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『黄泉路』
水嶋・琴美8036

 黄泉比良坂というものがある。
 この国の古き神語りに綴られし、現世と黄泉との境なる処。人は死してこの坂を渡り、黄泉へと赴くわけだが、しかし。
 今、東京の片隅に“路”が顕われ、生者を引き寄せていた。生きながらにして黄泉路を進んだ者は命を抜かれ、虚ろの肉体ばかりを此の岸に残す。
 そして、残された肉は……

 黄泉醜女の依り代にされるということね。
 水嶋・琴美(8036)は首を傾げて敵の手をやりすごし、豊麗な肢体を巡らせた。
 その指先から弧を描いて伸び出したものはワイヤー。蛇体を摸した構造を持つこのワイヤーは、そのままに獲物を縛り上げれば動きを拘束し、強く引けば“鱗”が立って敵を裂く。
 それが琴美の回転によって新体操のリボン演技さながら彼女の身を取り巻き、突っ込んできた敵に巻きついて、一気にその肉を縛り上げた。
「魂を戻せるかわからないけれど、確定するまでは転がっていて」
 歌うようにささやき、跳ぶ。
 長く伸ばした黒髪を抑えるベレー帽。悩ましいボディラインをそのままに映す軍服。そして縁を飾るミニ丈のプリーツスカート。すべてが鮮やかに赤い。自衛隊内に非公式で設立された特殊部隊から貸与されたお仕着せではあるのだが、その色は死線のただ中で彼女をこれ以上なく際立たせ、溶け込ませていた。――魔や死者は、血の赤にこそ魅せられるものだから。
 ゆえに、黄泉醜女も琴美に釘づけられ、こうして虚(うつろ)の肉を繰って追いかけ回してくれる。
 でも、黄泉醜女が此の岸(現世)に来ているということは、裏にいるのはイザナミということね。
 イザナミといえば、夫のイザナギと共にこの日本を創った母神である。黄泉醜女は妻恋しさに黄泉まで下ってきたはいいが、その腐れ果てた様に怖じ気づき、逃げ出したイザナギを追った者どもである。
 とにかく、イザナギが黄泉路を塞いだ岩を探さないと。

 鉄パイプや包丁を握った虚が琴美へ迫る。
 虚の得物は死によって穢されている。触れられれば命の熱を奪われ、琴美は全うな形で黄泉路を辿らされることとなろう。
 私に触れられるなら、ね。
 琴美は左手へ抜き落としたナイフをビル壁に突き立てた。それを手がかりに、虚の攻撃が届く寸前、壁を蹴って上へ。さらに上階の室外機へワイヤーを飛ばしてからめ、さらに上へ至る。
 と、虚どもの後方より警官だったものが拳銃の銃口を向けてきた。生前の腕前はともかく、今はしっかりと彼女の腹に狙いが定まっている。
 それを見切られたら意味がないけれど。
 握り込んだワイヤーに体重を預け、室外機を蹴って壁を駆ける。射線を外された警官はすぐに弾を撃ち放すが、彼女の疾走に追いつけない。
 壁を駆け下りた琴美は痛烈な跳び蹴りを先頭の虚の顎へ喰らわせ、ワイヤーで拘束。アスファルトへ着地すると同時に新たなワイヤーを伸べつつ、虚どもの足元を転がり抜け、脚を刈って引き倒す。数体分の体重を利して体を跳ね起こし、手に残していたワイヤーを支えに横回転。後ろ回し横蹴りを警官へ打ち込んで噴き飛ばした。
 この場にある虚の拘束を終えた琴美は、虚の辿ってきた路を遡ることを決め、踏み出した。


 伽羅のような、百合のような、それらを摸した没薬のような……安っぽく甘ったるい臭いが琴美の鼻を刺す。
 これは死の臭いだ。黄泉から漏れ出し、黄泉比良坂を這い上がって此の岸にまで届いた、死国の空気。
 黄泉路が拡がっているのね。
 琴美は五感の内の触感を澄ませ、気配を探る。
 これほどに色濃い死を引き寄せるのだ。虚などという小者ではありえない。ならば肉を持たぬままの黄泉醜女か、それともなにかしらの器を得て顕現した神か。
 どうせなら神であってほしいところだわ。
 不敵に薄笑んだ琴美の頬を、ざわり。薄暗い熱気がなぜた。
 敵が近い。
 戦うべき強者が、近い。

 琴美を出迎えたのは、迫り来る赤炎の壁だった。
 彼女はワイヤーを放って壁へ斬り込み、断ち切れた隙間を横転ですり抜ける。
 鼻先を行き過ぎる炎を見やり、琴美は胸中でつぶやいた。見た目はともかく、この程度の熱で私が焼けるつもり?
 暗赤色の炎は数百度程度。装備の守りがあれば強引にすり抜けることもできる。それをしなかったのは敵に見せつけるためだ。容易く切り抜けられるだけの技と術が、こちらにはあるのだと。
 そして地を踏んだ琴美は敵の姿を見る。赤々と燃え立つ肢体を備えた男の姿を。
 虚を燃やして依代にしているわけね。こんなことができるのは神以外にありえない。
 日本神話に語られる火の神は多々存在するが、誰だろう? まあ、どうでもいいことだ。形があり、その身の安全を確保しなくていい相手ならば。
「思いきりやらせてもらうわ――神殺しを」
 火神が投げつけてきた炎弾をブーツの踵で蹴り払って、一歩。
 地より噴き上げる炎を跳び越えて、二歩。
 中空から降り落ちた炎槍をすり抜けて、三歩。
 突き込んできた炎刃をナイフの鎬で弾き上げて、眼前へ。
 熱気が琴美の髪先を焦さんとするが、それに捕らわれるよりも迅く身を翻してナイフを斬り下ろせば、火神の内に小さな石が封じられているのが見えた。
 あれが“岩”ね。
 依代もそうだが、彼の岸の影響を此の岸へ顕現させるには、「見立て」となるものを用いることとなる。つまりはあの石を奪って投じれば、それは見立てとしてのイザナギの大岩となり、黄泉路は塞がれるのだ。
 炎と化した肉の傷を何事もなかたかのように塞いだ火神は、自らの色を暗赤から橙へと変じさせた。
 放たれる熱気がいや増し、煽られた琴美の髪が舞い踊る。
 その中で彼女は感じていた。より深き処から、巨大にして強大なものが這い出してこようとする気配を。
 イザナミに深い縁を持つ火の神。イザナギの封を解いたのが贖いだとするなら、あなたの名前はそう――
「カグツチというわけね」
 イザナミより生まれ落ちたカグツチは、自らの炎で母を焼き、死なせる原因となった火神だ。
「会ってみたい気持ちはあるけれど、この世界の人たちは巻き込めないものね」
 琴美は顕現した数十の火剣の軌道を見切り、狭間へと滑り込む。轟炎の刃は彼女を貫くどころかかすめることすらできず、地に突き立ってアスファルトを沸かせた。そして。
 琴美はバックラインに飾られた艶黒のストッキングで鎧われた脚を伸べ、カグツチの首へ巻きつける。これだけの熱の中で燃え上がらないのは、彼女の体術を支える“風”により、弾かれているからだ。
 琴美はカグツチの首を脚で捻り込み、掴んだ右腕を捻り上げた。
「あなたの望みは人の手で断たれる。それを噛み締めて常世の底へ還りなさい」
 首と肩とをへし折ると共に、地へ打ち込んでいたワイヤーを引き上げ、依代を裂く。
 内からこぼれ落ちた石は転がって、黄泉路のただ中に自らを据え、塞いだ。
 果たして崩れ落ちていくカグツチの怨嗟が響き渡り。
 琴美は深淵より響く女の声を聞いた。
 神あなどりしものに我が呪いあらんことを。

 独り残された琴美は塞がれた路の先へ視線を向けた。
 神であれ、此の岸へ来たるには多くの制約が課せられる。そんな相手に負けることなどありえないが、もし、純然たる神と対したなら、それでもなお自分は笑んでいられるか。
 ――かぶりを振って琴美は歩き出す。その歩みは迷いなく直ぐでありながら、どこか茫漠とした頼りなさを映し、儚げに見えた。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2019年09月19日

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