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『約束』
リィェン・ユーaa0208)&aa0208hero002)&イン・シェンaa0208hero001

 先ほど0時をまわったことで、現在ギアナ宇宙センターに詰めている技術者たちの完徹と最低でも24時間連続勤務が確定した。
「おい〜っ! あっさり明日になっちまったじゃねっすかぁ〜あ! あ? もう今日だから今日? ってこた、ボクの仕事は今始まったばかりだ?」
 過労でぐるぐると惑わされる礼元堂深澪(az0016)だが、その手はいそがしくコンソールの上を這い回り、新造宇宙船“石頭”から返ってくるテストデータに合わせて出力調整と回路の切り替え、各種装置のオンオフを行っている。
 リィェン・ユー(aa0208)を神経接続式の宇宙船で月まで飛ばし、地球へ帰還させる。
 ――この一連のプロジェクトはH.O.P.E.とグロリア社が合同で行っているため、人員もそれぞれの組織から出されている。そして深澪はこう見えて、H.O.P.E.からの推薦とグロリア社の要請に応える形で出向しているメインオペレーターなのだ。
『詫びに明日じゃなくて今日、飛んでいく前にフランス料理奢ってやるよ』
 こちらは“石頭”と神経接続し、その内側から各操作を行うリィェンからの通信。
「発射予定時刻何時だと思ってんすか! 店開いてねぇわ〜っ!!」

 深澪の絶叫を察したリィェンはとっさに通信機のボリュームを下げ、事なきを得る。それにしてもあいつ、完徹した午前中からフランス料理食う気はあるんだな。
 と、“石頭”に取り付いて最終チェックをしていた技術者のひとりがハッチをノックし、顔を突っ込んできた。そっちはもういいから少しは寝てくれ。あくびのはずみでやばいスイッチ押されたらたまらんからさ。
「自分は武辺だ。ひと晩寝なかったくらいで鈍る繊細な神経は持ち合わせちゃいないさ」
 技術者は眉をひそめ。その神経にかかってる負荷を考えろって話だよ。神経接続は人を神にしてくれるような超技術じゃない。
 確かにそのとおりだ。神経接続によってリィェンは人の範疇をいくらかはみ出したものにはなれるが、無理をしたツケははみ出した分じゃなく、そのまま心身へと回される。特に神経はダイレクトに負荷を受け取る分、消耗が激しいのだ。
 それをして彼は「ひと晩寝なかったくらいで」と言い切れるだけのタフさを持ち合わせている。だからこそ貫き通しただろう、宇宙へ向かうのが自分ひとりならば。
「……カプセルでひと眠りするよ。2時間で起こ」
 管制室から“石頭”を操作し、通信ボリュームを復活させた深澪がリィェンの言葉を遮り。
『2時間半! シャワーを浴びて髭を剃るのにもう30分で、3時間休憩取ってきてください。くっさいオトコとすし詰めとか、テレさんに失礼っすからねぇ〜』
 ぎくり。リィェンはすくみあがり、あわてて“石頭”を抜け出した。
 必死になっててそれを忘れてた! “石頭”は今日の12時に打ち上がる。3時間休むにしても9時間あるし、その間はまた作業に追われることとなろう。顔を合わせたとき、すでに臭くなっている可能性が高いのだ。ましてや宇宙に上がってからの時間は……
「礼元堂! 緊急に備品を追加したい! デオドラントスプレーとデオドラントボディシートとデオドラント」
『そんな重量加算できる燃料ねぇっす! ――あ、テレさんの紅茶セット捨てたらいけるますのぜ?』
「……それはだめだ。戦車にまで紅茶用の湯沸かし器をつけるのがイギリス人だぞ」
 イギリス人に茶を捨てさせること、それすなわち「魂を捨てろ」と同義である。
 リィェンはかぶりを振って余計な心配を振り落とし、睡眠誘導機能つきのカプセル目ざして足を速めた。こうなればもう、気功を尽くして汗と臭いを封じるだけだ。


 こちらはギアナ宇宙センター内にある、女性関係者にあてがわれた仮眠ルーム。
「いよいよアルねー」
 左右どちらへも傾きのない、赤道付近ならではの三日月を窓から見上げ、マイリン・アイゼラ(az0030hero001)が言う。
「……6時に起きて支度しないといけないんだから、そろそろ眠らせて」
 仮説ベッドに横たえた身を半回転、マイリンのほうを向いたテレサ・バートレット(az0030)は薄目を開けて言葉を返した。
「なんにもやることないのにアル?」
「マスコミの相手しなくちゃでしょ。パイロットをホストには立てられないんだから」
 H.O.P.E.の全面協力を得て制作された娯楽アクション映画はすでに完成しており、新年の封切りを待つばかりとなっていた。
 その直前、映画の主役であるリィェンとヒロイン役のテレサが新技術をもって造られた宇宙船で月を目ざし、月面からメッセージを地球へ送るイベントが実施されると発表されて以来、世界はそれなりに騒がしくなっているわけだが……今日という日は、彼らふたりを見られる最後の機会となるかもしれないこともあり、世界中からマスコミが詰め寄せているのだ。
「新技術の宇宙船とか、うさんくさいアルもんね」
「制御不能になって落ちるかもしれないし、月の向こうまで飛んでいっちゃうかもしれないしね」
 ふたりは顔を見合わせてため息をつく。
 そうならないよう映画の公開を5ヶ月延ばし、素材や回路を入れ替えながらのテスト飛行を繰り返してきたのだ。しかし、事故とはいつだって思いがけず起こるものだし、ましてや地上ならぬ無人の宇宙でのことなのだから。
「テレサはリィェンと死んじゃってもいいアル?」
 ふと、マイリンの口から滑り出した疑問。
 正直なところ、マイリンはまだ腑に落ちていなかった。テレサがリィェンの想いに応えようとしていることに。
「いいんじゃない?」
 あっさりと曖昧に応えたテレサは、その後少しためらいながら言葉を継いだ。
「男の子と付き合ったのなんて初めてだし、いつだっていっしょにいなくちゃ耐えられない! って感じでもなくて、実際いつでもいっしょじゃないんだけど、でも」
 うん。自分の思いにうなずいて、締めくくる。
「いっしょに死ぬなら、それはそれでいいのよ」
 ふーん。マイリンは気の抜けた返事をして、考え込んだ。
 もともとテレサは恋愛に我を忘れるような質ではない。というか、恋愛というものへ我が身を投げられる環境がなかったのだ。そう、偉大過ぎる父、ジャスティン・バートレット(az0005)の庇護下にいたせいで。
 最近は父の手を離れ、自立しようともがいているテレサだが、情緒――特に男女間のあれこれについての感覚や習熟度はプリスクール(イギリスにおける幼稚園)生程度のものだろう。
 それをして、いっしょに死んでもいいと言う男が現われた。父ではなく、同じイギリスというコミュニティ内の紳士でもない、彼女のためだけに煉獄の底から這い上がってきた武辺が。
 合縁奇縁とは云うが、まあ、心幼きテレサにとって、リィェンという男は初めて出逢ったそれだけの存在ということだ。それを彼女自身がどれほど自覚できているかは置いておいて。
 ともあれそっち方面はデキた後に期待ってとこアルね。あたし的には婿殿のおいしい中国料理がたらふく食べられるってだけで十二分アルけど。
 ひとり納得するマイリンに、テレサは疑問符を浮かべて首を傾げる。なにやら子ども扱いされているような気がして、おもしろくない。
 むくれるテレサをどうどう、マイリンはなだめつつ、
「……いいアルよ。テレサは難しいこと考えなくても」
「そういう思わせぶり、すごく引っかかるんだけど」
 さらにむっとして、テレサは語調を荒げる。
「説明してわかるようなら説明してるアル」
「言ってみなくちゃわからないでしょ」
「言わなくてもわかるから言わないアルよ!」
「だからって言わなくちゃわからないままでしょ!」
 寝ることも忘れ、なにやら大騒ぎするふたりだった。


 6時40分。
 マスコミを前に、リィェンとテレサは今回の月行きについてと、映画の宣伝とを語っていた。
 一歩後ろでぎくしゃく固まっているリィェンに代わり、ひととおりの説明を終えたテレサは、最後に打ち合わせどおり映画のコメントを求められて。
「それはもう、映画を見てもらう前に本当のあたしを見てもらえてよかった! に尽きるわね。だって映画のヒロインを務めてくれた彼女を先に見ちゃってたら、みんなをがっかりさせるだけだもの」
 にこやかに応対するテレサの言葉を聞き、リィェンはこれだとばかりに大きく(カクカクと)うなずいた。
「あ、そういうことです。映画の俺は実物より百倍男前ですから。いや、それよりも彼がすばらしいのは武術(ウーシュウ)ですね。そのへんのアクション俳優とはレベルがちがう。できることなら一度手合わせを願いたいくらいだ」
 意外に本気で言っていたりするのだが、マスコミはこれをリップサービスと受け取ったらしい。とはいえ結果的にちゃんと宣伝コメントとなったので、よしとしておく。


 10時21分。
 最終チェックが終了し、技術者たちがOKサインを出して“石頭”から離れて行く。
『ようやく少しは落ち着いたかな』
 コクピットで息をつくリィェンの声を通信機越しに聞きながら、管制室の窓から“石頭”を眺めやるイン・シェン(aa0208hero001)。
「落ち着いておる場合でもあるまいにのぅ」
 酒ではなく茶をすすり、傍らの零(aa0208hero002)へ流し目を送る。
 零は空の煙管を手の内で回転させて弄び、ふむ。
「落ち着くよりできることがないのだろうよ。後ろに想い人を乗せておるのだから」
 目線だけでは足りなくなったか、インはしかめ面を零へ向けた。
 察して言葉を返せと全力で念じているのは知れたが、零はなにも言わない。このようなとき、女が求めるのは正解ではなく共感であることを、経験豊富な彼は知り尽くしていたのだ。さ、言いたいことがあるならば己から切り出せ。
 無言の促しに、インはさらに顔をしかめた。かようなとき女子は的外れな気づかいを受けたいものなのじゃ。さすれば「そうではない」と説けるからの。それすらさせぬとは、爺はまったく人が悪い。
「テレサのことはよい。ここまで来やれば収まるように収まるじゃろ。が、その次じゃ。守るもの得たリィェンに、先の約束たる武の鬼となるを強いてよいものか」
 そんなことかよ。呆れる零だったが、もちろん口にはしなかった。女の性を理解していることもあったが、インとリィェンの間柄がただの師と弟子ではないことも理解しているから。代わり、無難な先送りを選択、インへ告げた。
「それこそ収まるように収まるだろうよ。小僧が生きて帰り着いた後にな」
「……妾が彼奴めと共にあらば、その無事を案ずることもなかったであろうがの」
 まったくもって合縁とは奇縁よな、特に女子のそれは格別だ。零は複雑な思いに曇るインの目から視線を外し、肩をすくめてみせた。
「そういえば先に会うた小僧の相棒とやら、小僧に先んじて想い人をものにしたらしいな」
 ついでに話題を逸らしてみれば、インはこれまた渋い顔を振り振り。
「うちのヘタレとは肚の据わりがちがうからの」
 先日、香港で再会したH.O.P.E.東京海上支部のトップエージェントは、顔を合わせるきっかけとなった騒ぎの後、ほろほろと語ったものだ。辛い過去を乗り越えたあいつのこれからを幸いで満たしてやりたい。その役を誰にも譲りたくないから申し出たのだと。
『俺よりも戦いばかりな奴だと思ってたんだけどな』
 あのときのリィェンの喜びと悔しさの入り交じった顔は、本当に目も当てられないものだった。
「ま、小僧よりあれこれと自由な男ゆえ、話が早かったこともあろうさ。それに小僧とて、ついにはあんな処まで昇っていこうとしておろうがよ」
 上を指した零に、インはうなずき。
「あとは顛末を見届けるだけじゃな。わかっておるよ。妾たちの役どころはの」


 12時。
『“石頭”、コンディション・オールグリーン、ロケットブースター点火どうぞ!』
 深澪のコールを受けた“石頭”がブースターを噴かし、ゆっくりと上昇を開始する。
 これより“石頭”はその身にまとうフェアリングを振り落としつつ、地球を突き抜ける。外気圏の先に浮かべた外づけのブースターとドッキングし、19時間――ちなみに冥王星探査機は9時間、アポロ号は4日かかった――で月軌道へ達するのだ。
“石頭”はリィェンの延髄部分に接続されたワイヤレス送受信機により、問題なく作動している。有線式よりも自由に動きが取れるだけ、リィェンの心的負担はかなり軽減されていた。
「“石頭”の調子は最高だ。俺といっしょで本番に強い質らしいな」
 テストでは細かいトラブルが絶えなかっただけに、この言葉には深い感慨がある。
 それを後部座席から見て取ったテレサは、聞こえるように息をついてみせ。
「オートパイロットに切り替えが済んだら紅茶を淹れるわ。といってもインスタントパックをあっためるだけだけど」
「ああ、頼む」
 ひょっとして、なにひとつ手を加える必要のないインスタントでも“テ”は発動するんだろうか? さすがにここで斃れたら洒落にならないわけだが……愛する者の手/テで逝ける機会も得がたい気がして、ついそれはそれでいいかと思ってしまう。
 ……いやいや、気は確かに持たないとな。俺にはまだやらなくちゃならないことが山ほどあるんだから。
「テレサ、あと少しで地球を離脱するぞ」
 気持ちを新たに、強い力を込めてリィェンが言えば、テレサは薄笑みを浮かべてうなずいた。

 0時。
 本体の数十倍に及ぶ巨大なブースターで加速を続ける“石頭”は、装備されたあらゆる機能をもってリィェンとテレサの安全を守り、道行の半ば以上を飛び越えていた。
「おはようって言っていいのかな。今日って日の始まりだ」
 内蔵への負担を考え、小分けにしている食事の何度めかを摂りながら、リィェンはテレサに笑みを向ける。
「あと9時間……最近は戦闘機ばっかりだったから、こんなに長時間のフライトは久しぶりだわ」
 座席に尻が固定されていることを確かめ、うんと伸びをするテレサ。
 特務エージェントとして世界を飛び回る彼女にとって、時間は一般人のそれより遙かに貴重だ。
「せっかくだから寝ててくれていいんだぜ? “石頭”の居住性を確かめるってことでさ」
「んー、それも魅力的なんだけど、もったいない気がしちゃって」
 え? リィェンの胸がどきりと跳ねた。いや、地球からモニタリングされているとはいえ、ふたりきりの場所で寝てるのがもったいないって、それはつまりその――
「だってせっかくの宇宙だもの。外に出て、宇宙服越しにでも触れたらいいのに」
 モニタに映る、光粒に満ち満ちたにぎやかな黒へ悔しそうな目を向ける彼女に、リィェンはがっくりと落ち込み、しかし微笑ましさを覚えてつい笑んでしまった。
 付き合いも長くなってきたはずなのに、こうしてまだ発見できることがあるなんてな。君は本当に深いよ、テレサ。
「なに? もしかしてひとりで納得してる? そうやって隠すの感じ悪いわよ?」
 最近マイリンにそうされることの多いテレサだ。他人の納得は見逃さない。
 対してリィェンはゆっくりかぶりを振り。
「うれしかったんだ。充分に君を知ってると思い込んでた俺が、まるで知らなかった君の一面を新発見できたことがな。君は誰より綺麗なだけじゃなく、たまらなくかわいい」
 言い切られたテレサは真っ赤に茹で上がり――
「そういうのは言わなくていい! ひとりで納得してて!」
 ちょっと仮眠させてもらうから! 言い置いてシートを倒し、遮音カーテンで周りを鎧ったテレサの様に、リィェンはぬぅ、首を傾げた。
 言わないのが正解だったのか? しかし言わなきゃなにも伝わらない。それは十二分に思い知ってきたことだ。きちんと言って伝えるべきだろうと思う。ただし、だ。
 今、テレサが赤くなったことには触れないでおこう。とりあえずそれだけを決めて、リィェンはもう一度、彼女の表情を思い浮かべてみた。
 俺の言葉が少しでも君の心にインパクトを与えられたんだとしたら、申し訳ない以上にうれしいよ。
『キ〜! 宇宙でよろしくやってんじゃねぇっすわぁ! もぉやってらんねぇ〜っ!!』
 ガッシャンドコドカグキベキボギョ。通信機の向こうから濁った深澪の声音となにやら不穏な音が響き、それも2秒でカットされたのだが。こちらはけして確かめたりしまいと固く決意するリィェンである。


 9時15分。
 15分の遅れはありながら、ほぼ想定時刻に着くべき場所へついた“石頭”のモニタは、月を覆う灰の荒野で埋め尽くされている。
「月軌道に乗ったわよ。角度の調整は大丈夫?」
 テレサのサポート入力により、“石頭”と接続された神経への負荷がぐんとやわらいだ。このあたりは乗員全員が神経接続できるようになれば、より軽減できるところだろう。運用レポートに注釈を打ち込んで、リィェンは操縦桿を握りなおす。
「着地地点が見えた。機首を下げるぞ」
 弱いはずの月の重力に引っぱり込まれる感覚。これが“石頭”の味わってる重さか。
 補助ブースターをスタッカットに噴かして調整し、そして。サスペンションでも殺しきれない衝撃が石頭を震わせて、再びの静寂を取り戻した。
「タッチダウン。人類の一歩は先を越されたが、俺たちの一歩を刻みに行こうか」

 並んでふわりと月へ降り立ち、“石頭”の外部カメラへ向きなおった。
 通信機から返ってきた地球の人々の大歓声に応えて手を振り、足形をズームして見せる。
「それでは諸々の準備にかかりますので、しばらく月から見た地球の様子をお楽しみください」
 リィェンの言葉を受け、“石頭”が音声の受信をカット。さらにカメラをふたりの姿から地球へと切り替えて――ついに静寂が訪れた。
『ここが誰の目も声も届かない場所だ』
 リィェンからのパーソナル通信に、テレサはうなずいて。
『ほんとに静かね』
 そう、限りなく静かだった。
 大気がほぼ存在しない荒野を揺らせるだけの音はない。固い荒野を一歩、二歩と踏みしめてみたとて、返るものは冷めた衝撃、ただそれだけのもの。
 リィェンは歩いていったテレサの背へ、この静寂をできうるかぎり邪魔しないよう低く語りかけた。
『やっと君を連れてこれた』
 あのとき交わした他愛のない約束は、果たされるはずのない、ありがちな戯言だった。
 しかしリィェンはすべてを賭け、子どもが口にするような約束を実現させてみせたのだ。
『……それだけのために、リィェン君だけじゃなくていろんな人を巻き込んで、ものすごく無理させたわね』
 振り返らずにテレサは応え、そのままもう一歩、進む。これでリィェンとの距離は10歩分。
『でも。ここに来てみて思ったのはこれだけ』
 振り返ったテレサは両手を大きく拡げ。
『ほんとにリィェン君はあたしを月まで連れてきてくれた!』
 その顔はまっすぐリィェンに向けられていて、だからリィェンもまっすぐテレサを見つめたまま、言い切る。
『当然だ。君との約束は、俺にとって世界で二番目に大切なものだからな』
 リィェンはテレサへ一歩近づいた。
 その距離を離すことなく、テレサは問う。
『一番目はなに?』
『君だ』
 考えるまでもなかった。初めて香港で出逢ってから今の今まで、そして先の先まで、この答はけして変わらない。
 リィェンはテレサに手を伸べ、もう一歩近づく。
『俺の名はリィェン・ユーだ。ジーニアスヒロインが魅せてくれた光を追いかけた使い捨てのガキで』
 また一歩進み。
『テレサ・バートレットというひとりの女性に出逢った能なしの武辺で』
 さらに一歩進み。
『君のとなりで生きたくて、ここまで這い上がってきた男だ』
 加えて一歩を刻んで立ち止まり、左膝をついた。
『飾れるものも誇れるものもない俺だが、ひとつだけ誓うよ。君が君らしく生きられる幸せのため、俺は俺を尽くす。だから』
 ここでリィェンの言葉を手で制し、テレサが踏み出した。
『そういうのは言わなくていい――って、言うつもりだったんだけどね』
 リィェンが一歩ずつ詰めてきたのと同じ五歩を立ち止まらずに進み、跪く彼の前で止まった。何気なく見えて相当に思いきったのだろうことが、その体の強ばりで知れる。
『あたしは恋愛関係に疎くて、今も理解できてる自信がなくて、リィェン君とのことマイリンに訊かれても曖昧にしか応えられなかった』
 ためらいながら発した言葉が、一音ごとに力強さを増していく。
 自分の弱さを自虐ならず晒すことは、誰だって怖いものだ。それをして意を決し、言い切れるテレサが、リィェンにはなにより眩しかった。
『でも、こんなことを思うのは、あたしの人生で一度きりなんだろうなって予感がするから、聞くわ。ジーニアスヒロインじゃなく、テレサとしてあなたの「だから」の続き』
 ジーニアスヒロインでもバートレット家の娘でもなく、テレサというひとりの女として、待ってくれている。
 リィェンは眩んだ目をいっぱいに開いて彼女の顔を見上げ、差し出した。
 その手の先にあるものは、指輪。
 正義の花言葉を持つ竜胆を彫り込んだ、テレサの髪の色と同じ金であつらえたものだった。
『テレサ、君の人生をリィェンという男に預けてくれ』
 テレサの左手を取り、リィェンが薬指に指輪を差し込もうとした、そのとき。
 彼女は自分の左手をぐっと握り締め。
『預けないわよ』
 思わず真っ白になるリィェンへ笑みを投げ、左手を開いて。
『だから、ついてきて』
 指輪の内へ、自らの薬指を滑り込ませた。
 それは指を覆うスーツのせいで指先止まりだったが、テレサは落としてしまわないよう左手をもう一度、やわらかく握って胸に抱いた。
 さすがジーニアスヒロイン、ただのラブストーリーでは終わらせてくれないか。
 が、以前にどこまでも追いかけると言ったのは彼自身だ。それを本当の意味で許してくれたのだから、これ以上望むものはないが――
『いや、君が行きたい先へ君を連れて行くのは俺の仕事さ』
『だったらまずは世界を本当の意味で救いに行くわ』
『応』
 立ち上がったリィェンはテレサの背を右腕で抱き込み、並んで地球を見る。
 ふたりの先が待つ、綺麗なばかりではありえない青い故郷を。

『はいはい〜、よろしくやってらっしゃるとこすんませんけどぉ〜。そろそろ映画の宣伝とか神経接続式宇宙船の展望とか? そ〜ゆ〜のコメントしてもらっていっすかねぇ〜?』
 唐突に接続を復活させた通信機から深澪のダミ声が飛び出してきて、ふたりは思わずすくみあがった。
『ちょ、ミオ! 全部聞いてたわけ!? まさか中継されてたりするわけ!?』
 あわてるテレサに応えたのは深澪ならぬマイリンである。
『大丈夫アルよ。あたしと深澪とインと零だけアル。会長にはまあ、聞かせらんないアルしねー』
 続いてインが『リィェン』と呼ばわり。
『諸々を語るより先に、このときであらばこそ問おう』
 強い気を込めた声音に、リィェンばかりかテレサまでもが身構える。
 その中で、インは静かに言の葉を押し出した。
『まずはテレサと契ったこと言祝ごう。が、それをして妾と約した武の鬼への道を捨てるつもりかえ?』
『武の鬼? そんなもんに誰がなるかよ』
 詰めていた息を吹き抜くリィェンに、今度はインが身構える番だった。
『俺はテレサと世界を救うことを約束した。それは鬼程度じゃ成し遂げられないだろ。だから俺は鬼以上の……そうだな、いっそ武神になってやるさ』
 なんでもない口ぶりでなにより大胆な目標をぶち上げてみせたリィェンに、インはなにを言い返すこともできない。
 そこに零がくつくつ喉を鳴らして割り込んで。
『愛とやらは小僧をさらに高みへ押し上げようとしておるらしい。イン、汝もひとつ、一まで以上に肚を据えねばなるまいよ』
『――ふん、望むところじゃ』
 やれやれ、こいつは地球に還った後が大変そうだ。息をつくリィェンの手を、テレサの手が引いた。
『休憩はここまでよ。行きましょ、リィェン』
 君呼びがとれたことに気づいたリィェンは一瞬我を忘れ、すぐに取り戻す。そうか。そうだよな。そうなんだ。テレサにとって、俺はそういう存在になったんだ。
 不思議なものだなと思う。一世一代のプロポーズより、そんな他愛のないことで深く実感するなんて。
 いや、そういうものなのだろう。一歩先へ進んで初めて、今このときの真実が知れる。
 だったら話は早い。
『望むところだ』
 俺の望みを叶えてくれた君のために、俺はなんだってやり遂げてみせる。そしてなんにだって成り仰せて、君を守ってどこへでも踏み込んで、突き抜けて進むんだ。君と俺のことをひとつずつ実感していけるよう、迷うことなくまっすぐにな。
 リィェンはテレサの手をしっかりと握り返し、彼女のとなりへと強く踏み出した。


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2019年11月05日

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