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『一手』
芳乃・綺花8870

 魔剣――いや、魔剣の“手”として繰られた剣術家と対峙する芳乃・綺花(8870)。
 剣術家は剣術の基本、正眼の構えをとっている。
 斜めに立てた刃で自らの芯を隠したこの構えは、軸を据えていればこそ敵の打ち出すさまざまな攻めに応じて自らを守るに易く、逆にさまざまな攻めへと転じるも易い。
 対して、綺花の構えは迎撃を主とした抜刀術のそれである。ただし、通常は腰を据え、立てておくべき上体を低く、前のめりに倒し込んでいた。
 これでは迅く抜けようはずがない。
 鞘とは銃身のようなものだ。刃の行方を定め、そこへ至るまでの軌道を正しくなぞらせるためにある。
 しかし、当然のことながら刃は火薬で押し出されるものならず、手によって引き抜かれるもの。上体を倒せば腕の振りもそれだけ制限されることとなり、必殺の軌道を描くことが阻まれるのだ。
 そしてなにより、頭が下がることで敵に面を打たれやすくなる。
 心得ているはずの綺花がなぜこの構えを為したものか? 魔剣は剣術家の生前の記憶や思考を元にいぶかしんでいるはずだ。
 とはいえ、攻める以外の選択肢はない。綺花の構えがただの外連であるならばそのまま断ち割ればいいのだし、妙な時間稼ぎをされて我が身の不利を招くわけにもいかないのだから。
 待ち続けてきた。我が身を一閃で断ち、存在を喪う寸前にまで追い詰めた綺花の肉を、血を、命を喰らえる機会を。
 時をかけていくらかの人々を陥れ、ついに最高の“手”を得た今こそがそのときだ。

 魔剣の殺意に応じ、死せる剣術家が右足を前へ進ませる。先に述べた、にじり足でだ。敵に気づかせることなく、わずかずつ間合を詰め、あるいは離すこの歩法は、足を充分に蠢かす広さを持ち、地をかすめるよう裾の長さを整えられた袴をつけていればこそのもの。
 死に装束を稽古着にさせるには存外な手間がかかったが、それだけの価値はあったということだ。
 果たして、踏み込みひとつをもって打ち込めるまで間合を詰めた魔剣は、迷うことなく剣術家を繰った。

 剣術家が踏み込んでくる。
 にじり足で詰められていたのは観の目で確かめていた。そして、ここで仕掛けてくることも知れていた。
 刃渡りはこちらが一尺(およそ30センチ)長い。その分間合が広いとも言えるわけだが、斬り合いを演じるとなれば、使える長さはせいぜい鍔から刃の半ばほどまでで――支点が柄を握る手であることは変えられないからだ――小太刀とそうは変わらない。
 綺花の額をこすりつけるように押し出された魔剣を、彼女はより低く頭を下げ、潜り抜けた。一歩と二歩で剣術家の脇を抜け、三歩めで竹を蹴って体を返す。ぬばたまの髪が宙へ踊り、流れ落ちたときには再び、剣術家の正眼と相対していた。
 さすがに崩れませんか。
 追い打ちをかけてきたならその隙に合わせ、抜き打っている。しかし敵は自らを立てなおすことを選び、反撃を封じてきた。
 魔剣の経験による判断なのか、剣術家の経験則による警戒なのか、それを知る術はなかったが、どちらにせよ二の太刀を為す心づもりは捨て去るべきだろう。
 つまりは綺花が抜くとき、この闘いは幕の幕は下りるのだ。

 気合もかけ声もなく、剣術家が綺花を攻め立てる。
 すべてが必殺でありながら、いつなりと守りへ回れるよう備えてもいた。武道に云う残心を当然に成す有り様ではあったが。
 反撃の機を窺う様子もないまま、綺花は魔剣の下をくぐり続けていた。
 達人であればこその死角ですね。
 剣士が切っ先を下まで振り下ろすことはない。体が泳ぎ、さらには構えという守りをも損なうからだ。綺花の構えは非常識ながらこうして意味を為してもいたのだが、ともあれ。
 いくらかの鬼ごっこを演じた後、魔剣は肚を据えた。
“手”が得意とする真っ当な剣術で綺花を打ち据えることは難しい。ならばこちらも常道を捨てるよりあるまい。
 剣術家が魔剣を構えなおした。正眼ではなく、脇にだ。左の肩を前に出し、自らの体で脇に置いた刃を隠すこの構えは、現代剣道においてはまず使われることのないものである。体勢を変化させるにも刃を前へ振り出すにも時間がかかり、それだけ敵の攻めを喰らいやすいからだ。
 しかし、“手”は死人。痛みにひるむわけでなし、左腕を損なおうとも右腕が残ってさえいればどうとでもなる。そして左脚を斬られたとて、断たれる前に当ててしまいさえすればこちらの勝ちだ。
 綺花を次の“手”として繰るも一興とは思っていたが、それに拘って二度めの死を招き入れるほど愚かではない。
 開いていた間合がじりと詰まる、じりと詰まる、じりと詰まる。
 脇に隠されていた魔剣が、剣術家の影に隠れたままはしった。実際のところ、これは決まらずともよい。前へ出るまで隠し通すことで綺花に回避または防御のタイミングを読み違えさせ、隙をこじ開けられればいいのだ。

 ああ、悦んでいますね。
 綺花は魂なき剣術家に、確かな喜悦を見ていた。
 先に対したときにも感じたが、剣士は結局のところ、死んでなお剣士であるよりないものであるらしい。
 これが私の返礼です。
 綺花は柄頭を繰り出した。最高の一閃が為されるにはここを通るしかないという軌道の先へ、まっすぐに。
 キン。澄んだ高音が爆ぜ。
 柄頭を突き当てられた魔剣が大きく弾け、剣術家の姿勢を大きく崩した。
 やはりあなたは今もなお最高の剣士です。
 五体を駆け巡る悦びを右手へ集め、握り込んだ柄を前へと押し出す。
 そのとき左手は、鞘を後ろへと押し投げていた。抜刀精度を損なう悪手だが、すでに綺花は描くべき弧を見据えている。けしてそれを外しはしないと、心を据えていた。
 さらには前へ投げ出した右脚の膝を深く折り倒れ込んでいく。膂力に乗せられた自重と落下力が先へと向かう刃を加速し、加速し、加速する。
 綺花の構えは敵刃をくぐるためのものならず、前へ倒れ込むために――より先へと倒れ込むためにこそあった。なぜなら刀とは引き斬るもの。最初に触れた箇所から切っ先までしか使うことができない。だからこそ、鍔元から押し当てる。そうすることで二尺五寸の刃渡りすべてをもって、斬れる。
 抜けるはずのない寸毫の間に抜き打たれた刃は過たずに描くべき弧をなぞり。
 空いた剣術家の胴を、周囲の竹ごと断ち割った。
 お見事。それは幻聴だったのだろうが、立ち合いの中で果てる本懐を遂げた剣術家の、残した礼であるのだろうとも思うのだ。

 地に転がった魔剣は、近づき来る綺花の気配に刀身を震えあがらせた。
 残された剣術家の上体を必死で起こし、両手で己を振り回させるが、据える腰も支える脚もないのではどうにもしようがない。
 ローファーの踵で魔剣を踏み止めた綺花は、鞘に修めた太刀を振りかざしてささやきかける。
「報いを受けていただきましょう。あの方の眠りを妨げ、私欲を満たす手段として使ったことの」
 鞘の先で魔剣の切っ先を突き折り、折れた先をさらに突き折っていく。
 丹念に先から砕かれる恐怖と苦痛の中、魔剣は乞うた。ひと息に滅してくれ――!
「魔に尽くす礼などありませんよ。最悪の死の底へ沈む怖れを噛み締めて逝くのですね」
 かくて慈悲も容赦もなく魔剣を砕き終えた綺花は、今一度戦場を見やった。
 ――再びまみえたときには、尋常の勝負を。
 一礼を残して踵を返した綺花の目は、次なる戦場へと据えられていた。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年03月12日

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