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『求める甘さは変わりなく』
霜月 愁la0034

 いつも利用しているスーパーの特売日とオフが重なっているおかげで、売り場をのんびりと眺める時間を取れていた。
(……小麦粉も安かったんだ)
 チラシの情報は確認していたのだが、それは一日限定の情報のみ。月単位でお得な商品は月初めのチラシに載るきりで、タイミングを外すと忘れてしまう、なんてこともよくある。
 必要な物は霜月 愁(la0034)の頭に入っていて、大半は買い物カゴに移動している。
 ただほんの少し寄り道気分で予定外の棚を眺めていた結果見つけたそれに首を傾げて……愁は小麦粉を二袋、カゴに入れた。
 すぐに踵を返し一度通ったはずの売り場へと戻る。たった今、買うものが増えたのだ。
 今日は友人との約束もしていない、完全なるオフの日。だから急ぐ予定はなかったのだけれど……小麦粉との出会いで、今日の予定が決まった。
 だからそれまでののんびりとした足取りが、少しだけ早くなる。仕事帰りの買い物と同じくらいの速度で、愁はもう一度売り場を一回りすることになるのだった。

 薄力粉と強力粉を混ぜていく。始めのうちはそう難しいこともない。
 慣れた硬さになるように水の量を調節することも今なら難なくこなせるようになっている。
 部屋の温度や湿度による差もある程度見込んで、それが当たり前になっている。
 そのことに愁が疑問を浮かべることはなくて、動きには全く迷いがなかった。

 お菓子を作ろう、と思ったのはそう大きな切欠によるものではなかった。
 今でこそ趣味になっているけれど、親に作る趣味があったとか、手を出しやすい環境だったとか、そんなありきたりな理由でもなかった。
 必要に迫られて一通り家事をこなせるようになったのだって簡単ではなくて。ただ慣れてきて、一人で生きることを当たり前にして。
 ただ普通に生きるという体裁を当たり前に繕えるようになって、その事実に愁の見えないものが前程擦り減らないようになってきた頃合い。ただふっと沸いた気紛れで、それ以外へと視線が向いただけなのだろう。
 あの瞬間までは当たり前だと思っていたものを自分で賄うようになって。その水準を維持するために躍起になって。
 レシピが目に入った切欠も覚えていないけれど。
(僕にも、作れるかも?)
 それは確かに、愁の心に余裕が生まれた瞬間だった。

 休ませる合間に薬味と野菜を刻んで、合挽肉と一緒に炒め合わせる。こちらの量は適当だ。
 予定外の買い物としてカゴに増えたのは他にもあるけれど、時間を思えば昼食の仕込みも兼ねたものから手を出すべきだ。
 油と一緒に香りをたたせて、柔らかく甘みが出るようにじっくりと火を通して、脂の旨味に馴染ませて混ぜ合わせていく。
 基本の塩胡椒を終えてから、一部を別の鍋に分ける。ケチャップベースの味付けの方は、後でスパゲッティと絡める為の分。

 菓子作りは、食事作りとは趣が違った。
 それまではある程度許されていた目分の世界が急に数字に管理されるようになった。
 示された通りにするほど、間違いのない結果として返ってくる。
 もともと甘いものは嫌いではなくて、むしろ好む方で。
 それまでは、お菓子の類は買って楽しむものだと思っていた愁にとって、何か新しい扉を開いたようなものだった。
 もっと早く手を出していればよかった、とちらりと過る思考は、けれどそれ以上深く掘り下げられることはない。
 菓子はご褒美の象徴だったのだろう。ご褒美には、与える者が居なくてはならない。
 団欒の時間の記憶と向き合うことができる程度に愁の心が落ち着くまでは、必要な時間でもあったのだ。

 形を整えたバターを中心に包んで。均等に伸ばして。三つに重ねてたたんで。
 幾度か繰り返せばまた、休ませるタイミングがやってくる。
 キリの良いタイミングになる度に打ち粉の具合を見て、具となる予定の食材へと視線を向ける。
 あと幾度繰り返すか、どこで昼食をとるか。生地として仕込み始めた量は少なくはないから。

 家事を熟せるようになって、一人で生きて行ける自信が生まれて。
 それまではただ生き続けることが目標で、当たり前になったからこその迷いもあって。
 振り返るほどに意識が下を向きそうになる。
 けれどそれは望まれていないし避けるべきだと理解している。
 今、自分の意思として定めたのは己の内に見出すことになった才能の欠片と、それを軸にした戦う理由。
 同じような存在を増やしたくないだとか。
 原因と同じ存在を減らしたいであるとか。
 それらしい理由を重ねて、心の安寧を求めて、けれど愁の精神的な問題において、絶対の終着点はないのかもしれないと知りながら。

 同量の砂糖と共に重ねておいただけの果物が随分と水を吐き出している。鍋のままで待たせていたものから順に火にかける。
 何せ煮詰めて欲しいと待つ果物は数種類にわたってしまったのだ。青果コーナーで種類を絞り切れなかったゆえに、その結果がこれである。
 ジャムにすれば日持ちするから、と自分に甘い理由をつけてしまった。
 いくつかはそのまま食べる分として切り分けてあるけれど……そのタイミングも、明日以降は難しいと思えばこそ。結局は加工を今日のうちに終わらせなければならないのだ。

 穏やかであろうとするのは、愁の本来の性質によるもの。
 生まれもって受け継がれたものであり、幼い頃から育まれたものであり、本能で失いたくないと思っている部分。
 同時に、あの瞬間までの全てを忘れたくないと願っているから、愁の外側は頑なに変化を嫌っている。
 戦い続けることは更なる強さを得るための行為で、それはあたりめに変化を伴っているけれど。
 それらが愁自身の、人の目から見える部分に反映することを拒絶している。
 形のない変化にはなるべく柔軟に在るようにしているけれど。
 愁自身の根底に関わるような、本質にかかわるような変化は避けるようにしている。
 勿論、その在り方を受け入れてもらえるなら。穏やかな時間を得られるなら。むしろ歓迎しているのだけれど。

 今日焼く分は取り分けて、残りの生地は更に折りたたむ。小さい程保存スペースに余裕が生まれるし、何より層が増えるのも利点だ。
 仕込む量は多い方が作りやすいという理由もあった。
 冷凍で保存ができるし、一度作っておけば具を変えるだけで何通りも楽しめるのだからやらないわけがなかった。
 ティータイムと考えれば、ジャムを少しずつ使う、なんて作り手の特権である贅沢が出来そうだ。

 作業の繰り返しは、慣れれば無心になることができる。
 手順通りに進めた結果美味しい楽しみが待っているから、やり甲斐もひとしお。
 使い終わった道具類を片付けながら、時折オーブンの様子を見るのも楽しみの一つだ。
 タイミングを見て湯を沸かそう。時間はたっぷりあるのだから、のんびり楽しめる茶葉を選ぶのもいいと思う。
 食べるのを楽しみにしていたからか、昼食の量はいつもより控えめにしている。なにせ作りたてのジャムを閉じ込めて焼いた折りパイの、焼きたてを存分に楽しめるのだから。
(……余ったらどうしようかな)
 実際には愁の腹具合よりも多く仕上がる予定だった。冷めても美味しいレシピだし、翌朝に軽く温めて食べてもいいのだけれど……
 翌日の仕事の予定と、同行者の顔を一人ひとり思い浮かべる。そこに友人も含まれていることを思い出したところで、愁は微かに笑みを浮かべた。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・

【霜月 愁/男/16歳/神腕術士/忘れぬように、褪せぬように、保つために】
おまかせノベル -
石田まきば クリエイターズルームへ
グロリアスドライヴ
2020年06月16日

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