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『欠(けつ)の糸』
水嶋・琴美8036

 ちりっ。
 水嶋・琴美(8036)は、肌を泡立てる“実”の気配をステッピングで引き離す。
 爪先を繰って体を流す中、ブーツの踵に埋めた特殊鋼のパイルを立てて急停止、身を翻して次の“実”なる針をかわした。
 その中で、先に斃した3体の蜘蛛より立ち上るものを透かし見る。
 糸だ。
 あれらは生きているうちは露払いとして、死してなお標として、この虚なるものを導いている。
 いずれにせよ、こちらまで来ていただかなければ始まりませんね。
 彼女の内に、敵の顕現を未然に防ごうという意識はない。必要を感じないからだ。その豊麗たる身に備えた技と業(わざ)は、いかな敵であれ討ち滅ぼすのだから。
 そして。並び立つものなき頂にある心は、その孤高へ及ぶ強敵との出逢いを待ち受けていた。それは傲慢であり、驕慢であろう。しかし、なにより純粋な願いでもあって……
 互いを尽くす死闘の訪れを、琴美は鋼の意志をもって待ち、待ち、待つ。

 空が歪む。気が歪む。虚が歪む。実が歪む。
 歪みはどろりと世界をかき回し、ひと雫の“異”を滴り落とした。
 人間大の、蜘蛛。
 しかしその体は人の女であり、同時に蜘蛛でもある。そしてなによりも、力だ。ただそこにあるばかりで世界を侵し、歪めずにおれぬ力の有り様。
 ゲームなどで描かれる半人半蜘蛛ではない、神話に語られるままのアラクネが、そこに在った。
 ただの人間ならば打ちひしがれるよりない神話級の人外を前に、琴美はふるえる。震えたのではなく、奮えた。
「どこまで神話に縛られているものかを見せていただきましょうか」
 歪みを押し割り、琴美は踏み出した。
 その一歩が地へ着いた瞬間、前を塞ぐ数百の震動針。挙動すらなく撃ち出された“点”が、文字通りに殺到する。
 前から見れば点ですけれど――!
 強く踏み止めた右足から跳ね上がる反動を吸わせた彼女の右手には、ほどき打った帯があった。
 前から見れば点、されど横へ回れば線。横から振り上げられた帯が針を巻き取り、裂けちぎれながらもその軌道を弾き上げた。
 いかな力を含んでいようとも、震動という物理的現象をまとう以上は同じ原理で対応は可能。通しという震動と、神話時代には存在しなかった装備、両者をもって琴美は必然を為したのだ。
 とはいえ、技と物を尽くしてようようと弾くことができただけのこと。対等を語るにはまだ、見せなければならない証明が不足している。
「ふっ」
 呼気を噴き、体を反転させつつ踏み出した左足でコンクリートを踏んで、彼女はアラクネへ苦無を突き込んだ。通しの震動を乗せた一閃は蜘蛛のやわらかい腹へ届き、ァン。弾かれた。
 大きくバランスを崩した体を後転で逃がし、琴美は手の内の苦無へ視線をはしらせる。刃が砕かれていた。手首にわだかまる鈍い衝撃からしてもまちがいない。アラクネは震動している。こちらの通しを圧殺するほど、細やかに激しく。
 と、アラクネの姿がかき消えた。

 動体視力に頼らず、観の目――焦点をあえて合わさず広範囲を見る術――で戦場を捉えていたからこそ、知れた。
 アラクネは糸を噴き、我が身を上へ引き上げたのだ。その支点となっているものは、先に低刃の蜘蛛が飛ばした糸。
 いかなる理によって為しているかはともあれ。宙を漂う糸を自在に掴めるならば、追い詰めることは不可能であろう。
「っ」
 虚より生じた実の針が琴美を追い立てる。
 対する琴美の逃げ足は鈍かった。周囲を舞う糸がアラクネの針と繋がる糸で結ばれ、美しい網となって彼女の行く手を塞ぎつつあったからだ。
 網に触れたならどうなるものかは、塵と化した和装の半袖の先が知らせてくれた。網を伝う震動によって分子まで解され、この世界から消え失せるわけだ。
 アラクネの揺らぎを消さなければならない。
 しかし、琴美の技でそれを為すことはできまい。今度こそ、業を尽くさなければ。
 知らぬ内、彼女は笑んでいた。
 己を尽くせる悦びに突き上げられるまま、美しく、狂おしく。

 網を避け、針を避け、琴美は駆け、転げ、跳んだ。
 アラクネももう気づいているだろう。琴美がアラクネへ至るための足場を求め、ビル壁を目ざしていることは。
 だからこそ、塞ぐ。織り上げた網へさらに糸を織り重ね、けして突き抜けることかなわぬタペストリーを成す。
「さすがアラクネ。最高の一枚です」
 琴美の真意は推し量るまでもなかった。
 彼女は脱いだ和装をタペストリーへ投じ、それを踏んだから。
 震動によって和装は瞬時に解き消されたが、そのときにはもう琴美の体は高く跳んでいる。そして、スカートを同じく投じて踏み、さらに上へ。刃の損なわれた苦無の柄を踏んで、ついにアラクネの眼前へ。
 目の粗い網よりも目の細かな網のほうが、当然密度が増すだけに震動するだけの空間も損なわれる。そしてこれだけの密度があれば、足がかりとするものがこぼれ落ちることなく、足を踏み外す心配とてない。結果、糸の先に在るアラクネへ、かならず届く。
 しかし、それだけのことだ。
 この身を鎧う揺らぎは、いかなる攻め手も貫けはしない。
 対してインナースーツをまとうばかりとなった琴美は、描き出された豊麗な肢体を巡らせ、苦無を放った。アラクネではなく、今、その足場となっている糸へ。
 咄嗟に糸を震動させたアラクネだが、弾けなかった。苦無が揺らされていたからだ。アラクネの揺らぎを映した通し――忍たる琴美の業によって。
 アラクネの揺らぎを相殺した苦無は吸い込まれるように糸と交差し、アラクネを墜とす。
 次の足場へ糸を伸ばすことはできなかった。琴美の棒手裏剣が100を越える糸のすべてに添い、“質”を殺していて。
 背から叩きつけられたアラクネは、その揺らぎをもってコンクリートを砕き、石を砕き、土を砕き、速度を減じながら埋まりゆく。
「やはり、世界のすべてを解すことはできませんか」
 上空より降り落ちてきた琴美のささやき。
 震動とは現象。それを阻害し、吸収し続けられる質量に触れさせればやがて止まる。
 琴美は地球という超質量をもって、アラクネの揺らぎを減じてみせたのだ。
 かくて突き下ろされたパイルがアラクネの頭部を穿ち。
「残念です。私の技と業とがあなたへ届いたことが」
 通しの震動をねじり込んで、アラクネのか細い揺らぎを躙り消した。


「神話級は本来の力を発揮できないまま滅しました。ホストであるあなたの準備が足りなかったばかりに」
 琴美は苦無と己の体との間にある頭部へ語りかけた。
 それは誰であるかを語ることははばかられる、この国の上位にある誰か。人外を引き入れ、この国の転覆を図った古老のひとり。
「命をもって償っていただくべきなのですけれど」
 苦無を喉元から外し、琴美は彼の前へ回り込んだ。
「次は十全の備えをもってお招きを。彼の方々も、存分に力を振るえずに斃されるのは不本意でしょう」
 そうして魂までもすり潰され、永劫の艱苦に晒されるが望みか?
 彼の苦い問いに、琴美は冷めた笑みを返し。
「本望。そう思えるほどの悦びをくださるなら」
 身の衰えか、心の驕りか、どちらかが琴美に艱苦もたらす日が来るのかもしれない。
 それでもなお、琴美は求めずにいられないのだ。
 すべてを尽くして届くや届かぬやを計り合える強敵を。
 今は何者も及ぶことかなわぬ背を彼へ向け、琴美は次なる戦場へと向かう。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年02月21日

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