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『―― 墨染の花挿頭 ――』
氷雨 柊ka6302

 遍く宇宙如何なる星に生まれども いつの日にか躯は滅び 魂は流転の旅に出る
 永劫の刻を巡りつつ 因果律によりてまた生まれ 業を負いてはまた旅立つ

 氷雨 柊(ka6302)
 紅き世に在ってはこの名であった魂が、『木霊』なる妖魅として化生した時分の一幕を記す


 ◇


 街道沿いの丘の上に、真白な花を咲かす古桜がありました。普段は静かな丘ですが、春には大勢の人が桜を愛でにやって来ます。
 その古桜には、可愛らしい娘姿の木霊が宿っていました。根と地面の間の穴には、二つ尾の猫股も棲みついています。
 陽が傾き花見客が帰ると、木霊の彼女はそわそわし始めました。

「来ますかねぇ?」

 猫股は素知らぬ顔で穴に潜って行ってしまいます。

「つれないですねぇ。……あっ」

 丘を登ってやって来るのは、丘下の里の青年です。彼が桜を見上げると、夜空色の瞳に真白な花が映り込みました。

「……今年も、綺麗に咲いたな」
「ふふ、ありがとうございますー」

 にこにこと返事をしますが、彼女の声も姿も、人間の彼には感じ取ることができせん。それでも彼女は、彼と過ごすひとときを気に入っていました。
 彼がここへ通うようになって、もう十年になるでしょうか。
 彼は都から里へ赴任してきたお役人の子で、来た時はまだ幼い少年でした。賑やかなのが苦手なのか、田舎に馴染めないのか。恐らく両方でしょう。独りやってきては木陰で書を読んだり、古桜へぽつぽつ語りかけたりして過ごすのです。
 最初は気がかりで見守るばかりでしたが、通年訪ねてきてくれる人など初めてで嬉しく、いつしか彼が来るのを心待ちにするようになりました。
 けれど今日の彼はどこか様子が違います。口を開きかけて止め、何かを言いかけまた止めて。

「どうしましたー?」

 聞こえぬと知りつつ尋ねると――偶然でしょうが、顔を上げた彼が真っ直ぐに彼女の方へ向き直りました。どきまきしていると、ようやく彼が口を開きます。

「科挙を受けるため、都に上ることになった」

 科挙とは、お役人になるためのとても難しい試験です。沢山勉強しなければなりませんし、この田舎では充分に学べないだろうことは、木霊にも察せられました。

「……そうですかぁ。寂しくなりますねぇ」

 呟くと、彼は答えるように言いました。

「来年の春もここに来る。……だからまた、」

 終いまで言わず口を噤むと、彼は踵を返し丘を下り始めます。木から離れられない彼女は、その背へ向け精一杯叫びました。

「待ってますよぅ! 今年より綺麗な花を咲かせて待っていますからねー! 試験、頑張ってくださーい!」

 大声に驚いた猫股が何事かと飛び出て来ましたが、喉の奥が酸っぱくて、彼女は微笑んで見せるのが精一杯でした。


 季節は巡り、また春が来ました。
 数百年生きてきた彼女ですが、誰かを待ち詫びる時間はこんなに長く感じるのだと初めて知りました。
 はりきって沢山の花弁で装うと、すぐに大勢の花見客がやって来ました。人混みの中に彼の姿を探します。

「んん〜。猫股さん、少し辺りを見きてもらえませんかぁ?」

 猫股の手も借りて探しましたが、その日は会えず終いでした。

「大丈夫ですよぅ、まだ咲いたばかりですから〜」

 けれど次の日も、彼は現れませんでした。
 次の日も、また次の日も。
 温まる風に花弁がはらはら零れだし、とうとう彼に見せられぬまま、最後のひとひらが枝を離れて落ちました。
 猫股は気遣わしげに彼女へ鼻先を擦り寄せます。

「……ふふ、慰めてくれるんですか〜? 忙しかったんですよぅ、きっと。次の春には帰って来ますともー。来年はもっと綺麗な花でお迎えしますよぅ!」

 けれど次の春も、彼は戻りませんでした。
 次の春も、また次の春も。

(何かあったのかしらー……?)

 時折、街道を行く旅人の会話から、都の様子が漏れ聞こえます。
 疫病、大火、内乱。そんな言葉を耳にする度、胸が張り裂けそうになりました。
 それでも待って、待ち続け――その想いはやがて、彼が息災で居てくれさえすればという切実な祈りへ変わっていきました。

 そうして、数十度目の雪解けを迎えました。
 けれど彼女の枝に蕾はほとんどありません。木霊とは違い、本体の木はゆっくりとですが確実に歳を重ねます。立ち枯れの時がそう遠くないことを悟ると、彼女は辛うじて固い蕾をつけた枝を手折り、猫股を呼びました。

「猫股さん、これは私の最後の蕾です。これを持って、都に上っては頂けませんか?
 私はこれから永い眠りにつきます。私の一部であるこのひと枝を、どうか彼のいる都に連れて行って欲しいんです」

 猫股は驚いたように彼女を見上げていましたが、やがて枝を咥え、丘を下って行きました。
 出立を見届けた途端、強い目眩が彼女を襲います。幹に凭れた彼女の身体は、淡雪のように幹に溶けて消えました。
 深い深い眠りについた桜は、もう花を咲かすことはできません。
 夏になっても葉は茂らず、木陰で旅人を癒すこともありません。
 人々はとても残念がりましたが、直に口に上ることもなくなり、丘の上の古桜は次第に忘れ去られていきました。


 ◇


 ニャア……

 どれだけの歳月が経ったでしょう。
 彼女の耳に懐かしい声が届きました。花をつけなくなって久しく、彼女の周りはずっと静かでしたから、寝ぼけたまま首を傾げます。

(暖かい……今は春かしらー? この声、猫股さん? よくぞご無事でお戻りにー……と言うか私、まだ枯れきっていなかったんですねぇ)

 目覚めると、根本に座る猫股と目が合いました。変わらぬ顔にホッとしたのも束の間、彼女は息を飲みました。
 片尾を隠し、猫のふりをした猫股の傍らにいるのは、なんと夜空色の瞳の彼だったのです。けれど初めて会った時と同じ、幼い少年に戻っているではありませんか。

(まさか、そんな)

 戸惑っていると、

「父さん、桜咲いてないよ」

 少年が呼ぶ先を見てまた驚きました。父さんと呼ばれた鳶色の目の壮年男性は、都へ発つ直前の彼の面影を色濃く残しているのです。

「父さんの話だと、随分古い木のようだからなぁ」
「寿命なの? お祖父ちゃんみたいに」

 ようやく彼女にも事情が飲み込めました。この二人は、彼の息子と孫なのです。

「そんな所かな。ずっとこの桜を恋しがっていたのに来られず終いだったから、せめて花を墓前にと思ったんだが」
「何で来なかったの?」
「お前の祖父さんは官僚様だったんだぞ? 都から離れられないお立場だったのさ」

 話を聞き、彼女は枝という枝を打ち震わせました。

(彼は、きちんと成し遂げたんですね。覚えていてくれたんですね。立派なお役人様になって、素敵な家族を作って、天寿を全うして……嗚呼――!)

 すると親子の目の前で不思議なことが起こりました。
 枝々にたちまち無数の蕾が膨らみ、一斉に花開いたのです。それは淡雪めく白ではなく、うっすら墨色を帯びていました。
 薄墨は死者を悼む色です。
 あまりのことに声を失う親子の足許へ、ぽとりと枝が落ちてきました。少年が拾い上げた刹那、頭上の花々はいちどきに枝を離れ、春風によって空へ攫われて行きました。
 満開の墨染桜は幻のように消え、残りの命を花と燃やした彼女も生を終えました。
 けれど彼女は幸福だったに違いありません。
 彼女の最期の花は彼の墓前へ手向けられ、彼女自身は墨染の花を挿頭にし、彼の後を追って空へ昇って行けたのですから。
 


━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
【登場人物】
氷雨 柊(ka6302)/薄墨染の桜木精

【木霊】
こだま。樹木に宿る精霊、または精霊が宿った樹木を指す。
前者は年経た古木を好み宿るという。
樹木に神霊や妖魅が宿るという考えは世界中に広く存在する。
【猫股】
長生きし、尾が二つに分かれた猫。
おまかせノベル -
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ファナティックブラッド
2020年06月25日

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