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『新月の夜よりなお暗い』
黒帳 子夜la3066

宵にまつらう魑魅魍魎よ
知らば知るほど深くなる





時は大正というのにまだ夜は暗い。いや、より暗くなったと言うべきか。
並ぶガス灯に照らされて、くっきりと足下に落ちる影の黒色は深かった。闇が濃くなったようにさえ見えて、だから少女は身震いを一つ、足早に石畳を駆けていく。
からんころんと下駄の音が、固い石畳を踏むたびに妙に響くのが心細い。足を止めると、そこでふいに気配を感じ、少女は恐る恐る振り返った。
「だれかいるの?」
振り返らなければ良かったのだ。何も知らぬは怖いことだが、その上で勘だけ働くのはより一層性質が悪いのだから。
灯が照らす石畳のその向こうは、深い深い闇で最早何も見えなかった。少女が目を見開いた時、ずるずると黒い腕が、腕が、数多の腕のような何かが、這うように彼女の足を掴んだ。

「――ぁ」
逃げだそうとした少女は、足首を掴まれたまま尻餅をつく。怯えて声が出ないところで、切り取られたかのように暗い闇から別の誰かがやってくるのを見た。
「おやおや。いけませんよ、この辺りは少々物騒ですので」
書生姿の痩身は、男のようにも女のようにも見えた。優しそうな声を聞いてもどちらの性か答えは出ない。ただ一つ言うならば、たまに街で見かけるようになった軍人さんの何人かのように、腕っ節が強いわけでは無さそうだと言うことか。
「文明開化からこれより、夜は明るい。闇に追いやられた彼らも気が立っておられるのでしょう」
淡々と話す口振りはどこか優しげで、少女は不思議と動機が落ち着いてくる。だから次に、勇気を振り絞って声に出した。
「に、げ、てくだ、さ」
「嗚呼、優しい方で御座いますねぇ。でも大丈夫。大丈夫ですとも。私は全て『知って』おりますよ」
表情を伺おうと少女が見上げれば、髪に隠れてよくよく見ることも叶わない。特に暗い左目は、まったく視認できなかった。ただ彼か、もしくは彼女がそっと手を伸ばすと、強い力で足首を掴んでいた影が、するりと解けるように退いたのだ。
「さあ、今のうちに。どうか振り返らないでくださいね。そう、一目散に逃げてくださいませ」
少女はふらりと足をもつれさせ、言われるままに走ろうとする。悪夢の中のようにどろりと足が重い。息苦しい。走る、走れと言い聞かせて、その場を離れようとする。

ばきり

耳の奥。妙な音が響いた。それはまるで骨の砕けるような、そして肉を咀嚼するような不快な音。さて、どちらが喰われたのか――少女はすんでのところで自身が背後を振り返るのを制止した。逃げなければ。この人は確かにそう言った。
くちゃくちゃとすり潰す粘着質な音に、ぼとぼとと何かがぶち撒けられる音。少女はそれらから逃げるように、ひたすらに走り。
「ああ、本当に。食欲も失せちまうんだよな」
こぼれるような呟きに重なる、誰のものかわからぬ舌打ちの音を聞いた。そんな気がしたが、その全てもまた路頭の闇へと消え往くのだ。





「――さて、なぁんてことはいつの話だったでしょうね……」
手帳の上、曖昧な記憶を手繰るように。黒帳 子夜(la3066)はカリカリと万年筆を走らせて、かつての風景へと思いを馳せた。ガス灯が照らし、ありとあらゆるが急速に発展して、けれどもそれから取り残された妖が、まだ息を潜めるよりは前の話だ。
こうして書き物をすると落ち着くのも、あの賑々しい時代に全てを知ろうとした名残なのかもしれないし、ただ知りたいと己が欲するだけなのかもしれないし。
(あの頃よりも知ることの多い時代を、こうして生きることになるとも思いませんて)
ふう、と一つため息をこぼす。そこで、うぞりと左目が動いたような気がして眉を顰めた。錯覚だ。そこに入るのはただの石で、自力で動くことなど無いのだから。
それでも妙な懐かしさと、自身の体内に『自分ではないもの』を留めていた一抹の不快感を思いだし、子夜は静かに手帳を閉じる。
お茶にしましょう――そう、誰にともなく呟いて。気分転換のために外へ出ようかと視線をあげれば、窓の向こうはしとしとと霧雨が降っていた。





すでに世界を二度越えたのは、もしかしなくても希有なことだろうと子夜は思う。
番傘をさせば、雨粒は滑り落ちるように足下の水たまりへと落ちていく。歩く町並みは実に整然としており、子夜が生まれた場所のものとは幾分と違うものだ。

そこで、ふと目を留める。公園にひっそりと植えられた紫陽花の垣だった。
花というのは案外どこの世界でも変わらないものだ。その種類こそ違ったり、随分多かったりするが、美しさは等しいと思う。それを愛でる人の心もまた、然り。目を細めてそれを見ていたら、その少し下。子夜の足下で黒いものが動いた。
「――おや」
思わず声をこぼすと、応えるようにニャアと鳴く。如何も真っ黒な猫のようだ。
「雨宿りですか? 良い場所を見つけられたようで」
小さく笑うとその場にしゃがみ、視線を落とすと。紫陽花の陰は存外居場所として適切なようで、ふわふわとした毛並みはあまり濡れていないようだ。
思わず手を伸ばそうとして、やめた。身体接触を好まない性格だから、というわけでもなく、特に助けを求めているようにも見えなかった。
「そうですね。此処は随分と安全だ」
平和とは言い切れないけれど、それでも。

此処は随分、明るい世界だと思う。夜を照らし自分たちのものにしようとした、かつて知る世界よりさらに明るく、様々なことが解明した世界だ。それでも空の先は宇宙で、そのさらに向こう――手の届かない影ともいえよう――から、未知のものが人類を喰わんとしているのはきっと変わらない。どれだけ照らしても、影はどこかしらにできるのだと感心さえする。そんな思考を、もう一度鳴いた猫の声で中断する。
「ええ、それでは。ああこの先、茶屋があるんですけどね。親切な店主の方ですので、お腹が空いたら覗いてみると良いかもしれません」
猫は応えるように、さらに鳴いた。案外言葉を理解しているのかもしれないと思うと、笑みがこぼれた。

宇宙の先の闇まで照らすことができた時、今度はどこに影ができるのだろうか。途方もなく広い広い世界の話だ。想像し、目が眩むからこそ、ささやかな一会を嬉しく感じることを子夜は知っている。
その世界も子夜を必要とするのだろうか。そうでなくても、知りたいとは思ってしまう気がする。そう、私は臆病者だから。

茶屋で一息、茶の香りを楽しめば愛しい血縁者の顔を思い出した。そういえばあの猫の利口そうなところ、少し似ていたのではないか、なんて。新月の夜よりなお暗い世界にて出会えた縁なのだ。これだからいつだって、知ることへの興味は尽きないでいる。




━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
【黒帳 子夜(la3066) / ? / 放浪者 / 世界を渡り、影を識る者】


初めまして、夏八木です。この度はご依頼、ありがとうございました!
とても素敵な背景をお持ちで、『左目』にどうしても触れてみたく、
今回はこういった形で書かせて頂きました。とても楽しかったです。
不安な部分も多いですが、何かありましたらお気軽に連絡くださいませ。
子夜さんの世界を渡る旅が、その終着が良いものであります様に。
書かせてくださってありがとうございました!
おまかせノベル -
夏八木ヒロ クリエイターズルームへ
グロリアスドライヴ
2020年07月01日

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