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『オータムナルの宿題』
リィェン・ユーaa0208

 鍛え抜いた体を三つ揃いのスーツに包んだ――というより押し込んだリィェン・ユー(aa0208)は、スモールノットにまとめたマンダリン・オレンジのネクタイの角度をいじりつつため息をつく。
 月から生還し、地上へ降り立った瞬間から、針先ほどの自由時間すら与えられないままテレビ局、ラジオ局、講演、映画館と引きずり回されてきた。27日めの今日、2時間の猶予をもらうため、うんざりするほど粘り強い交渉を重ねる必要があったのだ。
 間に合わせられただけでも御の字だと思うしかないんだが。
 セダンの後部座席でもう一度ため息をついたリィェンに、運転席からテレサ・バートレット(az0030)が声音を投げかけてきた。
「入口まででいいのね?」
 スーツに皺がついては大変だと、こちらも分刻みのスケジュールをやりくりして運転手を務めてくれているテレサである。せめて会っていってもらいたいところではあるのだが……
「せっかく会長と会える機会を潰してしまってすまない」
 これからリィェンは、ニューヨークのとあるホテルのティーラウンジでジャスティン・バートレット(az0005)と会う。
 本題はテレサとの婚約の報告だ。しかし、それで済むはずがないことをリィェンもテレサも知っている。だからこそこの機会はリィェンのみで、となったわけだ。
「定時連絡で話してるし、別に。それよりも気をつけてね」
 ホテルを運営するのは万来不動産。ライヴスリンカーと縁が深く、さらにはH.O.P.E.にも古龍幇にも与する営利組織であればこそ、一種の緩衝地帯として機能するだろうことから選ばれた“言の葉の戦場”である。
「ああ。……いざってときには察して攫いに来てくれよ」
 つい弱気なセリフをつぶやけば、テレサはひとつ鼻を鳴らしてみせ。
「あのホテル、セキュリティが固すぎて突破は無理そう。悪いけど自力でなんとかして」
 愛ってのは無力だな。三度めのため息をつくリィェンだった。


「時間に限りがあるんだ。礼はいいから座ってくれたまえ」
 先に着いていたらしいジャスティンが向かいのソファをリィェンへ勧める。
 それにしても絵になる男だ。見かけばかりでなく、しぐさの端々や匂い立つ風情に至るまで、わずかな隙もない英国紳士ぶり。
「失礼します」
 ジャスティンの前に置かれた茶がダージリンであることをにおいで確かめ、リィェンはボーイに「同じものを」と頼んだ。
 ダージリンは収穫時期が年4回あり、それぞれに明確な特徴がある。時期を考えればモンスーンフラッシュかオータムナルだろうが、あえてファーストフラッシュかセカンドフラッシュを選択している可能性もある。
「茶の水色(すいしょく)から収穫時期の別を見抜く自信がまだないもので。香りの邪魔はしたくありませんから」
 無難な選択に含めた気づかいと、これから学ぶ――すなわち付き合いを続けていきたい意向の提示。
 それを正確に読み取ったジャスティンはほろりと苦笑した。
「幇でよく学んでいるようだね」
 彼の言葉が皮肉であることは承知している。リィェンはそれを笑みで表わしつつ。
「大兄に学び、会長に教えていただきました」
 あなたがたのやり口はいやってほど見てきましたからね。及ばずながら、せめて同じ土俵に立とうっていう意欲だけは見せておきたいんですよ。
「ダージリンは勉強中ですが、その中でキームンの特級と出会うことができました。次の機会にお持ちしますよ」
 ホテルではなく、家へ招待されたときに。
 対してジャスティンもまた笑みを崩すことなく。
「それは楽しみだが、ロンドンに残していた自宅は引き払ってしまったものでね。新居が決まってからの話になるかな」
 来た。リィェンはわずかに身を固くする。
 テレサが中国人であるリィェンと結ばれたことにより、バートレット家はイギリスにおける求心力を失った。
 ジャスティンはそれを知っているリィェンへあらためて突きつけ、待ち受けているのだ。被害者へ加害者が差し出す次の言葉を。
 肚を据え、リィェンは縫い止められたように重い自分の唇をこじ開けた。
「いっそ日本はどうです? テレサも新居の候補に挙げていますし」
 テレサの日本贔屓を押し出すと見せて、リィェンと彼女が新生活を始めようとしていることをにおわせる。あなたの立場を壊したことは申し訳なく思っていますが、テレサとのこれからと天秤にかけるほどの価値はないんですよ。
「ニューヨークへ通勤するには不便が過ぎるね。香港ならまだしも」
 君はH.O.P.E.ではなく、古龍幇をより近しく思っているわけだ。ジャスティンの問いならぬ問いに、リィェンはあえて即答した。
「自分にとってはどこであろうと世界の内です。世界を脅威から守り抜く正義の味方になる、そうテレサに約束しましたので」
 ワープゲートがあれば世界のどこにいてもどこへでも行ける。ジャスティンはリィェンがそう言うだろうと予測していたはずだ。実際そうとしか言い様はないのだが、それだけで終わるつもりはない。
「しかし、それをして自分は幇の者であろうと思います。大恩ある古龍幇と仁義あるH.O.P.E.、どちらも選びがたく大切なものですから」
「幇の者なら幇に与するだけでいいだろう?」
 とぼけてくれるものですね、会長。
 いや、そうじゃないな。言わなくても察しろというのはただの俺の都合だ。
 伝えますよ。殴ってもくれないだろうあなたに、真っ向から。
「先日、テレサと婚約をさせていただきました」
 一礼し、顔を上げてジャスティンを見据えて。
「テレサは言わずもがな、H.O.P.E.の象徴です。自分がエージェントの立場を押し出せばH.O.P.E.と幇のバランスが崩れますから」
 幇の長は表社会への進出の手がかりとなるH.O.P.E.を掌中に収める術数を巡らせているが、それをジャスティンが指をくわえて見ているはずはない。逆に幇を喰らい尽くし、未だ暗がりの底にある裏社会への影響力を得ようと画策しているだろうことは容易に想像がついた。
 正義も邪悪も、唱えるだけで成せるほど安くも易くもない。だからあなたがたは腹芸を駆使してやり合っている。
 でも、やらせませんよ。俺はテレサが志す純然の正義を実現する。H.O.P.E.にも幇にも、それだけは邪魔させない。だからこそ両者の間に立って繋ぎます。
「娘との件は君たちふたりの問題だ。私から言うことは特にない」
 ジャスティンは立ち上がることでリィェンの言の葉を遮り、踵を返した。
「あとのことは、そうだね。宿題としておこうか」
 今このときの言葉ではなく、先の有り様で示したまえ。
 リィェンという男を認めたわけではなく、テレサとの仲を義父として祝福したわけでもなかったが、かすかな妥協と希望を残すジャスティン。
 あなたはやはり正義の味方だ。こんなときでも公正さを捨てられないほどに。
 歩み去るジャスティンの背へ、決意を込めてリィェンは告げる。
「かならず正解をお見せしますよ」
 果たして。ひとり残されたリィェンは、運ばれてきていた茶を飲み下した。
 どこかウイスキーを思わせるウッディな香りはオータムナル。まるでジャスティンその人のような渋みと苦みを味わいながら、彼は静かに押し詰まっていた息を吹き抜いた。


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2019年11月05日

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