を捉える事は出来ない。
 床を蹴った。アキレス腱、膝蓋腱、膝靱帯……丁寧に切り裂いていくのは1階での教訓を経てか。
 蝶のように舞いと陳腐な言葉を使いたくなるほどの彼女の軽やかな動きはいっそ華麗であった。和服に似た上着の袖丈はさほど長いわけではないが、残像も合わさってか蝶の羽のように見えなくもない。翻る漆黒の髪と合わさってそれはさながら夜に舞うクロアゲハのように。そこから繰り出される一閃は優美でさえあった。
 巨漢を絨毯の上に沈めて琴美はターゲットの男と対峙する。
 巨漢が蘇る事はなく主たる男は鷹揚に立ち上がると琴美に賞賛の拍手をおくってみせた。
 琴美は嬉しそうに微笑みで返す。無論褒められて嬉しいというわけではない。この自信に満ち溢れた顔をどんな苦痛に歪ませようかというそれは凄艶な笑みであった。
 琴美が床を蹴る。
 だが、その前に白い影が飛び出した。得物も何も持たない女が…女達が琴美を阻んだのだ。巨漢との戦闘中も女達は声一つあげなかったのは気がかりではあったが一方で安堵もしていた。非戦闘員の狂乱ほど面倒な事はない。恐慌に陥って暴れられでもしたら手がつけられないからだ。男の洗脳であったとしても静かにしてもらえるのはありがたかった。
 それが……こうきたか。
 男は女達を盾に悠々とこの期に及んで酒池肉林を貪っている。琴美が被害者でしかない女達に手をあげられない事を知っているからだ。昏倒させれば1階の警備員らのようになるかもしれない、という足枷。
 掴みかかろうとする女に為す術なく後退する。
 琴美は両手のクナイをホルダーに戻した。小袖から薬瓶を取り出し中身をグローブにかける。その甲にボウと浮き上がったのは魔術刻印。琴美の任務は元より対人だけではない。これまでも魑魅魍魎人でないものまで相手をしてきたのだ。1階の屍人を作るものが何かなど考えれば彼の正体が何であるかは想像に難くない。エレベーターの中で準備した。
 操り人形の女達の頸動脈に手刀を落とす。昏倒する女達は1階の警備員らの二の舞にはしない。
 女達を全員昏倒させた琴美は両手にクナイを握り男の前に立った。
 得物も何も持たぬ全裸の男が琴美を残念そうに見上げゆっくりと立ち上がる。横にも縦にも琴美の5割り増しの巨体を前に琴美は無意識の舌なめずり。
 先に動いたのは男の方だった。巨漢との戦闘を見ていたのだ。琴美のスピードは知られている。だからそれを上回る人外のスピードで。
 琴美は敢えて避けなかった。ただ、そこにクナイをあてがっただけだ。
 クナイが男の腕に太く赤黒い体液の線を作った。
 男が動じた風もなくその線を指でなぞると線は消えた。
 男が嗤う。彼は知っているのだ。琴美の武器では彼に傷一つ付けられないことを。
 琴美は満足そうに笑みを返した。そうでなくてはならない。自分の優位を疑って貰っては困るのだ。その上で、その上だからこそ。
 先ほどとは別の小瓶をクナイで割る。そこに別の刻印を浮かばせて、琴美はクナイを無造作に男に向けて投げた。
 男は避けない。クナイが男の肌に突き刺さる。
 男は初めて驚愕に顔を歪めた。
 傷が治らない事に。
 琴美は楽しそうに微笑んだ。それは何とも濃艶で妖美ですらあった。
 黒く長い髪が舞う。
 だが男はもう、大きく揺らぐ胸にも細く括れた腰にも官能的な尻にも、目を奪われる事はなかった。
「その罪、一つ一つその体に刻んであげますわね」
 そう囁く彼女の声に絶叫を重ねるのが精一杯であった。


 ▼


 男がそこここに赤黒い血溜まりを作ってうつ伏せに倒れていた。
 琴美は静かにクナイの血肉を拭ってホルダーに仕舞う。
 女達の様子から1階の屍人らも今頃はただの死体となっているだろう。
 大きな胸を一際大きく膨らませ、琴美は深呼吸に高揚感を押さえ込む。
 任務完了の報告と後始末を頼んで琴美はその部屋を出た。
 もう今回の任務に対する感情は消えていた。
 あるのは次の任務への期待感だけだ。
 どんな任務がきても失敗や敗北はない。
 まだ見ぬ新たな任務に心躍らせ琴美は“拠点”への帰路についた。



 END



━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

ありがとうございました。
楽しんでいただければ幸いです。

東京怪談ノベル(シングル) -
斎藤晃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年08月29日

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