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『丸投げの明日』
日暮仙寿aa4519)&不知火あけびaa4519hero001

「課長、OJTの件で総務部から問い合わせが入ってます。それからエージェントの映画出演における契約条文の改稿指示と、H.O.P.E.関連書籍のゲラ(書籍等の試し刷り)チェックと」
「……俺の頭はひとつきりで、ついでに口もひとつだけだ。せめてひとつめの話に応えてから次の話をしてくれないか」
 目頭を揉み揉み机上に拡げた書類から目を離し、日暮仙寿(aa4519)は緩めていたネクタイをさらに引っぱり下げて息をついた。
「OJTについてはうちからの口出しは不要だ。というか、あれだけ大騒ぎして落としどころへ落とし込んだんだ。あとは実地で効果を計るしかない。契約条文のほうは臨時チームが改稿にあたっている。あと2日くれとのことだから、明後日には届くだろう。それからゲラのチェックはたった今終わったところだ」
 それを聞き終えた部下は小首を傾げ。
「全部聞いてるじゃないですか」
「それなりの歳にはなったけどな、まだ追いつかなくなるほど衰えてないさ」
 ふむ。部下は後ろでまとめた紫の髪を揺らしてうなずき、そっと声音だけを仙寿の耳元へ飛ばし。
『日曜日は大丈夫そう?』
 対して仙寿は唇の動きだけで『そのために無理してる』と応え、続けて声に出して。
「さて、ちょうど一段落したことだし、食事休憩をもらうか。ああ、そうだ。不知火はゲラを戻しに行くんだろう? その前に休憩を取っていくといい」
 辺りに目線を飛ばした部下は、誰もが見て見ぬふりをしていくれているのを確かめた後、小さくうなずいた。
 不知火あけび。不知火は旧姓で、今は日暮あけびが本名となる彼女だが。夫である仙寿の部下としてH.O.P.E.法務部へ配属されるにあたり、旧姓を名乗ることとしていた。ようするに彼女なりのけじめなのだが……まあ、周囲の気づかいを見れば、そのあたりは少々怪しそうだ。
「昼休みは全職員に認められた権利だからな。うん、それだけのことだ」
 怪しいのは仙寿も、であるらしい。
 そして並んで歩き出した仙寿とあけびの背を、生暖かい視線が送り出す。放っておけばいつまでもひとりで仕事をし続ける仙寿があけびのフォローで息をついてくれるのは、正直彼らにとってもありがたかったし、なによりふたりの間に通う空気は、つい見守りたくなるほどあたたかく甘かったから。

「法務って広いよね。エージェントの権利と保障! それくらいだと思ってたのに」
 食堂の一席に腰かけ、息をつくあけびに、向かいの仙寿は苦笑いを見せ。
「契約と取引だけでも多岐に渡るし、組織内の規定やトラブル処理も範疇だからな。でも、それがちゃんとできてなきゃ、体を張ってくれてるエージェントが困る」
 志をもって法務の道を選んだ仙寿にしても、最初はかなり辛い思いをした。取らなければならない資格が多々あったし、取っておいたほうがいい資格も同じほどにあった。その上で実務へ臨み、経験を積む必要まであるのだ。正直、「戦っているほうがマシ」だと思わずにいられなかった。
 それでもあきらめなかったのは、力と技ばかりで斬り取ることのできるものの小ささを実感していたからだ。より大きなものを斬り取り、自分ばかりではなく他者へと分け与えたい。少しでもその歩が軽くなるように。
 大切な仲間たちが教えてくれた。俺が為すべきことと、成したいことを。だから俺はここにいる。
「また難しい顔してる」
 あけびが仙寿の頬をつつき、笑みを傾げた。
「気負いすぎだよ。もっと信じて、頼らなくちゃ」
 それにしても変わらない。結婚してもうそれなりの時間が過ぎたはずなのに、こうしてなによりやわらかく、明るい光で仙寿の暗がりを払ってくれる。
 知らぬうちに自分の内へ押し詰まっていた気負いを息と共に吹き抜き、仙寿は背を直ぐに伸ばした。
「……わかってはいるつもりなんだがな。俺だけでは得られないものを得るには皆の力が不可欠だってことは」
 異例とも言える早さで課長へ昇進できたのは、H.O.P.E.の会長であるジャスティン・バートレット(az0005)が純然たる実力主義者であり、その目に仙寿の成果が認められたからに他ならない。
『君は優秀だ。天賦の閃きではなく、万全の備えを堅実に構築するタイプだ。そんな人材は普通、平時にこそ生きるものなのだが……君の堅実性は常に有事へ向けられているね。これはエージェントとしての経験によるものかな』
 わざわざ自らの手で辞令を渡しに来たジャスティンは、仙寿へウインクを送りながらそう言ったものだ。そして。
『ともあれ視野を広く持つように。君を昇進させた理由は成果を評価したこともあるが、君という人物の成長を促すには適切だろうとの判断による』
 勝負に出たつもりはないが、卓を離れるつもりもない。私のチップの行方は君次第というわけさ。
 言い置いていったジャスティンの背に、仙寿は青ざめた顔をうなずかせた。
 会長は俺に賭けてくれた。万一の責任は自分が取ると保障して。気楽に行けと言わなかったのは、役職と責任にどう向き合うかもまた仙寿次第であるからだ。
 ――有事向きの人材でいるわけにはいかない。有事に備えつつ、今このときの平時を永く保てる人材にならなければ。
 気合を入れなおす仙寿を見上げて、あけびはやれやれ、かぶりを振った。仙寿はほんと、生真面目だからなぁ。でも。
「日曜日はがんばってね。あ、でも本気出したらだめだよ」
 う。コーヒーを飲み込んだ仙寿の喉がそのまま詰まる。
「……息子の運動会だぞ? その、さすがは父上って言われたい、そう思うだろう普通」
 父上とか呼ばれてないけどね。胸の内で反論しておいて、あけびは「思うだけにしときなさい」、ぴしゃりと叱りつけた。
「一位は取っていいよ。でもぶっちぎるのはだめ。ほかのお父さんにだってメンツがあるんだからね」
「だからって全力を尽くさないのは無礼だろう」
「道場の宣伝だと思えばいいでしょ。あなたもやりますねー、どうですこの機会に鍛えてみてはー、って持ちかけるの」
 納得しきれない仙寿の顔に、もう一度やれやれ、かぶりを振るあけび。
 常に全力を尽くすのは美徳だが、基本的には週末だけ開催している剣術道場の経営や運営という観点からすれば不正解だ。ましてや保育園の運動会で、能力者が本気を出すなど大人げなさすぎる。
「私もがんばってお弁当作るから! 出汁巻、子どもの分と別に甘くないのも入れてあげる!」
「いや。せっかくいっしょに昼飯が食えるんだ。同じものを分け合いたい」
 気づかってくれてありがとう。そう言ってもうひと口コーヒーを飲んだ仙寿は、ふと付け加えた。
「あけびの作ってくれる料理はなんでも、なによりうまい。食堂の飯も悪くないんだが、子どもと同じ弁当を持って来たいのが本当のところだ」
 課長がキャラ弁を持ってくるわけにはいかないし、食事は部下との大切なコミュニケーションの場ともなる。だからこそこうして食堂通いをしている仙寿だが、本音は実にかわいらしいものである。
 ほんと、生真面目で子煩悩で、愛妻家なんだから。
 あけびはゆるみそうになる口元を必死で抑えつけ、澄ました顔で運ばれてきたB定食を受け取った。


 部下たちとのミーティングが終わったのは18時過ぎ。想定よりは早く済んだのは、部下が思いのほか優秀だったおかげである。
 これならこの仕事は任せてしまえるな。仙寿はそう思い、せっかくだから飲んで帰るという彼らと別れて帰路へついた。
 一歩ずつ家へ近づくことがうれしい。一歩ずつしか家へ近づけないことがもどかしい。うれしいともどかしいを繰り返し、ついに辿り着いた門の向こうには子どもたちが並んでいて。
 お帰りなさいませ。きびきびと頭を下げる長女の脇から、長女の三つ下の長男が、四つ下の次女を抱えてわーっと駆け寄ってきた。
「遅くなった。夕食はすませたのか?」
 次女ごと長男を抱え上げて問えば、待ってた! と元気なハーモニーを響かせる。
「そうか。なら、いっしょに食べられるな」
 礼儀正しくすらりと立つ長女へうなずきかけ、ふたりの子どもでいっぱいの右腕の代わり、左手を彼女へ伸べる。
 いくらかためらい、結局手を取った長女を見下ろして、うん。この子は俺にいちばん似ている。将来はこの気性で困ることになるかもな。
 親になってみて痛感するのは、子をいつまでも守ってやることはできないのだという現実だ。いずれ手を離し、放してやらなければならない時は来る。それがいつなのかはわからないが、少なくともそのときになって子へ飛んで行くなとすがる親にはなるまい。しかし、それまでは――もう少しだけ――
 少しだけ力を込めて子らを自らへ繋ぎ、仙寿は出汁の香り漂う家の内へと踏み入った。

 全員が席についたのを確かめて、正座した背をきゅっと引き締め、長女が手を合わせた。いただきます。
 そこからはまあ、賑やかだった。長男も次女もまだ幼いし――長女にしても小学校3年生だから、幼女の域にあるわけだが――母親であるあけびからして賑やかな質だから、子どもたちが全力でぶつけてくる報告や問いかけや要求に、同じ熱量をもって相槌や返答や可否を返している。
 こういうときは母親が強いな。微妙な寂しさを感じつつ、仙寿は苦笑する。
 どうにも俺はこう、受けないんだよな。あけびみたいに子どもたちと視線を合わせられない。父親としては威厳があって正しいのかもしれないが、それにしてもな……
 ふと気づけば、となりに座す長女が仙寿を見上げていて。
 彼女は食事が終わったら剣の型を見てほしいと、少し恥ずかしげに申し出た。
 ああ――仙寿が思わずくしゃくしゃと長女の頭をなで回してしまう、そのとき。長女ばかりずるいと、長男と次女が殺到した。
 なんだ、こんなに好かれてるじゃないか。まあ、考えてみれば当然か。俺ほど子どもたちを愛して大切にしている父親なんて、世界でも数えるほどだろうしな。
 と。にやついている場合じゃない。今は食事の席だ。最低限の礼節を弁えられなければ子どもたちが恥をかく。俺がするべきことは、皆を引き離して座らせることだ――座らせることだ――座らせる、ことだ――
「……仙寿の葛藤はお察しするけどね。そこはちゃんと席に戻りなさいって言わないと」
 ため息をつきつつ、あけびが子どもたちを引き剥がしてつまみ上げ、「お父さんが甘々だからって付け込むのはずるいことだよ!」と叱りつけた。
 そうか。俺は威厳どころか甘いのか。
 いろいろと思い知りつつ、もう一度長女の頭をなでる仙寿だった。

 仙寿は子どもたちに手伝ってもらいながら食器の後片付けをすませ、一時間だけと決めて剣の稽古をつけてやった。
 次女はすでに眠そうだったので、あけびに託して風呂へ。
 長女と張り合いたい長男は懸命に稽古していたが、腰はしっかり据わり、剣もやけに伸びるくせに、なぜか軌道は千々と散って定まらない。
 しかし、それはそれでおもしろいと仙寿は思うのだ。長男が剣の緩急を覚えられたなら、相手はその剣閃を読めなくなる。天衣無縫は宿縁の敵方(あいかた)の謳い文句だが、その域に行ける可能性がもっとも高いのは、日暮家の内では彼だろう。
 そして長女は……親の欲目抜きで見入ってしまうほど綺麗な剣である。
 しかし言い換えれば、型にはまった剣ということだ。人にはそれぞれに癖やリズムといった個性がある。型どおりの綺麗過ぎる剣では、いずれ個性に先を阻まれ、斬り落とされるだろう。
 まっすぐ伸びるだけでは行き詰まる。もう少し、曲がることも折れることも考えられるようにしてやりたいところだな。このあたりはあけびとも装弾するべきか。
 ……稽古終わりの子どもたちを、あけびが待ち受ける風呂へ送り出した仙寿は、あれこれと思い悩む。

 自身も風呂を済ませ、仙寿はようようと落ち着いた。
 社会人になってなにより辛いのは、こうして息をついたというのにすぐ程なく眠らなければならないことだ。
 ちなみに長女は明日の予習をするため部屋へ、長男は次女の寝かしつけに寝室へ向かっていたが、おそらく長男はすでに力尽き、次女といっしょに寝入ってしまっているだろう。
「布団をかけにいってやらないとな」
 ふとつぶやけば、あけびがにゅっと顔を出し、「そっちはぬかりなく」。
 ああ、これはつまり、そういうことか。
「……少しだけだぞ」
「それも承知してます」
 あけびが隠していた左手を見せる。そこにしっかりと握られた、日本酒の四合瓶を。

「乾杯」
「ああ」
 20歳の誕生日にあけびから贈られた薩摩切子のグラスを取り、あけびが持つそろいのグラスの縁へ縁を合わせる。
 そうして淡麗辛口を舌の上へ転がせば、かろやかな米の旨みが鼻の奥へと抜けていった。
「あの子のこと、悩んでる?」
 あえて長女の名を唱えなかったのはあけびの気づかいだ。それを承知しているからこそ仙寿はうなずいて、言葉を返した。
「まっすぐに育ててやりたいんだが、それがいずれ頭打ちになることも知ってるからな」
「大丈夫だよ。私も教えてるし、あとは剣術と忍術、うまく切り替えられるようになれば、ね」
 俺の前では忍術なんて欠片も見せないのにな。そう思ってみると不安になった。弱気に任せて、あけびに問うてしまう。
「俺はちゃんとできてるか?」
 父を。師を。夫を。社会人を。
「そんなこと訊く人ができてるって思う?」
 ぎくりとすくみ上がった仙寿を、あけびの両腕が包み込んだ。
「まだ未熟でいいんじゃない? 人生まだ折り返してもないのに、どれくらい生きてるかわからないお師匠様みたいにならなくていいよ」
 仙寿はまた、ぎくりとすくむ。
 そうか。俺は無意識の内、あいつになりたがってたのか。でもな。
「未熟なりにもう少し、と思うのは、俺の融通の利かなさなんだろうが。難しいな」
「そういうときの手はひとつ!」
 言い切って、あけびがするりと仙寿の胸元に滑り込んできた。
 猫みたいだなと思いつつ、受け止めてやって。
「まったく思いつけない俺に、その手を教えてもらえるか?」
 仙寿の胸から顔を上げたあけびは最高の笑みを見せて。
「明日の自分に丸投げする!」
 それはただの逃避じゃないのか? そう思いかけて、思いなおした。
 確かに、明日の俺は今日の俺より熟練しているわけだしな。それに焦ったところで今日の未熟が容易く覆せるものでもない。そうやって明日の俺へ送っていくのは逃げじゃなく、余裕ってことか。
 仙寿は息をついてあけびを抱き寄せ、畳の上へごろりと寝転がった。
「よし。全部丸投げて、今夜はあけびのことだけ考える」
「考えるな、感じろ! 私、ここにいるんだからね」
 問題と悩みはこれからも尽きないだろう。
 しかしすべてを明日へ投げ出しながらやっていく。
 いつか追いつけばいい、そんな気持ちで。
 家族を支えて家族に支えられて、ゆるゆると。


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2019年10月09日

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