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『知らずの散花(3)』
芳乃・綺花8870

 憎悪は、その醜い感情に見合うおどろおどろしい姿をとり、少女の前へ立ち塞がる。
 悪霊の瞳が、闇夜に不気味に光っていた。放たれる殺気がもし人の目に見えたとしたら、それはたちまちに彼女の事を飲み込んでしまっていたに違いない。
 ただ一人の少女が対峙するには、あまりにも強大な邪悪がそこには存在していた。
 少女の身体が、僅かに震える。
 しかし、その震えは怯えや恐怖によるものではなく、興奮した敵が意味もなくうごめいたせいで起きた風が、彼女の事を悪戯に撫でただけに過ぎなかった。
「醜悪ですね。弱者の歪んだ心というものは、やはり見るに絶えません」
 彼女は怯えるどころか、常に携えている余裕を崩す事なく、悠然と眼前の敵を見ていた。
 心の底から軽蔑するような視線を、少女は相手へと向ける。だが、このような強大な悪霊こそ、退魔士――芳乃・綺花(8870)の前に立つには相応しい。
 ルールや道理など、死した相手にはもはや通じなかった。不意を狙うように、悪霊はその醜くも凶悪な腕を振るう。鋭い爪が綺花へと襲いかかる。
 だが、その爪が彼女を切り刻むよりも、たん、と小気味の良い音を響かせて綺花が地を蹴る方が早かった。
 悪霊も以前戦った時に彼女の身のこなしの軽さを知ったためか、初撃を避けられる事は想定の範囲内だったらしい。跳躍する綺花に対して、容赦のない追撃を加えてくる。
(以前よりも速いですね)
 ただその一瞬で、綺花はすぐに相手が前よりも強くなっている事に気付いた。怨恨で現世へと留まっている悪霊は、どうやら綺花に負けた恨みをも自らの糧とし、以前よりも遥かに力をつけてきたらしい。
 その動きはかつての倍……否、数十倍とも言って良いほどに、速い。威力も比べ物にならない程強く、もし真正面からこの悪霊の攻撃を受けてしまったら、たとえ綺花であったとしても無事では済まないかもしれない。
「あの時、あなたを見逃して良かったです」
 しかれども、やはり彼女は笑うのだ。嗤う、と言った方が正しいかもしれない。
 刀を構え直し、綺花は悪霊を挑発するようにそう呟くと、嘲笑を浮かべる。
「おかげで、こうして以前よりも強くなったあなたと戦える事が出来ますから。今夜こそ、少しは私を楽しませてくださいね?」
 少女の履いた靴が、地を蹴った。セーラー服のスカートが翻り、彼女のストッキングに包まれた美脚を惜しげもなく晒す。
 跳躍した少女は、その勢いを刀身へと乗せ、威力の増した一撃を敵へと向かい振るった。
 形のない悪霊は、普通の刀であれば斬る事は出来ない。けれど、綺花が携えている刀は退魔の力を宿している特別な刀だ。悪霊がくらったら、必死の一撃だろう。
 しかし、次いで響いたのはその攻撃が弾かれる音であった。以前の戦いでは、聞く事の叶わなかった音だ。
 綺花の攻撃を弾いた悪霊が、不気味な笑みを浮かべる。綺花を小馬鹿にしているかのような、嫌な笑みであった。
 綺花の端正な形の眉が、その瞬間僅かに歪む。今まで余裕のある微笑みを浮かべていた彼女に初めて、負の感情が混ざったように思えた。
 そのリアクションから、勝利を確信したのだろう。悪霊の攻撃が、一層激しくなる。目にも留まらぬ速さで、慈悲無き一方的な攻撃を悪霊は何度も繰り出した。
 華麗な動きで綺花はその攻撃を避けてはいるものの、悪霊は彼女に反撃の機会を許さなかった。自分の力を誇示するかのように、そしてその胸に宿す歪んだ感情を彼女に叩きつけるかのように、悪霊は容赦のない猛攻を続ける。
 そんな時間が、いったいどれくらい続いただろうか。いい加減、綺花にも限界が訪れているようだった。
「そろそろ、終わりにしてくれませんか?」
 少女の唇から不意に零れ落ちた言葉が、その事実を証明してみせる。悪霊の口は、ますます愉快そうに歪んだ。
 その言葉を、綺花の敗北宣言だと悪霊は思ったのだろう。
「いい加減退屈してきました。手を抜くのは終わりにしてください、と言っているんです。それともまさか、これで全力なんですか?」
 しかし、次いで少女の唇から零れ落ちたその一言は、場の空気を一変させるには十分すぎるものであった。
 思わず攻撃の手を止めてしまった悪霊を見ながらも、少女はまるでなんでもない事のように言葉を続ける。
「たしかに、以前に比べてあなたは見違えるほど強くなりました。事実として、それは認めましょう」
 凛とした声でそう紡いだ綺花が浮かべているのは、いつも通りの余裕のある微笑みだ。
 彼女の真っ直ぐな視線に射抜かれ、悪霊は僅かにたじろぐ。先程まで自分が勝利するものだと思いこんでいたのだから、動揺するのも無理はない事だろうと綺花は思った。
 何故綺花が笑みを浮かべているのか、相手は理解出来ていないに違いない。綺花の実力を見誤り自らが優勢だと勘違いしていた、悪霊には。
「けれど、それでもあなたの力は、私には遠く及びません。あなた、私が想定していたよりも弱すぎます。少しは楽しませてもらえるかと思ったのに、残念です」
 先程、敵の動きを見て綺花が眉をしかめた理由。それは、別に相手の強さに恐れをなしたからではなかった。その期待はずれな弱さに、彼女は落胆していたのだ。
 そもそも、最初に敵に弾かれた綺花の攻撃は、彼女の全力ではなかった。戯れ程度に放った、様子見の一撃に過ぎなかったのだ。
 そんな事実にすら気付かず勝手に思い上がっていた悪霊を、ひどく哀れで無様だと思い綺花は改めて嘲笑を浮かべる。
「あなたのお遊戯会のような攻撃に合わせて手を抜くのも、いい加減面倒くさくなってきました。さっさと倒して、次の任務を引き受けた方がよさそうですね」
 吐き捨てるようにそう呟いた瞬間、悪霊の視界から少女の姿が消える。その速さは、先程までの悪霊と比べる事すらもおこがましく思える程に――速い。
 悪霊が胸に抱く殺意を、怨恨を、彼女の刀は全て切り捨てる。
 花は咲いても実を結ばない花を散花と呼ぶが、悪霊の得た力も所詮はその程度だったのだ。少女にとっては刀で少し薙いだだけで簡単に散る、か弱い花。
 自分では、綺花に敵う事は出来ない。その事実にようやく気付いた悪霊の悲鳴が、夜の街へとこだまするのだった。


東京怪談ノベル(シングル) -
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東京怪談
2020年03月27日

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