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『Seed』
アルバ・フィオーレla0549


「あっ──」

 カシャン。乾いた音を立てて、陶器のマグカップが割れる。机の下へ飛び散った破片を見下ろして、アルバ・フィオーレ(la0549)はため息を吐いた。

「失敗してしまったのだわ……せっかくのお気に入りだったのに」

 グロリアスベースの一角に構えられた花屋、【一花一会〜fortuna〜】の奥。こぢんまりと整えたキッチンで午後のお茶を入れようとして、カップボードからマグカップを取ろうとしたのだが。目測を誤ったのか、普段はおよそ珍しい手元の狂いに襲われて、アルバはそれを弾き落としてしまったのだ。

(疲れているのかしら?)

 このところはそこまで根を詰めて仕事漬けになった記憶もないのだが。訝しみながら彼女はしゃがみ込み、粉々に砕けた欠片を集めようとする。先ずは慎重に大きな欠片を拾い集めてから、その後に見えない小さなものも含めて、箒で掃き集めようとして──。

(──?)

 何だろうか。そこはかとない違和感を指先に覚えて、アルバは破片へと伸ばした指を引っ込める。もう一度、伸ばす。指先に、釉薬で覆われた陶器の滑らかな感触が感じられる……はずなのだが。確かに触れているのだが、指にその触感が無い。試しに、破片の少し尖ったところを指の腹に軽く押し当ててみる。普通ならばチクリと軽い痛みが走るはずだが、想像に反して指には何も変わりがない。目で見る限りには陶器の切っ先が指の腹を凹ませているにも関わらず、だ。
 以前から痛みには鈍いところがあったが、触覚自体が全くないというのはこれまでになかった異常である。この所為で、思わずマグカップをつかみ損ねてしまったのだろう。

「……旅立つ準備を、という事かしら」

 思い当たる節が無いわけではない。この世界で、『アルバ』として生きることを決めたあの日から。少しずつ、かつての自分にあったもの──記憶が次々と抜け落ちていくことを感じていた。それがいつかは記憶だけではなく、その他のものすらも失わせるだろうことも、頭のどこかで分かっていた。

 だから、恐れは無い。

 むしろそれこそが人として、此処に咲く一輪の花として自分自身が在る証であるならば──失われていく過去の記憶と引き換えに降り積もる日々の思い出と共に喜ばしいものですらある。アルバはそう考えていた。

 ただ、来るべき時が来たのだと……その事だけを識る。

「未来のために、何が出来るのかしら?」

 慎重に、怪我をせぬよう。改めてマグカップの破片を拾い集めながらアルバは思案を巡らせる。新しいマグカップも探しに行かなければ。時は止まらず、未来は続いていく。

(そろそろ、誕生日なのね──)

 幾度めの誕生日だろうか。永い月日を生きる魔女であるアルバは、其れを数えなくなって久しい。ただ、日々の繰り返しの節目として頭の片隅に留め置くだけの記念日だったが、今年は特別なものになりそうだった。いや、してみせる。私が生きた、その証をこれからの記念日には残していこう。花びらの一枚一枚が、積み重なっていつかの明日へと連なる道となるように。


「ふうっ……あっという間に過ぎるものなのだわ」

 作業に没頭するうちに、初夏の日々はあっという間に過ぎた。店先に並べるために育てていた芍薬の中から、色味が良いものを選び掛け合わせる。経過を忘れてしまわぬようにそれぞれの花の写真を取り、記録を付ける。合わせて、花弁の形を整えるために牡丹やその他の類縁種との掛け合わせも検討して……。育て、咲かせるのは手慣れたものとはいえど、品種改良はアルバにとっても初めての経験。それに、今年実った種が花開くのは、来年のこと。

(やるべきことはやったけど、まだまだ私は枯れるわけにはいかない)

 誕生日を翌日に控えた今日も、交配記録の作成に明け暮れる内に日は落ちた。相変わらずに手指の感覚は覚束無い。そのことが疲労感をこれまで以上に感じさせていたが、アルバはそれすらも心地よく感じていた。

「こうして目標があるのは良い事なのだわ!」

 記録に、日記を兼ねて備忘録を添えておく。このところは記憶の脱落も激しくなっている。ここ数日、数カ月の記憶が抜け落ちることは無い。それだから、毎日の生活において困ることはほとんどないとは言ってよい。だが、グロリアスベースへ来る前のことはどうだったか。来た当初の生活──特に、【一花一会〜fortuna〜】を開店した直後の様子や思い出をどう頑張っても思い出すことが出来ない。そのことが、少しの寂しさを苦く、滓のようにアルバの心を澱ませていた。

(昔のことはいずれ忘れてしまうにしても)

 私がここで、アルバ・フィオーレとして生きた証は必ず残していく。最後に今日の日付を書き入れて、アルバはペンを置いた。気が付けば時計は頂点を迎えようとしている。もう、寝なければ。身支度を整えて床へ着くと、程よい疲れも相まって眠気がすぐに襲ってきた。ライトを落とし、眼を閉じる。窓の外では猫だろうか、くぐもった獣の声と物音が聞こえてくる。温室の戸締りは──どうだったろう? 確か、作業を終えて鍵を掛けた。うん、間違いない。
 そこまで思い返すと安心したように、アルバの呼吸がゆっくりと、間隔が間を置いたものへと変わっていく。カーテンの隙間から、月の明かりが穏やかにアルバを照らしていった。

 ほのかな黄金に映し出されるアルバの髪が、その末端から宵闇を吸い上げるように黒く染まっていく。曙、あかつきの明るさが徐々に夕暮れ、しじまの夜へと溶け込むようにゆっくりと、ゆっくりと。既にアルバは寝入ってしまったのだろうか。呼吸に合わせて胸が穏やかに上下している。それがまるで夜の黒を吸い上げるポンプのように、音もなく彼女の髪は濡烏の光沢へと染め上げられていった。


 朝の鳥が鳴いている。夜の間の出来事は誰も見る者が無い幕間の泡沫。目覚めたアルバの髪は朝日にまばゆく輝いている。その瞳の色と同じように、朝の太陽のようにきらきらと輝くピンクゴールドの髪はアルバの密かな自慢であった。寝ている間に少し乱れたそれを、軽くまとめてベッドから立ち上がる。

 いや、立ち上がろうとして、よろけてしまった。

(ああ──ついに)

 兆しを感じたときから、前へ進むことを止めずに来た。それであるならば、兆しが、永き時を生きる魔女としての衰えも同じように留まらないのは覚悟の上であった。手指の感覚だけではなく、足の裏に──いや、全身で感じるべき触覚が枯れていくのをアルバは理解した。立ち上がる脚を押し返す床の感触も、全身を覆う寝間着の柔らかな繊維も、肩口に掛かる自慢の髪のこそばゆさも……彼女には感じられない。
 だが、アルバの心は不思議と凪いでいた。全てを在るべきこととして受け入れ、前向きに今日すべきことを考えていく。

 だが──どうして、私は魔法を掛けたいと、思っていたのだろう? 花屋を開くと決めたあの日、私は何を考えていた……?

 大切な何か。忘れてはいけないものが零れ落ちそうになって手を伸ばす。感触の鈍くなった指先に、僅かな金属の冷たさがキリリと刺さる。何時も肌身離さず身に着けていた、ブローチがそこにはあった。落とさぬように、無くしてしまわぬように……そっとアルバはブローチを握り、手の内で暖める。

「大丈夫。私は最後まで……愛して生きていくのだわ」

 大丈夫。そう、世界に魔法を掛ける。その時までは。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
こんにちは、かもめです。この度はご発注どうもありがとうございました。
いつまでも慈しみと気高さがアルバさんと共に在りますように。
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グロリアスドライヴ
2020年06月11日

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