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『やがて雲は過ぎ去る』
野月 桔梗la0096


 街路樹の並ぶバス停のベンチで、野月 桔梗(la0096)は曇天を見上げてため息をついた。
 ジトジトと湿気た空気におそらく一雨くるだろうことを予感する。髪も肌も、服すらも水分を含んで重たくなったようで、物憂い。
 家を出てくる前に天気予報を見て、きちんと傘を持って出たのだが、手元の荷物に目を落とすとその傘をどこかに忘れてきてしまったことに気づく。
 いつもならこんなミスはしないはずなのに、とクールな表情を崩すことの少ない桔梗の顔に愁眉があらわれた。
 おそらく傘を忘れてきたであろう病院で告げられた「おめでとうございます」という一言を思い出して、桔梗は固く唇を引きむすんだ。

 数日前から体調に思うところのあった桔梗は医者に向かうことにしたのだった。
 いくつかの検査を終え診察室の椅子で医師の言葉を待っていた桔梗は半ば答え合わせのような、けれど自分の中では現実味のなかった言葉を伝えられて思わず顔を上げた。その頬は喜色に染まる。
 結婚を機会にSALFでの活動でも前線から退くようになった中での出来事だった。確かに、愛を育みつつ歩んできた夫との子どもができるというのは喜びであるし、いつかはそういうこともあるだろうと思っていたが予感していたよりずっと早くその時が訪れたようだった。おまけに、子どもは多胎児だという。はじめての妊娠で多胎児、それも7つ子を授かるとは思わなかった。
 診察室をでて会計を待つ間にゆっくりと広がっていく喜びと同じくらい自然に浮かび上がったのは不安だった。
 そうしてどこか現実感のないまま、病院からバス停へと向かう間に傘を忘れてしまったのだ。バスがくる時間まではまだ数分あった。

「子供、ですか……」

 子供というものは無条件で幸せという環境が与えられる。これが一般的な基準だ。
 とは言え、幸せは万人に与えられるわけではない。例にもれず、桔梗自身も戦争により幼い頃に親を亡くして生きてきた。親というものになるということに不安を覚えているのは確かで。
 決して覚悟していなかった訳ではない。むしろめでたいことであるということも理解している。だからこそ、言い知れぬ不安を感じている自身の心に戸惑っているのかもしれなかった。
 心の内と同じさまを示すかのように、曇天は雨粒を落としはじめた。

 妊娠を告げられてからの数ヶ月、優しく体調を気遣ってくれる夫や新たな生命を宿したことを祝ってくれる人たちに囲まれて日々を重ねていくうち、きっと時間が経てば不安も消えるだろうと無理やりに納得して過ごしていた。誰でも環境が変化すれば不安を覚えることは少なくないのだから。仕方ないだろう、と。
 桔梗の願いとは裏腹に、一度芽を出した不安は水をやらずともすくすくと育っていく。見ないふりをしようとすればするほど、胸の内に燻る不安はその存在を大きく示してくる。
 落ち着いた優しく包んでくれる幸せな時間を過ごせば過ごすほど、幼くして両親を亡くした時に味わった心細さが胸を締め付け、酷く苦しくなるのだ。

 いつかこの苦しさに完全に取り込まれる前に、なんとかケリをつけたい。そう考えた桔梗は数ヶ月ぶりに会社の地下通路を一人歩いていた。
 一般的な月齢の腹部よりも7つ子を宿した桔梗の腹はかなりの大きさではあるが、今のところ健康に子供たちを育んでいる。大きな腹部をてのひらで押さえるようにさすりながら桔梗が目指しているのは会社にある射撃訓練場だった。
 安定期に入るまではさすがに控えていたが、いわれもない焦燥感にかられてこの場所に来た。ここへ来たら、霧散する気配もなく居座っている不安の理由にも方が付くかもしれないと、そんな気もしていた。
 イヤープロテクターを装着して片手で銃を握る。もう片手は大きな腹部を押さえながら。人型を模した的に向けて片手で銃口を定める。
 一発、二発。
 さらに間髪入れずに五発を撃ち終えると、桔梗は銃を下ろした。点数の表示されるディスプレイを確認する。そこには現役の頃であれば絶対にとるはずもない点数が示されている。
 ほんの少し、されどその期間は桔梗の調子を狂わせるには十分だった。
 銃を置いた手を握りしめる。
 桔梗は、怖かったのだ。

「戦えなくなるなんて、そんなこと……絶対に」

 信じたくなかった。
 幸せを手にしている自分と、戦場に身を置いていた自分の剥離。絵に描いたような一般的な幸せという形を与えられながら、果たしてそれを享受していいものか。ただ独り、孤独だった自分が羨むように泣き叫ぶのだ。おいていかないでください、と泣きじゃくる小さな桔梗が確かにそこにはいる。
 うつむいた桔梗の黒髪が肩からさらりと落ち、大きく膨らんだお腹が視界に入る。握りしめていた拳をひらくと、なにか神聖なものを抱くようにゆっくりと両手をお腹にあてた。
 自分の身に宿ったこの子たちに、桔梗は愛おしいという思いを持っていた。まだ姿も見ぬその子たちを愛慈しみたい。無事に生まれた子どもたちの顔を見たい。
 母親という存在を知らない自分にはその役割を務めることなどできないと、自分自身を否定していた。自分が母親になろうとすることで、心の中で涙を流す幼い桔梗を無視しているような気がして母親になろうとする気持ちに蓋をしていたのだ。

 でもきっともう大丈夫、しっかりと愛は芽生えているのだから。

 幼い頃の自分を慰めるように、桔梗が欲しかったよりずっと多く温かな愛を注ごう。
 桔梗を愛してくれる夫のために。そして、生まれた時からすぐ傍で守り続けてきた「お嬢様」のためにも、不安に挫かれるような桔梗ではいたくない。臆せず受け入れて進みたい。

 桔梗は再び銃を手放して、射撃訓練場を後にした。
 建物の外へ出るとその眩しさに、思わず桔梗は目を細めて空を見上げる。空を閉ざしていた雲の裂け目から眩い陽がさして地面を明るく照らしている。
「桔梗になら、きっとできます」
 そっと口に出してみると、じわりじわり力がわいてくるようにすら感じる。
 歩き出した桔梗の表情に、もうかげりは見えなかった。


━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
この度は御発注頂き誠にありがとうございました。
野月 桔梗様というPC様は書いていてとても楽しく、書きごたえのある方でした。少しでも葛藤と戸惑いが、ご希望に沿う形に表現できていればと思います。
また、口調や解釈違いなど気に入らない点がございましたらリテイクよりお願い致します。
お楽しみ頂ければ幸いです。
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山上三月 クリエイターズルームへ
グロリアスドライヴ
2020年06月09日

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