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『憎しみという名の哀傷・壱』
柞原 典la3876

 ――この世に生まれ落ちたその日から、いや、胎内に宿った瞬間から全部紛い物だった。

 吐き出す息が白く、煙のように棚引き溶ける。師走になって寒さは本格化し、制服だけ着て通学しようものならまず間違いなく風邪を引く。だが児童養護施設育ちの柞原 典(la3876)の首には高校生にはまだ不釣り合いなブランド物のマフラーが巻かれ、ブレザーの上に纏うダッフルコートもまた同様だ。
(まあ、幾らするんか知らへんけど)
 そう胸中で吐き出される言葉にも、浮かぶ表情にも感慨一つない。人目から逃れたのだ、敢えて表情を繕う必要もなかった。周囲にひと気がないのを確認すると、典はベンチのほうへ歩み寄る。花壇の前に設置されたそれは奥まった所にあって、園芸部員と鉢合わせたこともない。枯れかけとはいえ花が植えられている以上いない訳はないだろうが。
 どかと腰を下ろし隣に鞄を置くと、ポケットを探って煙草を取り出す。そして一本取り、火を点けた。咥えて体内に毒を流し込み吐き出す。こう見ると息と煙は全く違う、なんてどうでもいいことを考えた。
 この穴場を見つけたのは例の如く虐めに遭い、校内で彼らを躱す場所を探したとき――入学からひと月も経たない頃だった。既に己が人目に付き易い性質だと理解していたし、そのお陰で得られる物――折角の容姿が勿体ないと服を貢がれたり、成績に色をつけてもらったり――もあるのでデメリットだけとはいえないが、面倒臭いのも確かである。無視を貫こうが外面を良くしようがいちゃもんをつけられ絡まれるのだから、遠ざかるのが最善手というもの。そうして暇を潰すことが増えた結果あの女との“交際”が始まったと思うと、自然と眉根が寄った。煙と一緒に小さく声が零れる。
「……先に卒業してまえればええな」
 中学生の時分に習ったのは女の悦ばせ方に煙草と成人でも忌避されるイケナイことばかりだ。しかしそれはあの世間的には品行方正で通った養護教諭のお気に召すものであったらしい。あほくさと冷めた態度で流しつつも盗まれた文房具について施設職員にどう切り出すか考えながら煙草を吹かしていたところ、目の前に立ち、典を見下ろした女の瞳が蠱惑的に弧を描き――それで心を動かされることはなかったが、漂う欲の匂いに今まで関わった女たちと同類と悟った。そして、女が与えてくれる恩恵を利用してきた。だが卒業を控え就職も決まった近頃、携帯電話に届くメールの数が増えてきている。まるで逃さないと言わんばかりに。実家が金持ちらしく、就職先傍のマンションで囲うなどと言い出したのを婉曲に拒絶したので、それが原因なのかもしれない。卒業後縁が切れるのを恐れているのだろうが、生憎と束縛は好まないし、飼われる願望もない。近く監禁されそうだと冗談といえない想像が浮かんだ。笑えずに、手すりで火を揉み消し、吸殻は潰して箱に戻した。怒られるのは怖くないが、面倒事は避けたい性分だ。
 立ち上がって鞄を掴んだところで、ふと何かを下敷きにしていたことに気付いた。見れば紙のカバーがかかった文庫本が一冊置かれている。気になったので手に取り、一ページ目のタイトルを見る。それは中学生の時、教科書に作品が載っていた小説家の代表作の一つだ。入水心中した彼の自伝であるともフィクションであるとも言われるその小説は一度読んだことがあった。自分は他人を恐れていないし、同性に向けられるのはやっかみだが似た経験はしているし、同じ末路を辿るのではと考えたこともある。ただ彼のように死ぬのを躊躇したような最期は迎えたくないとそう思う。
(もうちいとやけど、用心せんとあかんなぁ)
 最近もここを使っている人間がいるのなら。雨に濡れた跡もなく、下敷きにしたせいか若干角が歪んだ本を元に戻し、今度こそ歩き出した。鞄の中、バイブする携帯に典が気付いたのは校門前で待っていた養護教諭と目が合う直前のことだった。

 頬に張り付く髪を掻きあげて息をつく。獣に似た荒い息遣いだけが響く部屋からいつも通り余韻を残さず離れ、シャワーを浴びて身形を整える。以前体を繋いだ施設職員は既に暴行が露見した為にあそこにはおらず、もう恋人気取りで詰られないが、綺麗にしすぎればその件を知っているだけに周りに訝しまれるのは必定だ。女もみな疾しい行為をしている自覚があるので痕を残す真似はしないし、貢ぎ物の言い訳も兼ねてバイトしているという体裁を保つ。――まああながち間違いとは言い切れない。
 呼び出しを断り続けて変に刺激するのもどうか。そう思って、ついてきたはいいが、いよいよ潮時かと髪を乾かしながら鏡に映る己を見つめる。この顔が他人より遥かに優れていると理解したのは中二の頃。同級生が捨てた私物を拾う為に川に入り、虐めの露見を避けたいだろうと踏んだらしい女に「部屋へ来ない?」と声をかけられ、初体験を済ませたあの日のことだ。薄いレースのカーテン越しに差し込む橙が宵闇に沈んでいって、それに合わせて女の顔も見えなくなる。今や顔の作りも覚えていないのに、そんなイメージだけ残っている。――色気がある、右の目の下に泣きぼくろもあって。そう言ったのは、どの女だっただろう。いずれにせよ、卒業すれば今までに関わった全員と縁が切れる。しかしその前にどうにかすべきか、自分の優位には違いないのだし――と思考を巡らせていると不意に、チャイムが鳴る。反射的にドライヤーのスイッチを切って、典は息を押し殺した。すると玄関扉のロックが外れる音がし、野太い男の声が響く。呼ぶのは部屋の主である養護教諭の名で、一度は通り過ぎた足音がすぐにまた戻ってきて目の前で静止、そして扉が開いた。力任せに引きずり出されるようにして寝室へと連れていかれ、舌打ちしそうになる。女は裸にシーツを巻きつけた格好だった。浮気を疑い、知らない筈のここへ踏み込んできたのだろうが、この姿を目の当たりにすれば激昂もする。男は教諭の夫だった。
 男が次々口にするのは典のほうが妻を誑し込んだと信じて疑わない妄言で、五分もしないうちに我慢出来ず肩を震わせれば、低い唸り声と共に鋭く、憎悪を抱いた瞳に射抜かれた。とはいえ典には向けられ慣れた目でもある。平然と受け止めるとあんな、と平時通りの声音で口を開く。
「一応言っとくとな、声かけてきたんはあんたの嫁のほうやわ。俺が煙草吸うてんの見て、そういう悪い子好きやわ言うてな。あんたにバレんようにってここに俺を連れ込んで。……元を正せば、ヘタクソなんが悪いんとちゃうん」
 淡々とした典と反比例して男の声は大きくなり興奮している様子が窺える。喧嘩を売る気はないが思い込みで悪しざまに罵られるのは腑に落ちない。もし男が手をあげてもどうにか出来るだろうと算段をつけながら、話を続ける。
「あんたが満足させへんから俺と寝たんやろ。高校生のガキ相手で分が悪いんはどっちや」
 女が肉体関係を目当てに来たのは明らかだ。典に劣らず長身の男を正面から見返す。背後の養護教諭がようやく沈黙を破ったのと、目の前の男が懐からナイフを取り出したのは同時だった。何か言おうとした声はそのまま悲鳴に転じる。何か喚きながら振り翳される刃に、
(こんなとこで死ぬんは御免や)
 と浮かんだ想いにすらも、執着心は生まれない。ただ身体は無意識に動き、そして典の眼前で光を受け煌めく銀が振り下ろされた。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
なんとも言えないところでの終わりになりましたが、
お言葉に甘えて自分なりに典さんの高校時代辺りに
スポットライトを当てつつ、細かい点を膨らませて
今回の話をねっとりと書かせていただきました。
作中に登場させた本は太宰治の人間失格ですね。
個人的な話題で恐縮ですが、偶然読んでいたところ
典さんのお話をいただいて、彼がこの本を読んだら
どう思うだろうとふと考え、少し入れてみています。
今回は本当にありがとうございました!
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グロリアスドライヴ
2019年12月12日

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