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『痕弔』
柳生 楓aa3403

 アイルランド東部に位置するウィックロー州。晴れていてもどこか茫漠と濁った空の下、黒き川流れる荒野と湿地が描き出す有り様は「地獄」と称される。
 その地獄のただ中で、柳生 楓(aa3403)は独り息をついた。
「来ちゃいました」
 ささやきかけた言葉は吹きゆく風にさらわれ、流れ流れゆく。
 届いただろうか?
 いや、届かないほうがいい。むしろ追いつけずにかき消えてくれればいい。
 この地に散った人狼たちには地獄などではない、あたたかな場所に旅立っていてほしかったから。

 改稿に継ぐ改稿を経て、なんとか出版までこぎつけたノンフィクション小説――H.O.P.E.と愚神との戦いをテーマにした楓目線の記録――は予想以上に売れてくれて、だからこそ思い知った。
 人々はあの戦いに高い関心を持っていて、世界を救ったエージェントに強く注目していることを。
 決戦の最前線に立ったエージェントたちは各媒体に引っ張りだこ状態だし、映画の主人公になったりもしているらしい。ちなみに楓も今回の出版で一気に目をつけられ、虚実どころかほぼほぼ虚な企画への出演依頼を多々受けていたりする。
 それから逃げたかったわけではない。と、言えば嘘になるが、今だからこそしたいことがって、彼女は日本を文字通りに飛び出したのだ。――あの戦いの物語を綴ることで得たギャランティを全部使って、縁の地を巡る旅へ。
 最初に向かったのはロシア。H.O.P.E.の公式記録に【絶零】と記された極北の戦いで散った人々やエージェントの墓を巡り、すべてが無事に終わったことを報告した。
 他の誰かがとっくの昔に告げてはいるだろう。しかし、どうしてもけじめをつけたかったのだ。我儘を貫き通し、描かれるべき終章を書き換えてしまった自分自身で。
 墓参りを済ませた彼女は次いで、H.O.P.E.サンクトペテルブルク支部へ赴いた。【絶零】に参戦したエージェントらと思い出話を交わし、覚悟を決めて酒杯を交わす。成人しているから飲酒をためらう必要もないのだが、酒といえばウォッカという地域である。これから数年は空瓶も見たくないくらいに飲んで、飲んで、飲み明かしたわけだが……

 今、アイルランドへ至った彼女の手には、ウォッカの大瓶が握られていた。
「人狼群とぶつかり合ったロシアのエージェントと、あの戦いの話をたくさんしてきました。皆、口をそろえて言っていましたよ。あんなサバーチィ・フイ――訳すことは避けるが、この場合は強敵への賛辞である――とは二度とやりあいたくないそうです」
 歩き出しながら瓶の封を開け、口を下へ向けて、中身を地へとそそぐ。
「このお酒、その人たちがくれたんです。あなたがたに飲ませてあげてほしいって」
 地獄とはいえアイルランドが誇る観光地である。戦いの名残など残されていようはずはない。だから、せめて心尽くしの酒精で、少しでも広く荒野を潤していく。
 そしてその濡れた土の中心部を指で掘り返し、酒瓶を半ばまで埋めた。
 果たして道なき地獄の片隅に、即席の墓標が立てられる。
「最初はシベリアに、と思ったんですけど」
 人狼の郷里はこの世界ではない異世界だ。それならば最期、群れの全員が斃れたこの地こそが、墓を立てるにふさわしいだろうから。
「おかしいですよね。あなたがたが旅立っていてくれますようにって願ったはずの私が、ここに縛りつけたくてよすがを置くなんて」
 死者はなにも求めない。なにかを欲しがるのはいつだって、残された生者のほうなのだ。
 楓は奥歯を強く噛み締める。
 私は、あなたがたに残っていてほしいのかもしれません。それがあの子にとって、なによりの救いになることを知っているから。
 最近は“鋼脚の聖女”などというキャッチフレーズで呼ばれている楓。しかし自分が聖女なんかじゃないことは誰よりも思い知っている。
 誰のためでもなく、感傷に突き動かされるまま飛び出して、自分の必死ばかりを押しつけるような私は、聖女どころかただの馬鹿女ですよね。
 でも。
「私の馬鹿な願いなんて置いていってください。大丈夫です。私はあなたがたを踏みつけてあの子の先を拓いたんですから。その責任、一生をかけて果たします」
 その代わり、たまに弱音は吐かせてください。あなたがたがいてくれたらよかったって、愚痴をこぼすのを見逃してほしいんです。そうしたらちゃんと顔を上げますから。
 胸の内でつぶやいて、約束どおりにうつむいていた顔を上げる。
 もしかしたらと思ったが、風があの人狼たちの言葉を運んでくることはなく、地獄はどこまでも寂寥に満ち満ちていて……楓は独りきりだった。
 なんとももの悲しくて、逆にうれしい。きっと人狼たちがあるべき処へ旅立ったからだと思えて。それも感傷に過ぎないことを知りながら、彼女は踵を返した。
「また来ます。きっとそのときはお墓、見つけられないでしょうけど」
 それがいい。死者に救いを求めて迷い込んできた生者など、さんざん迷えばいいのだ。安易に救われてしまったら、すぐにまた救われたがる。救われないことを弁えていればこそ、人は自らの力であがくのだから。


「いらない」
 路地裏の喫茶店、そのいつもの席で、楓に“取り分”を示されたリュミドラ(az0141)は、眉根をしかめて熱いコーヒーをすすった。
「勝手にしろってあたしが言って、おまえは勝手にしたんだ。話はとっくに終わってる」
 彼女と同じベロニカ――黄金の愚神が好んだペルーの豆だ――を満たしたカップを手に、楓は小首を傾げてみせる。
「あなたの話を書かせてもらったんですから、当然の報酬です。それにほとんど使っちゃいましたから、これはただの余りなんです」
 リュミドラの眉根がさらに下がった。
「ほとんど使ったって、家でも買ったのか?」
「残念ですけど、印税にそこまでの夢はありませんよ」
 今も少しずつ本は売れているので印税も入り続けてはいるのだが、実際にそれほどの額ではない。次にまとまった金が入るのは3年後、単行本として発売されている本作が文庫本になったときだろう。
 と、それはともあれ。
 機関車のボイラーに炭をくべるような勢いでコーヒーへ砂糖をぶち込んで、リュミドラは白い面をしかめたまま言葉を継いだ。
「だったら酒でも飲めばいい。それでクソみたいな思いつき全部、忘れちまえ」
 まあ、そう言われるだろうなと思ってはいた。彼女はけして馴れ合わない。ふとそばへ近づくことができても、次の瞬間にはもうすり抜けていってしまう。このあたり、狼の性というものなのかもしれない。
 捕まえようとすれば逃げられる。それはもうわかっていますからね。
 楓はよしと心を据え、言葉を紡ぎだした。
「本を書く前に約束しましたよね。外でならご飯でもお酒でも付き合ってくれるって」
「飯ならオーストラリアで無理矢理食わされただろ。それに酒の話なんかしてない」
「約束は一度きりのものじゃありません。これから先、ずっと続くから約束なんですよ」
 したり顔で理不尽に言い切れば、リュミドラは表情を変えずに席を立とうと弾みをつける。だめですよ、あなたがそうするだろうってことも、ちゃんと知ってるんですから。
「話供養というものがあるんです」
 意味がわからないことを言われたリュミドラが、思わず動きを止める。
 それを確かめた楓はもう一度座るよう促し、努めてゆっくりと話し始めた。


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2019年09月25日

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