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『Babyrousa1』
白鳥・瑞科8402




 彼女のふくよかな胸に赤い線が走った――。


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 重く息苦しく、水底に沈んでいくようなプレッシャーに呼吸すらうまく出来なくてもがき喘ぐ。深い闇の底で、光の射す方へ必死に手を伸ばした。
 遠くで鳴る甲高い電子音。ハッとしたように白鳥瑞科(PC8402)は目を開けた。まるで上から押しつぶすように覆い被さったマスティフが貫禄ある顔を自分に向けている。時に200ポンドを超える巨体にのしかかられているのだ。苦しいのは当たり前だろう、おかげで内容は覚えていないが重苦しい夢に魘されていた気がする。
「……ごきげんよう」
 瑞科は苦笑を滲ませながら彼の首輪に付いているチップを外した。電子音がやむ。
 それを合図に彼がベッドからのろのろと降りると、ぎしぎしと悲鳴をあげていたベッドがホッとしたように大きく一跳ねした。
「いい子ですわね」
 と彼の頭を撫でながらベッドから立ち上がると瑞科は下着に白シャツ姿という世の男どもが垂涎ものの艶姿を惜しげもなくさらしてキッチンへ向かった。残念ながらかの犬には彼女の扇情的に揺れるヒップには興味がないらしい。それよりも出されたジャーキーの方が重要である。嬉しそうにそれを啣えると彼はこの部屋に来た時同様、裏口から出ていった。
 それを見送って瑞科は溜息を吐く。千年以上も前から彼を知り己を知る者は百戦危うからずと言われ、現代においても情報の重要性は変わらず続いている。世界中のハッカーどもがそれらを競い合って取り合う中、物理的に電脳世界から切り離してやりとりをするという事自体に文句はない。が、何とも古典的な手段に出るというのはもう少しこう……巨大な犬とかではなく伝書鳩とかこう……何とかならないものかしら、と独りごちてみたが、結局いい案も浮かばないまま、瑞科はシャワールームに向かうとチップをスタンドアローンのAIスピーカーに差し込んだ。
「再生、お願いしますわね」
 そうして生まれたままの姿でシャワーのコックを捻る。
 熱い水滴が、頭から受け止めた彼女の瑞々しいまでの肌を叩いて更なる目覚めを促した。前髪から滴る滴や美しい背中のラインに張り付く長い髪を滑り落ちる粒をぼんやり眺めながら瑞科は壁に手をつく。溢れる水音が少し遠のいたのはAIスピーカーの再生が始まったからだ。骨伝導によってそれは彼女の中に直接響いた。一方的な指令であり、任務を滞りなく遂行するための情報でもある。
 その口元が楽しげに歪んだのは悪を倒すという誇りと喜びによるものか。彼女に失敗の2文字はない。
 彼女の美しい裸身を覆った泡が名残惜しそうに排水溝に消えていく様を見届けるでもなくシャワールームを出ると瑞科はバスタオルで残った水滴を拭って、濡れた長い髪をタオルで巻き上げると任務のための仕事着へ。
 息を呑むような肌理の細かい白い肌を惜しげもなく黒で覆う。しかし勿体ないと溜息を吐く男は思いの他少ないかも知れない。極薄のそれは余すところなく彼女の肢体をそのまま描きだしていたからだ。ツンと上向いた双丘、わがままなヒップを包む光沢のある黒いラバースーツは肉感的で挑発的ですらあったろう。首から胸の谷間を抜け股の隘路から腰まで繋がったジッパーが下卑た男どもの欲情を煽るに足りた。
 片足を椅子にかけニーソックスを穿く。太股に食い込ませた絶対領域は黒で覆われていようとも美脚が作る曲線美を秘するにはほど遠い、かのように思われたが、その上からベルトを巻いて覆い隠してしまう。そこには得物であるナイフが収納されていた。
 膝まであるロングブーツを履き、括れた腰を更に細くするコルセットを巻き付けると彼女の弾力ある胸が一際大きく強調された。これほどまでに薄いのにこのコルセットには、耐衝撃性を備えたラバースーツ同様これまで全く役目を果たしたことはないが、特殊鋼が仕込まれている。
 そうしてどこまでも婀娜めく姿に最後に纏ったのは何とも禁欲的な修道着であった。
 肩に純白のケープを羽織り、頭に巻いていたタオルを取る。
 洗い髪はわずかにしっとりとしてはいるが、ドライタオルによってほぼ乾いていた。首を揺すって背中で軽く波打たせると、鏡の前に移動して薬指で紅を差し、特殊加工されたコンタクトを入れる。
 手にロンググローブをはめて頭にヴェールをのせ、腰に得物を携えて準備は完了だ。
 時は満ちている。
 指を絡めて両手を合わせると祈るように目を閉じた。何にか……。
 瑞科は外套を纏い外に出た。外套は季節を考慮したというよりは人目の方をはばかったものだ。太陽は眩しくさえ渡り夜陰に紛れてとはいかない時間帯。忍には準備がいる。残念ながら相手が常に夜動いてくれるとは限らないのだ。裏ではどんなに壮絶な戦闘が繰り広げられていようとも表向きには平穏な街である。コスプレと偽るには腰に佩いた剣が邪魔だろう。何より下手に注目を集めて大勢を巻き込むのは本意でもなかった。
 そうして目的の場所へ向かう。近づくにつれ、時折切迫した形相で走る者と行き違った。恐らくは“見て”しまった者たちだろう。誰に言っても信じてもらえない異形を。
 地下鉄へと繋がる階段を下りる。改札を抜けて彼女は何の躊躇いもなくホームを降りた。誰もそれを見てはいなかった。如何にしたことか防犯カメラでさえ彼女を捕らえる事は出来なかった。
 暗闇のレールを瑞科はヒールの音を響かせながら進んでいく。金属と油の臭い。程なくそれに混じって顔を背けたくなるような腐臭。瑞科はわずかに顔を顰めただけだった。
 遠くの方からレールを疾走する列車の音が聞こえてくる。
 瑞科は足を止めて柄を握った。瑞科の足音さえかき消すクラクション。強烈な2つのライトが猛スピードでこちらに近づいてくる。瑞科の剣は静かに鞘走った。それはあたかも夜空に輝く星の瞬きのようですらあった。それだけで何か黒い影のようなものが二つに裂けコンクリートの上に落ちた。泥のようであった。これがファンタジーであったならゴブリンと呼ばれたかもしれない魑魅魍魎。いや、見た目がそうなだけであってそうではない。これは泥人形――ゴーレム。当然、操っている者がいる。
 まとわりついた腐臭を払うように剣を振り鞘に仕舞った。泥人形の核は人のそれか。沸き立つのは怒り、それとも正義感か。一体どれだけの人を材料にしたのだろう。
 その傍らを轟音と共に地下鉄が通り過ぎえいく。自動運転のそれに運転士はなく。本来彼女らの存在に気づかねばならないAIも沈黙したまま。強い風が彼女のフードを弾き飛ばし長く黒い髪やそれを覆うベールを瞬かせた。
 それも束の間、静寂が戻ってくる。
 瑞科の口角が悦楽に歪んだ。「ごきげんよう」とこれから大挙してくるであろう泥人形達に向けて。
 瑞科は歩を進める。列車の強いヘッドライトを浴びた直後の闇の中でも彼女が危なげないのは、周囲の明るさに応じて光量を自動調整する特殊コンタクトレンズの効果によるものだ。その内側には更に簡易オペレーション機能が付いている。
 滞りなく任務を遂行するために。
 瑞科は期待に胸を膨らませていた。

 “これ”の実行犯が自らの失敗を前にどんな顔をするのだろうか、と。




 To Be Continued


━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ありがとうございました。
楽しんでいただければ幸いです。

東京怪談ノベル(シングル) -
斎藤晃 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年01月08日

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