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『因果の掟』
水嶋・琴美8036

 時に人は惑う。
 夢、恋、野望、種はいくらでもあるだろう。少なくとも、まるで覚えのない者はいまい。
 ただ、惑う中で道を踏み外す者がいる。人としての道を、人である道を。文字通りの人外へ堕ち、己が惑いに確かな輪郭を与えてしまう者がいるのだ。
 そして自衛隊内に、かような人外を誅することを任のひとつとする非公式部隊があった。
 特務統合機動課。超常の力備える階級なき守護者の群れ。
 そして水嶋・琴美(8036)こそは、超人としか言いようのない同僚たちを足下にも及ばせぬ力と術とを持つ唯一無二……“One”の裏コードで呼ばれる存在なのだった。

「いい夜ですね」
 声音を投げた琴美は、傾げた面の脇を突き抜けていく刃に流し目を送り、あらためて笑んだ。
 相手は彼女の声が空気を揺らす予兆を読み、ナイフを投じてきた。手の内に握り込んでいたものではなく、そこにあるべきものとして生み出した超常の刃を。
 身構えることなくまっすぐに、相手はこちらへ踏み出す。そうあることが“彼”なのだろうが、あの男はいったい、遠い過去に死んだ“彼”をどのくらい知っているものか。
 ――男は快楽殺人鬼だった。そう、過去形だ。殺人を重ねる中で惑った男はイギリスの都市伝説を引き寄せて同化し、“斬り裂きジャック”となった。
 都市伝説は扱いが難しい。己という存在と、己が存在する場までもを最適化するから。斬り裂きジャックである男は毎夜かならず獲物である女と出遭い、必要に応じてナイフを創造し、惨殺という約束された結末へ至る。
 限定された場においては神となる、それが都市伝説。
 だがしかし。
「比べ合いましょう。私とあなたの有り様を」

 無造作に斬り下ろされたジャックのナイフが寸毫の後、同じ軌道を駆け上る。手首を返しもしないのは、“自在にナイフを繰る”という有り様によってのことだ。
 斬り下ろしを苦無の鎬に沿わせて落とした琴美は、続く斬り上げをスゥェーバックでやりすごした。同時に膝を突き上げ、互いの隙間をくぐらせてハイキックを放つ。
「よけさせませんよ」
 膝蹴りを打たなかったのは、ナイフの突き下ろしへの対策だ。ジャックのナイフには手で振るわれる以外のルールが存在しない。だから返り討ちを受けていいよう攻める。
 果たして、琴美の膝までを包む編み上げブーツがジャックの首筋を蹴り下ろした。脚が跳ね上がった瞬間に腰を返し、蹴り脚を下方へ向ける縦蹴り。
 そのブーツへじょぐり、刃が突き立った。蹴られながら、ジャックが関節の可動域を無視して突き返したナイフである。
 しかし、あるべき手応えが返ってこない。ジャックはもう片方のナイフを振り込み、琴美の蹴り脚を削ごうとしたが。
「ロンドン生まれの都市伝説、忍の業(わざ)には馴染みがないようですね」
 ナイフが抉ったのは、袖を半ばで切り落とした和装とミニ丈のプリーツスカートを繋ぐ帯だった。
 空蝉と呼ばれる業をもって琴美は腰から伸べた帯を脚とすり替えた。そして。
 体を回転させながら下へ向かわせ、ナイフごと、斬り裂き魔の腕を引き落とす。
 ジャックは引き込まれるより先に両腕を引き抜いた。新たなナイフはすでに手の内へ生じている。故に左の刃を琴美へと突き込んだ。
「抉らせません」
 思いきりかがんだ琴美が、前へ跳んだ。地上すれすれの超低空飛行でジャックの脇をすり抜け様、苦無でアキレス腱を断つ。
 とはいえ、こんなことでジャックがダメージを受けることはない。神が人に傷つけられるなど、ありえない。
「斬れましたね」
 それにしてもなんだ、この女は。いちいち無駄なことを言う。女があげていいのは悲鳴と命乞いのすすり泣きだけだというのに。
「次は、突き抜きます」
 宣告し、琴美が踏み込んだ。
 ジャックはナイフで斬り返したが、それをまた帯に絡めとられ、いなされて――目を抉られた。
「あなたのナイフは私に届きません。絶対に」
 おかしい。こんなはずはないのだ。ジャックのナイフは絶対なのに。獲物の恐怖と苦痛を喰らい、冴え冴えと輝く――
 恐怖と、苦痛?
「さあ、私がここにあれば、あなたはナイフを突いてくるよりありませんが、どうしますか?」
 この女には恐怖がない。そしてかすりもしないナイフは、わずかな苦痛すらも与えられてはいなかった。いや、それよりも。
 いつの間にか、己はこの女の言葉通りにされてはいないか?
 一歩踏み込んで、ジャックはナイフを突き出した。常人どころか超人でもかわせぬ神の突きだ。
 それを悠然とくぐってきた琴美が、笑みを突きつけた。
「予兆を読むやりかたを教えてくださったのはあなたですよ?」
 琴美の右脚がジャックの股の間で踏み鳴らされる。腰を据えた体勢での強い踏み込みが、彼女の体へ反動を駆け上らせ、筋肉の収縮が描く螺旋によって増幅、苦無を握る手へと雪崩れ込んだ。
「この“通し”はかわせません。そう、絶対に」
 ジャックの顎から頭頂までを突き抜いた刃が、気の力をまとった震動でもって都市伝説の内をかき回す。
 都市伝説は神であればこそ、知らなかった。
「人の噂」によって生まれた自分が、人の言葉によって上書きされてしまうことを。それも彼をわずかにも怖れず、その上絶対の自信をもって紡がれた言の葉にどれほど容易く侵されるものかを。
 獲物は、俺だ。
「悲鳴をあげなさい」
 声なき悲鳴をあげ、ジャックはかぶりを振った。逃げ出したいのに、苦無に縫い止められた体はまるで動かなくて。
「泣きわめきなさい」
 泣きわめきながら、薄れゆく。もっと殺したかった。もっと喰らいたかった。もっともっともっともっと。
「なにを願っても、私はひとつとして赦しません」
 艶やかなささやきに込められた凄絶な悪意にジャックは震え……消え失せていった。


 琴美はふと、視線を上げた。
 霞がかかった世界は、それこそ一寸先すら見えはしない。かろうじて夜であることが知れるばかりだ。
 その霞の内から伸び出してきたナイフを、彼女は体捌きでかわした――はずだった。
 ぞぶり。皮を破り、肉を断って骨を削り、腸を掻きちぎる刃。
 たたらを踏んだ彼女の耳元で、低い声音がささやいた。よけられないよ? だってこのナイフは君よりも迅い。
 痛みを意識から切り離し、彼女は降り落ちてきたナイフの刃先へ苦無をかざす。いつも通り、鎬で受け流して、反撃を。
 苦無はあっさりと突き折られ、切っ先が琴美の鎖骨の窪みへ突き立った。そこから心臓まではたったの十数センチ。心臓の先を破られ、彼女はあえぐことすらできず、息を詰めた。
 止められないさ。このナイフは君の苦無より固くて重い。
 技と業とを尽くして抗えど、ナイフはすべてをいなし、琴美を削る。いつも琴美がしているように、敵にとっての最悪を描きながら。
 迅さであれ力、技、業であれ。結局のところはそれを上回る相手にはかなわない。劣る君がどれほどあがいたところで、その差は埋まらないんだよ。そう、絶対に。
 絶望の底ですべてを失くした琴美は、かすれた声音で乞うた。
 どうか、私を、

 霞は晴れ、琴美は先ほどまで己が在ったままの、夜闇のただ中に立ち尽くしていた。
 今の情景は都市伝説の置き土産だったのだろうか。それこそ神が幻(み)せた、遠からず琴美が辿る末路の様か。
 そうだとするなら――そうだとしても――

 琴美は無言で踵を返した。
 その顔へ、いかなる表情も映さぬままに。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年03月02日

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