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『染香』
不知火 楓la2790)&不知火 あけびla3449

 木床へ中足を滑らせ、止める。
 滑り過ぎないし、それでいて歩を詰まらせもしない。うん、いい床だ。
 不知火 楓(la2790)は満足気にうなずき、前へ出した右足を引き戻した。

 ここは彼女が世話になっている不知火当主の邸宅、その片隅に建てられた道場だ。
 道場開きされて一週間ほど経っていたが、任務や雑事のせいでなかなか赴く時間が取れず、だから今日、ようやく足触りを確かめている。
 と、いうわけで――力をかけて踏みしめれば、程よいしなりが踏み足を受け止め、弾ませる。分厚く節がなく、しかも年輪の詰まった分厚い杉板ならではの感触。壁にも同じ杉板が張られているから、稽古で叩きつけられても安心だ。
「これなら僕たちの必死を預けられる」
 うそぶく中で思い出す。足を踏み入れるより先に並んで道場を見やり、この道場を育てていくのは自分たちなんだと目を輝かせた幼なじみを。
 ……新しいものに心惹かれるのはなにもおかしいことじゃないけれど、でも。
「時間をかけて“成った”ものにはもう、目を向ける価値なんてないの?」
 知らず漏れ出た言葉に身を竦ませ、楓は大きくかぶりを振った。
 新しい杉板独特の甘ったるい香が鼻につく。こればかりはしかたないと弁えてはいても、戦場に立つ身として五感を研ぎ澄ましていればこそ、意識から切り離すことも難しくて。
 ……合板じゃない本物の木材を、無垢材って云うんだってね。その無垢を自分色に染めてやるのが男の本望? じゃあ、僕の本望は、
「新しい道場って落ち着かないよねー」
 楓の思考を途中で断ち斬ったのは、入り口からひょっこりと顔を出した不知火家当主、不知火 あけび(la3449)その人だった。
「でも、私が日本中の問屋巡りして選りすぐった、最高の“赤味”だからね! いい道場に仕上がったでしょ」
 杉は日本でもっとも豊富な産出量を誇る材木である。故に上物の含有率も高く、選び抜く手間が少なく済む。
 そして、そのあたりのことは楓も知識として身につけていた。なにせ彼女の父はあけびの補佐役で、不知火にまつわる雑事を取り仕切る立場にあるのだ。次代を担うと自発的、いや、勝手に決めた彼女は日々、父の仕事を見て学び続けてきた。
「うん、本当にいい道場だよ。……僕も早く不知火の役に立てるようになれれば」
 楓は漏れ出しかけた苦笑を引き止め、己が内へ引き戻した。
 彼女が不知火の名を出し、無力を嘆く。それは自身の重要性をアピールする傲慢であり、さらには当主からなんらかの「お墨付き」をいただきたい狡猾。
 なにもできていないからこそ僕は、あけびさんに保証してほしいんだ。
 自らの浅ましさにひとり恥じ入る楓へ、あけびはあえて言った。
「当主としては、弁えてる子をそれ以上叱ったりしないよ。ただし! おばさんとしてはちょーっと、放っておけないかな?」
 言いながら楓へ近づき、少し背伸びして頭をなぜる。
「楓が焦る理由はわかってるけど、私が口出しすることじゃないから言わないし訊かない」
 おとなしくなぜられながら、楓は思い知る。
 相手があけびさんだからってこともあるだろうけど、隠していたはずのものをこうも簡単に見透かされる。結局のところ、僕はまるで一人前になれてないってことだ。
 大人になったつもりでいた。すべてを滞りなく行い、繋ぎ、支えているのだと思い込んでいた。なのにそれはただの思いちがいで。
 こんな僕じゃ、きみのそばにいられない。今のままじゃ、僕は――
 知らぬうちにうつむいた楓の顔を下からのぞき上げ、あけびは言葉を継いだ。
「楓も私に訊けないし、言えないよね」
 ふわりと離れ、間合を取ったあけびは羽織を脱ぎ、左手に引っかけて。
「そんなときこそ不知火の伝統に従おっか」
「伝統……?」
 不知火の歴史をすべて頭に叩き込んでいる楓をして、まるで思い当たらない。あけびは当主しか知らない秘伝のようなものを指して言っているのか?
 果たして正解は。
「刃に問おうか!」
 ようやく思い出した。これはあけびの夫であり、この道場の主が発したという名台詞。
 じくりと胸の端を灼いた痛みからあえて意識を逸らし、奥歯を噛み締めた楓に、あけびはさらなるひと言を突きつけた。
「で、刃に訊け!」
 これはあけびさんのオリジナル? オリジナリティがあるとは言えないけど。
 そんな思いとは裏腹、楓は尖った声音を返していた。
「尋常に挑ませてもらう」


 羽織を左手にぶら下げたまま、あけびはただ立ちながら低く鼻歌を紡ぐ。
 彼女と5メートルほどの距離を開けて対峙する楓は、刃鞘をつけたままのシャドウグレイブを上段に構え、石突の先をあけびの正中線へ据えて待ち受けていた。
 あけびの羽織はマジシャンの左手。楓の意識を向けさせ、その隙を突くためのしかけだ。気負わず、それでいて気を抜くな。忍術の“過程”に飲まれれば、結果として喉元へ刃を擦り付けられる。

 半眼を保って息を絞り、闘気を鎮める楓の様に、あけびは思わず口の端を上げた。
 武の才は相当だけど……血かな、まじめすぎるとこ。
「そんなに強ばってちゃ、刃も語るどころじゃないかな」
 袖の内へ引っ込めた右手が再び抜き出されれば、そこには魔符「ゾディアックサイン」が装着されていて。
「なんにせよ、私に刃を抜かせないと始まらないけどね」

 あけびの台詞が耳に障る。気持ちが悪い。言葉の内に差し込まれた鼻歌のリズムが噛み合っておらず、それをはっきり楓に意識させるよう、音量や音階が整えられているからだ。
 不知火の者なら全員が習う業(わざ)だが、ここまでの遣い手は前当主と眼前の当主ばかりである。
「立ってるだけじゃなんにも進まないよー? こういうときは格下からしかけてくるのが礼儀でしょ」
 言葉ひとつひとつのリズムまでもをずらし、あけびは楓を幻惑する。
 まずい、吐きそうだ。酷い船酔いさながらの吐き気に突き上げられ、楓は視線をうつむかせかけて……強く自らを押しとどめた。
 なにもできないまま降参する? いや、そもそもだ。どうして僕は当主と試合なんてしてるの? いや、それはわかってる。刃で問え、刃に訊け、そう言われたから。
 いや、そうじゃないな。僕は挑発されて、釣られたんだ。
 刃に問おうか。それはきみが、道場主から突きつけられたっていう言葉だから。
 僕は悔しかった。あのとき、きみと同じ場に立てなかったことが。僕じゃなく、あの子が選ばれたことが。だから、同じ言葉を突きつけられて、奮えるよりも痛がって。
 こんな僕が、あけびさんになにを訊いて、なにを返す?
 だって、刃に問いたいことと刃に訊くべきことはちがう。語りたいことと語るべきことも。
 ああ、僕はいつもそうだ。
 誰になにを言われるより先に、僕は立場を弁えてしまう。補佐役はそうしたものだと思ってきたし、なによりきみへ不都合を被せたくなくて。
 きみを道場主との立ち合いへ送り出した夜、僕は誓った。きみのとなりに誰が並んでも、気にしないふりをしてずっと背中を守るって。でもそれは僕が誓うべきことで、誓いたかったことなんかじゃない。弁えてしまっていたんだ、あんなときにすら。
 でももう、弁えてはいられない。気づいてしまったからね。新しい道場を、新たな縁の糸に導きで不知火へ受け入れられたあの子と重ねて、身勝手に傷ついてしまった僕は。
 ああ、そうさ。きみの後ろにいられたらいいなんて嘘だ。あの子と新しい縁を得たって喜ぶきみにうなずいてなんかやらない。
「いろいろ訊けてるみたいだけど、言わなくちゃ伝わらないよ?」
 あけびが投げた言葉に、楓は苦笑を返した。
「むしろ、言わずに伝えないのが僕の役目なのかなって、そう思ってたんだ。でも、僕はそんなにできた人間になりたくないんだって、実感したよ」
 上段構えを崩さぬまま、楓はあけびの“ずれ”の狭間へ爪先を滑り込ませた。
 基本の中段ではなく上段に構えた理由は、跳ばれることへの対策というばかりではない。下へ潜られることへの対策でもあった。その左手は石突近くを握り込んでおり、故に、至近距離には石突を、中遠距離には刃を振り込むことができる。
 手練れの忍相手に後の先を狙うリスクは計り知れないが、かまわない。これが楓の兵法だから。そして。
「僕がしたいことは、癇癪を起こして地団駄踏んで駄々もこねて泣きわめいて袖を引っぱることだ。僕ときみが縒ってきた縁の糸は、新しく結ばれただけの縁より価値がないのかって泣きわめいて」
 語る楓にあけびは首を傾げて問う。
「それ、うちの子にするの?」
「しないよ」
 あっさり応えた楓はもう半歩分踏み込んで。
「そんな僕を曝け出す甘えを、僕は絶対に赦さない」
 宙へ置かれた符を石突で突き割り、その反動を利して薙刀をスイング。後方へ回り込んだあけびの脛を狙う。
「それじゃ気づかないだけだと思うけど。鈍いだけじゃなくて、ずるいんだから」
 男ってのはねー。しみじみと言い添えたあけびにはきっと、語ってしまうだけの過去があるのだろう。
 僕にそんな過去はない。だって、ずるいのはいつだって僕だったんだから。みんなを騙して、きみを騙して、僕自身を騙して。
 ああ、そうだ。
 だから僕は。
「僕はもう僕を騙さない」
 きみに嘘も偽りもない僕を伝えられるように、僕は僕ともう少し素直に向き合ってみたいんだ。
 あけびの符が陣を成して楓の視界を塞ぐ。これは視界を塞ぐ壁であり、こちらの手を浪費させる誘いであり、羽織――その下に隠された左手を繰るための時間稼ぎ。
 だとすれば、僕が語るべき刃の有り様はひとつだ。それをもってあけびさんに問おう。
 果たして。

「そう来たかー」
 ぱちんと爆ぜて天秤を描き出す符の向こう側、あけびは左手を覆い隠していた羽織を下へ落とす。その左手に、こちらの世界での愛刀である桜花爛漫は握られていなかった。
「私が無手だって気づいてた?」
 ひらひらと空の手を振るあけびに楓は笑みを返し。
「読むのは途中でやめた。どちらでもよかったから」
 楓は大きく三歩分を下がり、完全に間合を外していた。
「あけびさんと本気で立ち合って、自分の丈を試すのも魅力的だったんだけどね」
「私の手に付き合わないのが楓の正解だった、でしょ?」
「一歩引いて見るのが僕の性だから。って、それしか負けない方法を思いつけなかっただけなんだけどね」
 あっさり見透かされた通り、現状で楓が思いつく最高の一手がこれだった。
 稽古とはいえ勝負となれば、楓があけびに勝つことは不可能。しかし負けないだけならば……あけびの手に一切付き合わず、距離を取って惑わされさえしなければ、不可能ではない。
 それに思うのだ。刃に問われる。刃に訊く。立ち合いの中でのみ成立するやりとりであろうが、言ってしまえばあけびに乗せられ、それをさせられていただけのこと。いや、立ち合いの中だからこそ言い合えたし、伝え合えたのだから、刃あってこその刃なき問いであり、語りだったと言えようが。
「刃に問うのが不知火の新しい伝統で、刃で語るのが当主の教えなら、僕はあえて従わずに生きようと思うんだ」
 他人からすれば唐突に過ぎる楓の言葉だったが、それでもあけびは次の言葉を待つ。
 実際、楓が自分の息子とそのとなりに現れた少女剣士のことで思い悩んでいることは察していた。それ以上に、自らの悩みとどう向き合うべきかを決められていないことも。故にあけびなりのやりかたで楓に心を据えさせてやろうとしてみたわけだが。
 自分であっさり見つけちゃった。ほんと、血筋だよね。
 楓の父親、すなわちあけびの補佐役を務める男の顔を思い浮かべつつ、あけびは楓へあらためて向きなおり。
「楓の生きかた、刃か背中で見せてもらうからね」
 そのまますらりと道場を後にする。
 必要なことは伝え終えた。ここからなにを悩むもどう動くも、楓次第。

 楓は息をつき、虚空へ目礼を送る。
 あけびは教えを突きつけるのではなく、時間をくれた。あけびの正解ではなく、楓の正解を出してみせろと。
「それができたら、そのときは」
 ――と、この後を語るには、楓が自分なりの正解を見せなければ。
「じゃあ、始めようか」
 真新しい道場のただ中、楓はシャドウグレイブを繰って型を演じる。
 鼻を突く杉香を断ち割り、確たる己を匂い立たせるように強く、強く、強く。


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2020年05月07日

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