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『知らずの散花(1)』
芳乃・綺花8870

 夜の街を這いずり回るその異形は、人の歪んだ感情を形にしたかのような淀んだ闇の色をしていた。恨みつらみは悪の糧。蓄えた怨恨の大きさは、そのまま怨霊の強さに繋がる。
 長年さまよい続けすっかり成仏の機会を失った死霊は、今日も負の感情を喰らってまわっていた。生者を襲い、死に行く瞬間にその者が悪霊へと向ける憎悪すらも自らの力にして、ますます悪霊は強大なものへとなっていく。
 いっそう力を手にした悪霊は、そしてまた次の獲物を求め夜の街をさまよい、人々を恐怖へと引きずり込むのだった。

 ◆

 カツン、と音がした。靴が地を叩く音だ。しっかりと前を向き、堂々と胸を張りながら歩く者にしか奏でる事が出来ない、どこか自信に満ちた靴音。
 悪霊はその音を聞いて、刃のような牙の並ぶ歪んだ口元を更に不気味に歪ませる。そういう者が抱く憎悪こそ、悪霊にとって何よりもの好物であった。
 獲物を狙うギラギラとした殺意に満ちた瞳が、靴音のする方へと向けられる。一つの影が、そこを横切った。
 堂々とした足取りを崩さぬまま、人影は悪霊の前へと姿を表す。
「こんばんは。素敵な夜ですね」
 あろう事か、その人影は悪霊に気付くと、まるで知人へと声をかけるかのように気さくな挨拶の言葉を口にした。
 見るからに異形である悪霊を見ても、人影がたじろぐ様子はない。射抜くように、その澄んだ黒色の瞳は悪霊の事をじっと見つめ返している。
 その影は、少女の形をしていた。月すらも彼女を引き立てるための付属品に思える程に美しい、月夜の似合う長い黒髪の少女だった。
 夜風が、彼女の身にまとっている黒色のセーラー服を悪戯にたなびかせる。ミニスカートが揺れて、ストッキングに包まれた美しい脚がちらりを顔を覗かせた。
 彼女の姿を見た瞬間、とっくに生者としての欲を失い憎悪にしか関心がなかったはずの悪霊の心が、久方ぶりにざわつく。
 恐ろしい姿の悪霊を前にしているというのに、彼女は動じた様子はなく毅然とした態度で構えていた。その顔に、怯えや恐怖といった感情はない。
 それどころか、少女はくすりと笑みを浮かべる。その靴音と同じように、自信に溢れた堂々とした微笑みだ。
 自分よりも格下な何かを見ている……否、見下している時に浮かべるに相応しい、どこか相手を小馬鹿にするような笑みだった。
 明らかに悪霊の事を馬鹿にしている少女の態度。だが、怒りという感情がわくよりも前に、悪霊は目の前にいる彼女につい見惚れてしまった。
 月夜の中微笑む彼女の姿は、それ程までに美しかったのだ。
 その適度な膨らみとくびれのある魅惑的な体つきや、健康的な臀部や太腿からは人を虜にする魅力を有り余るほど感じる。たとえ同性であったとしても、彼女に目を奪われない者はいないであろう。
 その少女の名前が、芳乃・綺花(8870)だという事を悪霊は知らない。
 ただ分かるのは、彼女がひどく魅力的だという事。そして、自分は先程よりもいっそう、この獲物が絶望に顔を歪める様が見たくて仕方なくなったという事実だけであった。

 悪霊の戦いに、ルールなどはない。武士道も騎士道も、怨霊には関係がない。
 だから、何の合図もなく悪霊はその牙を少女へと向けた。凶悪な凶器が並ぶ大きな口を開き、傷一つない綺花の柔らかで美しい肌へと無慈悲にも悪霊は狙いを定める。
 だが、悪霊の牙が、彼女の魅惑的な肢体に触れる事はなかった。
「挨拶も返してくださらないなんて、やはり悪霊は低俗ですね」
 呆れたような、けれどこうなる事すら予想がついていたかのような口ぶりで、少女は呟く。いつの間にか悪霊の背後へと回っていた彼女は、突然攻撃されたというのに動揺した様子もなく、何事もなかったかのようにそこに佇んでいた。
 綺花が艷やかな唇を動かし、再び言葉を紡ごうとする。しかし、彼女がその喉から凛とした声を発するよりも前に、悪霊は再び綺花へと襲いかかっていた。今度は鈍く光る長い爪を、剣のように振るう。
 目にも留まらぬ速さで繰り出された、悪霊の追撃。しかし、綺花はあっさりとその攻撃も避けてみせた。
 攻撃が二度も外れたというのに、悪霊はどこか余裕のある笑みを浮かべてみせる。なにせ綺花は刀を抜くどころか、未だ柄に手をかける様子すらなかったからだ。
 恐らく戦う気もわいてこない程、悪霊の迫力に気圧されているのだろう。そろそろとどめをさしてやろう、と、悪霊は本気の力を解放する。
 綺花のような少女の身体など、まるまる飲み込んでしまいそうなサイズの闇の塊を悪霊は作り出した。夜空よりも暗く歪な形の闇が、綺花へと容赦なく襲いかかる。
 ――はずだった。
 だが、何故か闇は彼女に触れる直前に霧散する。自らの本気の力が粉々になり塵一つ残さずに消えてしまい、悪霊はしばしの間呆けてしまった。
 くすり、と綺花が笑う。やはり月夜に似合う、愛らしくもどこか妖艶で人を夢中にさせる美しい微笑みだ。
 だが、その唇がまず紡いだのは、悪霊を小馬鹿にするような嘲笑であった。
「間抜けな方ですね。まだ気付いていなかったんですか? もう、この戦いはとっくに終わっているんですよ」
 瞬間、悪霊の視界がブレる。何が起こったのか分からないまま悪霊は自らの身体を見下ろし、そこでようやく異変に気付いた。
 自身の身体に、刀で出来た大きな傷がある事に。
 綺花は刀を抜かなかったわけではない。とっくに抜いていたし、悪霊へと一撃を加えていた。しかし、あまりにも速すぎて、悪霊には視認する事が出来ていなかったのだ。
 先程自らが作り出した闇と同じように、悪霊の身体が消えていく。その時になってようやく、悪霊は自らがすでに敗北しているという事実を悟ったのであった。

 ◆

「逃げ足だけは速いですね。もっとも、私なら追いつけますが……」
 消滅しかけたその瞬間、トカゲの尻尾のように切り離された悪霊の一部は慌てた様子で逃げ出していった。
 力の殆どを失っているせいでその身体は消えかけており、普通の者であれば気付く事は出来なかったであろうが、綺花の目を誤魔化す事は叶わない。
「いえ、今回は見逃してさしあげましょう」
 だが、彼女はあえてそれを追う事はせずに、帰路へとついた。
「惨めすぎて、刀を向ける価値すらありません。わざわざ私が手をくだす必要もありませんね」
 所詮あれは、悪霊の残滓のようなものだ。放っておいても、その内消滅してしまう事だろう。
 無様に負けたというのに、まだ現世にとどまろうとするその執念深さを、綺花はいっそ哀れに思う。
「どうして弱い敵ほど、自分の敗北を認められないのでしょうか。やはり、世界に仇なす魑魅魍魎にはろくな方がいませんね。最近力をつけてきた悪霊だと聞いていたので今夜は強敵と戦える素敵な夜になると思っていたのに……期待外れでした」
 悪霊が逃げていった方向を見て、綺花は呆れたように吐き捨てた。
 女子高生退魔士は、一度拠点へと戻り任務成功の報告をするついでに、次の任務ではもっと強い敵と戦えるように頼んでみようと心に決めるのであった。


東京怪談ノベル(シングル) -
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東京怪談
2020年03月09日

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