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『That day』
空月・王魔8916

 今日、おまえがこなすべき課題(家事)だが。
 そこへ続く言葉を考えている隙に、雇い主はするりと家から逃げ出していた。
 なにもしようとしないくせに、空気を読むことにだけは手間を惜しまない女だ。いや、素封家として振る舞うことには、か。
 不本意ながら家事手伝いを兼業中な本業ボディガード、空月・王魔(8916)はかぶりを振り振り、飾り気のないデニムのエプロンを脱ぐ。
 雇い主は限りない悪意をもってフリルいっぱいの白エプロンを用意してきたものだが、弾倉1本分のパラベラム弾で壁ごとズタズタにしてやったらさすがに引き下がった。まあ、換えの弾倉の先から見えていたホローポイント弾に王魔の本気を嗅ぎ取っただけだったのかもしれないが。
 ともあれ、雇用主は夕飯まで帰ってこないだろう。それならそれでいい。昼飯だの茶だの本だの、ちまちました訴えに応える手間がはぶける。
 つまり私は、夕方までの自由を得たわけだ。
 息をつき、王魔は再びエプロンをつけた。邪魔者がいない間にキッチンを磨いておこう。換気扇と、ついでに配水管も――
「骨の髄まで家事手伝いか!」
 勢いよくエプロンを脱いで叩きつける。床じゃなく椅子の背へ投げつけたのは衛生面を考慮してのことだが、それはそれで家事手伝いっぽくて萎えるところだ。
 このままでは本気で「家事手伝い」に成り果ててしまう。それだけはなんとしてでも避けなければ。
 と、頭の隅に別の思考が沸きだしてくる。別になにを気負うこともあるまい。ここは表面上、平和な場所だ。最低限の身体能力と五感が維持できていれば充分だろう?
「その表面とやらをひと皮剥けば修羅場が顔を出す場所の“最低限”は、どれほどだ?」
 口に出してしまったのは、苛立ちのせい。自らの甘さを赦せぬ原因が、結局は了見の狭さに起因していることを弁えていればこそだ。

 この国へ来たときには、生きるほかのことを放棄して、ただ時間をやり過ごしていた。では、この国へ来る前はどうだ? 弓と銃を繰って戦場を駆けてきた。それこそ死なないためだけに。
 私はこの半生、ただただ生きてきただけなんだ。
 それでいいと思えていたのは、ほかに為すべきことを見つけられなかったからに他ならない。そして今、彼女は見つけてしまっている。尽きぬ家事と、隻腕の雇い主の世話を焼いて尻を拭う毎日を……
「だからといって家事手伝いを受け容れるか!」
 自らを叱りつけておいて、王魔はエプロンへ伸ばしかけていた手を強引に引き戻した。
 ようするに、ぽっかり暇ができてしまうのがよくないのだ。そんな時間を無為に潰すだけでやり過ごせなくなったなら、せめて有意義に潰してやろうじゃないか。


 と、いうわけで。
 王魔はキッチンの床の上で黙々と腕立て伏せを繰り返す。30を数えるごとに腕の開きを変えてさまざまな部位に“効かせて”おいて、両足を開いて上体を床へ擦り付けるように前へスライド、頭を持ち上げていくダイブボンバー式で1セットを締めた。
 それを3セット終えるころには、強火にかけた大鍋からくつくつ音があふれ出す。中身は、半解凍の内に下処理を済ませた鶏のガラとブーケガルニをたっぷり詰めた、無塩のチキンスープである。
 徹底的にアクをとって火を弱火へ落とせば、あとは後発のアクを除きながら数時間煮込むだけ。アク取りをしつつもう7セットの腕立て伏せをこなし、王魔は次のトレーニングへと移行した。
 愛用の弓を矢筒ごと肩へ担ぎ、スクワット1000回。アクを取った後にはジャンプして、さらに筋肉への負荷を上げてやるのがポイントだ。このトレーニングのなにがいいかと言えば、濃やかに鍋の面倒を見られることである。

 フロントブリッジやら首の鍛錬やらをこなしている間に、スープが煮上がった。
 手首に重りを結わえつけた王魔は、火から外した鍋の中身を丹念に濾し、ボウルの内に顕われた“黄金”を満足げに見下ろす。
 これは世界でもっとも価値のある金だが、このままでは原石であるにすぎない。ここからが本番だ。
 まな板へ置いた大振りな玉葱へ包丁の刃を滑り込ませる。ここからみじん切りにしていくわけだが、フードプロセッサを使わない理由はふたつある。ひとつは玉葱の筋が残りやすいからで、もうひとつは効率よく二頭筋と前腕筋群へ負荷をかけるためだ。腕立て伏せは主に三頭筋へ効かせるトレーニングなので、これで腕全体を鍛えられる。
 そうしてできたみじん切りを、バターを敷いたフライパンで炒めていく。水分が飛ぶまでは中火、その後は弱火。焦がさないよう常に玉葱を動かし続けること40分で、見事なブラウンオニオンができあがり――ついでに腕にもいい負荷をかけられた。

 先に取っておいたチキンスープをあらためて火にかけ、あたたまるまでの間に大蒜と生姜のみじん切りをこしらえ、バターで炒めて香りを引き出しておく。それをブラウンオニオンと合わせてスープへダイブ。
 さらに人参とジャガイモを入れ、浮いてくるアクと細かな焦げを除きながら30分煮込んだ後、ざく切りにした鶏の腿肉を投入してさらに煮込む、煮込む、煮込む。
 ラスト1分で濃く出したコーヒーとプレーンヨーグルトを少々混ぜ込み、火を止めたらついに仕上げだ。
 取り出したのは、どんなスーパーでも売っているカレーのルー。数多のカレーを作ってきて、結局はこれに落ち着いた。
 なぜ落ち着くのか……それはきっと、憶えてすらいない幼少期の記憶なのだろう。両親と共に囲んだ食卓で味わった“日本の味”。生きるばかりではなかったころの思い出が自分の奥底へ根づいているのだと思うと、なにやらくすぐったさを覚えたが、存外に悪くない。自分にも人間性というものがあることを実感できるから。

 有意義に過ごせた自信はないが、少なくとも潰すだけの時間ではなかったよ。


 果たして。
 夕方過ぎににやにやしながら帰ってきた雇い主を、王魔のチキンカレーが出迎える。
 市販のルーを使っているんだろう? それにしては味が深い。ブラウンオニオンとバターの旨みを、複雑な味わいがしっかり下支えしている。チキンスープ、ヨーグルト……
 いかにも素封家らしい(無駄な)グルメぶりを発揮しつつ、雇い主はカレーを平らげていった。
「サラダもきちんと食え。スプーンひとつで済むよう、みじん切りにしてやってるんだからな」
 王魔は豆と刻み春野菜のサラダを雇い主へと押しやった。脂質の高いカレーに合わせるため、ノンオイルでさっぱりとしつらえた代物だ。健康を維持するためにも一定量を摂取させる必要がある。
 対して雇い主はしみじみと。きみはすでに家事手伝いを超えて母親のようだ。かわいい娘としては、母の日に割烹着を贈るべきかな。
 あ。一線を越えてしまったことに気づき、雇い主が固まった。逃げるべきかなだめるべきか、どうする――
 しかし王魔は眉根を少々引き下ろしただけで、打ちも撃ちもしなかった。
「おまえがいなかったおかげでそれなりにいい一日を過ごせた。最後の最後で汚すのは無粋だろうさ」
 ……家に閉じこもってカレー作りしただけの一日が?
「トレーニングもこなしている」
 迂闊な雇い主を今度こそ殴りつける王魔だが、自分が端から見れば相当レベルの高い家事手伝いというか、主婦になってしまっていることには最後まで気づかないのだった。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年03月30日

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