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『光溢れる地の底で』
常陸 祭莉la0023


 ――ありえたかもしれない世界、いつかどこかの分岐点の果て。

 常陸 祭莉(la0023)は暗い所で目を覚ました。指先一つ動かせない状態で。
 ここがどこなのか、なぜ自分がこうなっているのか、祭莉は理解している。

 ここはインソムニア『ネザー』。サンクトペテルブルクに新たに生まれた、エヌイー(lz0088)が支配する地の底である。
 SALFは――人類は敗北した。祭莉も激戦の内に友軍からはぐれ、生き延び、捕獲された。今はこうして武器も何もかもを取り上げられた状態で、自決もできぬよう厳重に拘束されているのみである。
 現状は口から食道に通された細いチューブが、生きるための栄養を流し込んでいる忌まわしい生命線。朝なのか夜なのか、どれだけ時間が経ったのか、はたまた目覚めているのか眠りの中の夢なのか、祭莉にはもう分からない。

 当然、外の状況なんて分からないが――勝利は、ないと考えていいだろう。あれだけの大打撃、大損害。救出の手も未だない。
 祭莉は暗闇の中、ふっと義母のことを思った。彼女はどうなっただろうか。分からない、だけどもう二度と会えないことだけは良く分かる。

 暗闇、暗闇、暗闇。
 今日もまた、延々と暗闇だ……。

 だけど『何もない』という地獄の中、狂うこともできずにいた。
 多分、狂ってしまえたらいっそ楽なんだろうとは思うけれど。

 ――靴音が聞こえた。

 眼球の動きだけでそちらを見ると、いつの間にか涼やかな微笑の男が祭莉を覗き込んでいた。
 祭莉は目の前のこれが、人間ですらない怪物であると知っている。その怪物の名が、エヌイーということも。

「こんにちは、祭莉さん。具合はいかがですか」
「……」

 今日も祭莉は返事をしない。口を聞く気などなかったからだ。
 それに対しエヌイーは微笑のままだ。激することもなければ、気分を損ねることもない。ただ、祭莉を観察しては身勝手に満足をするだけ。ほどなくもすれば、いつの間にかいなくなる。

 けれど。

「……お風呂、入りたい」

 不意に祭莉はそう言った。その発声はほとんど気紛れのようなものだった。どうせ話し相手もいない。どうせ、どうにもならない。随分と久々に出した声は、掠れて細くて掻き消えそうな音だった。

「構いませんよ」

 エヌイーの返事は逡巡もなにもない即答だった。枝分かれする銀の腕で、てきぱきと祭莉の拘束を呆気ないほどに解除する。養分を流し込むチューブも取り払う。「どうぞ」とエヌイーに促され、祭莉は狐に包まれた心地でよろめくように拘束台から下りた――長らく寝たきりで固定されていた体は想像以上に衰弱しており、少年は不格好に膝をついた。

「おや。歩けますか?」

 エヌイーの水銀状の体が祭莉を支え、立ち上がらせた。振り払う気力もない彼は、無言のまま身を委ねる他になかった。

 体を綺麗にして、着替えて、きちんとした経口の食事を摂取して。
 祭莉は拍子抜けた。今までの拘束は何だったのかと辟易した。……望めばこの怪物はそれを承諾してくれる。従順であれば、待遇も良い。いい子にしていれば、大切にしてもらえる。

(なんだ……)

 もっと早くに気付いていればよかった。いや、気付いたところで、捕獲当初であればそれを拒んだだろうか。……現状を受け入れ始めている自分自身を、祭莉はどこか乾いた目で見つめていた。ただ、疲れた。疲れ切っていた。どうせ気丈にしたところで無駄なのだ。助けは来ない。勝てもしない。だったらもう、この何もない暗闇に浸ってしまえば楽なのだと――思った。思ってしまった。

「外に、出て……一緒に、星を見て欲しい」

 うなだれて呟いた。エヌイーの視線を感じる。だからそれに促されるように、祭莉は溜息のように言った。

「一緒に、見れる人……お前達のせいで、いないから」
「分かりました。では、こちらへ」

 エヌイーが人間の形をした掌を差し出す。
 祭莉はそれをしばしぼんやりと眺めた後、怪物の手に掌を重ねた。



 ●



 ナイトメア『テンペスト』に乗って、ネザーという穴から出る。
 上空から見るサンクトペテルブルクだった場所は、綺麗に更地と化していた。
 人間の減った地球はぞっとするほど暗く、だから星が良く見える。空にはこんなにも星があったのか、と驚かされるほどに。

 ――どこまでも静かだ。

 人間の多くは捕食されたか、どこかのインソムニアに送られたか。
 SALFの残存戦力は、今もどこかで報われない戦いに殉じているのだろうか、と祭莉は心の隅で考えた。だが、もうどうでもよかった。

 ――こんな絶望しかない状況なのに、酷く晴れ渡った気分だった。

 頭痛もなく、意識にかかった靄もなく、不安もなく、恐怖もない。
 なぜだろう、と祭莉は数えきれないほどの星を見上げて考える。

(そうか、……)

 じりじりと脳裏を焼くように思い出すのは過去のこと。過去に起因する癒えない傷が膿んで腫れて、ずっと祭莉の精神を苛んでいたのだ。
 常陸祭莉は、ナイトメアに理不尽に作られて使い潰される予定の命だった。生き物ですらない、道具だった。幼少期の心に入った深いヒビは癒えないまま、今の今まで血と膿を流し続けていた。
 そう――だから――祭莉はエヌイーが恐ろしかったのだ。自分を作った存在と重なるから。

「星というものは美しいですね。暗き場所でこそ煌々と輝く。日に隠れるような灯りなれど、那由他と離れた距離ですら光を届けてみせる。見事なものです」

 すぐ隣で声がする。祭莉が見やれば、エヌイーもまた星空を見上げていた。その横顔に、祭莉はもう恐怖を覚えない。じっと見ていると、エヌイーが眼球を動かし少年を見た。

「何か言いたいようですね」
「……。ホラー映画の怪物って……要は理解できたり、対処できたり……で、恐怖が薄れる、って。教えてもらった話、だけど」

 祭莉は星空に視線を戻した。恐怖の根源を理解した上で、自我防衛のために感情が凪いでしまったのだろう――心の中でそう付け加えた。それから、話題を変えるように祭莉は呟く。

「静か、だね」
「人間文明は賑やかでしたから」
「……そうだね」
「まあ、普遍的な生存競争の結果なのですから、受け入れて下さい」
「受け入れる、か……」

 小さな吐息は、冷たい空気に白くなった。
 そのまま祭莉は鼻歌を紡いだ。人間の消えた、死んでいく星に讃美歌が流れていく。掻き消えていく。隣に立つ怪物は、それを静かに聴いていた。

「……ボクが死ぬ時は」

 歌の合間、祭莉は言う。

「空が見えるところで、音楽を流して欲しい」
「音楽。今の楽曲でよろしいですか?」
「……うん。歌の名前、どうせ知らないでしょ。……アメイジング・グレイス」
「なるほど、覚えておきましょう。それから――貴方は貴重なサンプルです。すぐに命を奪うようなことはしませんよ」
「……そ」

 祭莉は無味乾燥に呟いた。

 生きるだけの地獄はまだ。
 終わらない。終わりもしない。救いはない。永劫に。
 だけど、もう、こんな未来に溶けていくしか、道はなかった。



『了』

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ご発注ありがとうございました!
【堕天】ではお世話になりました。引き続き遊んで頂けますと幸いです。
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2020年01月09日

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