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『彼岸』
剱・獅子吼8915

 今日、おまえがこなすべき課題(家事)だが。
 コーヒーを飲みきっていなかったからおとなしく聞いてやったが、それ以上語らせてしまってはいろいろと面倒が生じてしまう。後で、聞いたくせに実行しなかったなと問い詰められる等々の。
 だからというだけではないのだが、剱・獅子吼(8915)はコーヒーを飲むふりを続ける中で、なにを言いつけてやろうかと考え込む護衛兼家事手伝い――あちらは頑なに家事手伝い兼護衛と言い張るのだが――の隙を突き、キッチンから脱出した。
 結局は後で無駄な才覚を発揮するなと怒られるかもしれないが、なにもしないことを貫けるなら悪くない代償であろう。
 素封家である以上、日々というものは無為にやり過ごすべきだからね。
 が、今日に限っては先に述べた通り、「だからというだけではない」のだ。なぜなら。
 外国、しかも紛争地育ちで日本の行事にはまったく疎い家事手伝いは知らないだろうが、今日は春の彼岸の中日。獅子吼にとって、常は放ったらかしている墓へ参る日なのだから。


 途中の花屋で仏花を買い込み、ぶらぶらと檀那寺(だんなでら)を目ざす。
 ちなみに檀那寺とは、檀家として墓や法事を預けた寺を指すわけだが、これはよく云う菩提寺とは異なる。先祖代々の墓を預かるのが菩提寺であり、これから参る剱の墓に入っているのは空の骨壺だから、まったくもって菩提寺には成り得ないからだ。
 そして、先祖の魂収めぬ空の墓を彼女が参る理由はシンプルなもので、菩提寺へ赴けば住職からすぐに親族へと連絡が飛び、厄介事を招き寄せるからに他ならない。
 墓は空でも、気は心と云うしね。問題は、気持ちも心も私が持ち合わせていないことなんだけど。
 だとしても、墓を建ててそこへ向かう労力は本物なのだから、先祖各位も納得してほしいところだ。たとえ「どうして寺の横に花屋がないものかな。医院の近くには決まって薬局があるだろうに」と愚痴を垂れていても。

 一応は彼岸ということもあってか、寺のほうも墓周りを掃除してくれていた。
 もちろん獅子吼に掃除をしてやろうという殊勝な気持ちはなかったから――空の墓でもあるし――腕のない左肩をすくめずに済んだのは実にありがたい。
 そしてなんのてらいもない御影石の墓と向き合い、残された右手で花を花立へ、スーパーのビニール袋に投げ込んできた線香を香炉へ、蝋燭を火立へ、それぞれ据えた。
 線香と蝋燭へ点火するついで、口にくわえたドライシガーへも火を灯し、獅子吼は気づいたように墓へ言う。
「お釈迦様の言いつけはそれなりに守りました。あとは勝手にやらせてもらいますよ」
 なにせ私には、合わせる手もありませんしね。胸中で言い訳を積んでおいて、かがみ込む。
 不思議なほど感慨はなかった。こみ上げるものもあふれ出すものも突き上げるものも、本当になにひとつ。
 おかしな話だけどね。墓参りへ来る程度の義理は感じてるはずなのに。
 獅子吼は顔を上げ、墓の縁の向こうへ拡がる青空を見やる。故人が在るという極楽浄土を透かし見ることができるはずもなかったが、それでも。
「あなたがたの娘は、それなりに立派な素封家として生きていますよ。喜ばしいことですね。死にそうなことが次々やってくる中で、ここまで無為を貫けるのは」
 相手が故人でなければ殴られそうなことを誇りつつ、獅子吼はふと問いかけた。
「不肖の娘だと憤られていますか?」
 その気になれば平安まで遡ることのできる――と親族諸氏は息巻くが、真実を知らぬ者たちはずいぶんと剱の血を安く見積もってくれるものだ――家を、これといった理由もなく投げ棄てた彼女。いや、彼女にとってはそうするだけの理由があったわけだが、語るは野暮というものだろう。少なくとも、彼女以外の誰も説得できない理由である以上は。
 いや、そうではない。理由などどうでもいいことなのだ。わずかな悔いも残さぬため、彼女は踏み出した。思いを残しておらぬからこそ語ることもない、それだけのこと。
「私は自分の不肖なる有様に満足していますからね。堪えない娘に説教をかましに化けてこられても、返せるものなんてせいぜいが生返事ですよ」
 ドライシガーの苦い煙を吹かし、椨(たぶ)の香で清められた空気を穢す。
 ああ、このくらい濁った空気だからこそ私は息ができる。綺麗すぎてはすかされるばかりで、濁りすぎては詰まるばかりだから。
 極楽浄土へ昇れるつもりはないが、地獄へ墜ちたいわけでもない。その間にあるこの世界で生きて、死んだ後はただ塵芥と化す。その先へ行くことなく、消え失せられれば上等だ。それでも――
「死んだ私がそちらの岸へ行き着くようなことがあれば、そのときに文句でも罵倒でも聞きますよ。もちろん生返事を返しながらですけどね。それでは納得がいかないと化けて出られるなら」
 喪った左腕に顕現させた黒き剣を一閃させ、蝋燭と線香の火を斬り消した獅子吼は乾いた笑みをつくり。
「この刃で応じましょう」
 そのときには見てもらおうか。不肖の娘がその不肖を貫くがためなにができるものかを。恩を仇で返す? とんでもない。己を尽くす誠実は、子が親へ示しうる最高の恩返しというものだろう。
 自分勝手が過ぎることは承知しているさ。それでも私は、私であることを辞めるわけにはいかない。そのことに迷いはないし、悔いもないんだよ。
 これから先も、誇れぬ己こそを誇るべき己と掲げ、死ぬまで生き続けよう。先を願わぬのだから己の死に様に興味はない。しかし、この生き様ばかりは塞がせない。弄せるものは弄し、いなせるものはいなし、斬るべきは斬り抜け、歩き続けるだけだ。
「いずれ強欲な親族諸氏から菩提の墓を取り戻し、あらためて話をしに行きます。そのときに限り、化けて出ていただいても我慢してお叱りを受けますよ――生返事でね」
 ああ、またひとつ厄介な約束を背負ってしまったな。人というものはどうにもしがらみに弱くていけない。
 苦笑して、彼女は根元近くまで火が来ていたシガーを携帯灰皿の底でもみ消し、蓋を閉じた。しがらみもこうしてもみ消してしまえれば楽なんだけどね。
 やれやれと思いながらも、墓前を後にする足取りは存外に軽く、力強かった。


 寺の近くにある日本料理屋で時間を潰し、獅子吼は帰路へつく。
 さて、家事手伝い殿の怒りをどうごまかしてやり過ごそうか。一応はあれこれ考えてみたのだ。女子が喜びそうなスイーツを買っていこうか、それとも一食分の手間がはぶける惣菜がいいか、いっそのこと花なんてどうだろうか……
 いや、小手先のごまかしじゃああの女は騙せないだろう。だとすれば、これしかないか。すなわち。
 私が無事に帰ること。それが家事手伝いにとって最高の土産になるってことだよ。

 果たして、にやにやとあいまいに笑みながら帰り着く獅子吼。
「なんの諍いに巻き込まれることなく、事件へ首を突っ込むこともなく帰ってきた。いや、実に喜ばしい結末じゃないか。私は私を褒めちぎってやりたいと思うよ。――そういえば夕食はカレーだね。私の片手を気づかってくれるキミも褒めてつかわそう」
 結果としてまったくの不正解だったが、それでも叱られることはなかったのでよしとする。せっかく助かったのに余計なことを言ってしまい、結局殴られるのだとしても、それはまた別の話というやつだ。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年03月31日

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