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『夜の散歩』
満月・美華8686

 満月美華(8686)は、夜が好きだ。
 人のいない道、そよ風に揺れる葉、精霊たちのヒソヒソ話、眠る小鳥、満ち欠けする静かな月―ー夜は魔女である美華に馴染む。
 今日は季節外れの嵐が来た。夜の零時過ぎに小雨になり、先ほど止んだ。
 美華は時間をかけてベッドから起き上がると、窓越しに外を眺めた。
 嵐の過ぎた丑三つ時。雨の残り香がする夜道。絶好の散歩日和だ。

 三桁の体重では、普通の人のように、仰向けから起き上がることは困難だ。大きなお腹が邪魔して、陸に打ち上げられたトドのようになってしまうからだ。
 美華が起き上がるには、まず横向きになり、そろそろと足だけベッドから出す必要がある。それからベッドの手すりに掴まって、遠心力を使うことでようやくベッドに腰かけることが出来るのだった。
 美華は家の階段の上り下りでも息切れする。日によって階段を上れない日もある。だから散歩をするときは、美華は自分に魔術をかけている。
 そうして体重を軽くした美華は、レインブーツを履いて外に出た。
 
 街灯に青白く照らされたアスファルト。
 あちこちに水たまりがある。小さな水の精霊たちが嬉しそうに飛び跳ねていた。遠くから見ると音符が躍っているみたいだ。人けのない夜道では、車道すらも精霊たちのダンスフロアなのだろう。
 普通の人間の目には映らない光景。
 だが美華には見える。
 いつから見えるようになったのかは憶えていない。祖父から魔術を学び、気づいたらこれが美華の世界になっていた。
 ――水たまりの中、ゆらゆらと光が揺れる。
 パシャン!
 美華はレインブーツで水たまりに飛び込んだ。雨水が勢いよく跳ねる。囃すように精霊たちが口笛を吹いた。
(今の私って、まるで子供みたい)
 久しぶりの外出。そして季節外れの嵐の後。美華の心は弾んでいた。
 もう一度跳ねた。贅肉ばかりの体がブルンブルンと大きく揺れた。
 腹部だけが、揺れなかった。美華のお腹には、余っている肉がない。はちきれんばかりに膨れ上がっているからだ。
 美華はまるで金色の髪をした風船だ。

 川沿いのウォーキングコースを歩く。日中は賑わうこの道も、深夜には誰もいない。
 嵐のために川の水は増えていた。大きな音を立てて、流れていく。
 水は命の源だ。人間の体も殆どが水で出来ている。
 ゴウゴウと流れる川。水滴のひとつぶ、ひとつぶが光っている。
 水草の透き通った緑色も、淡い光を零していた。水草はおしゃべりだ。荒れる水の中でも、彼らは笑い合っている。
 鯉の子供たちは夜更かしして水草の話に聞き耳を立てている。おとなのオイカワたちは慣れっこなのだろう、よく眠っているようである。いびきが聞こえるからだ。
 ここにはたくさんの生命が溢れている。力強く、たくましく、彼らは生き続けている。
 
 ウォーキングコースから一本道を外れると、その先には森がある。
 正確には、かつて森だった場所。現在は死にかけた林がある。
 存命だった頃の祖父が言うには、昔は怖がられた森だったそうだ。実際に事件もあった。近所の小学校では、教師たちが何度も「あの森には絶対に行ってはいけない」と呼びかけていたらしい。
 開発が進んで、森は崩されていった。今や僅かな林があるきりだ。それでも昔からここに住んでいる人たちは、この場所を恐れている。
(もう、死ぬのに)
 美華には分かっていた。目で、耳で、においで、気配で。何より本能で。
 両親を亡くし、美華が祖父の家に身を寄せた頃、まだこの“森”は生きていた。
 ここにはいくつもの影が住んでいた。日中は小さく丸まっていたが、夕方には一塊の大きな影となって佇んでいた。
 影はいつも夜になると蕩けていた。
 祖父が生きている頃、魔術を覚えたばかりの美華は、夜に何度も蕩けた影を眺めていた。
 蕩ける瞬間にも立ち会ったことがある。コーヒーに入れたミルクみたいに、影はなめらかに夜と混ざっていくのだ。
 ―ーそれが今は。
 木の根元で、小さく、ひっそりと丸まっているひとつの影。もう夜に蕩ける力も残っていないのだろう。
 生きているのはこの一匹だけのようだ。
 ホロホロ。ホロホロ。
 ずぶ濡れになった影は、静かに死を待っているようである。

 美華は足早にその場を離れた。
(見なければ良かった)
(見るべきじゃなかった)
 見たくないのに、散歩のときはここに寄らずにはいられないのだ。
 生まれる命があれば、消えていく命もある。
 そんなことは美華も知っている。知り過ぎるほど知っている。死のことは。みんな死んでしまうことは。自分も死んでしまうことは。
 だが死への恐怖!
 恐怖はどうしたら消えてくれるのか?
 美華は知らなかった。
 知っているのは、死への恐怖を一時忘れさせる方法だけ。
 だからそれにすがるしかないのだ。どんなリスクを背負ってでも。
 
 ―ー死にかけた林が見えなくなった。
 美華は立ち止った。
 それからお腹をゆっくりと撫でた。今にも割れそうな風船。割れそうで、けれど割れない風船。膨らみ続ける風船。
 風船の中には、たくさんの生命が呼吸している。全て美華の命。美華だけの、死を遠ざける、たくさんの自分。
 お腹をさわる美華の手はプヨプヨで、とても大きい。顔を撫でれば垂れた二重あごに行きつく。特注のブラジャーも最近は苦しくなってきた。
 美しさからほど遠い体。魔術をかけなければ外出も叶わない。それでも美華はこの体を捨てることは出来ない。
 予備の命がなければ、死の恐怖に耐えられないから。生きてはいけないから。

 夜の公園では、ポピーの蕾が寝息を立てていた。花は美しい。そして短い命を持っている。
 美華は夜の散歩が好きだ。
 人のいない丑三つ時。
 時にはしゃぎ、時に怯えながら、美華はお腹を撫でて自分の命を確かめる。
 月夜に照らされて。今、確かに満月美華は生きている。
 



━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
 初めまして。ご発注ありがとうございます。
 神秘的な夜の散歩ということで、このような感じになりました。おまけノベルも含めて、楽しんでいただけたら幸いです。
東京怪談ノベル(シングル) -
佐野麻雪 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年05月25日

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