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『灯籠アパートの1003号室の玉兎』
不知火 楓la2790


 かちこち。
 かちこち。



 微睡みの奥。

 耳慣れた声が規則正しく歌っている。
 まるで、揺蕩う意識の隅をむいむいと小突いて整理づけるかのような……。

 ――いや。母様のことだからそんなまどろっこいことはせず、仁王立ちで活でも入れてきそうだな。
 そんなことを意識の水面に浮かべながら、何時かの“日常”の淵に沈みかけた時――

「いい加減起きたらどうだい? 寝坊助さん」



 ぱちん。



 冴え渡った無機質な音が、僕を“狭間”へと引き上げた。

「もうとっくに朝だよ。あれ? 夜だったかな?」

 中性的で穏やかな声音が、半紙に染み込む水のように僕の耳へ溶けていく。

「まあ、どちらでもいいか。君の世界が変わるわけでもないのだし」

 呼気に潜んだ彼女の愉悦に、僕の唇が、ちり、と、疼いた。
 熟れた杏のような唇は“見覚えのある”色で濡れていたんだ。心寄す“ ”の色――。
彼女の右手には、母様から譲り受けた僕の懐中時計が据えられている。身形は父様と同じYシャツと狩衣。けれど、胸元が豊かすぎるのは、つまり……そういうこと。首に目を奪われたのは、何時もお供に巻いている深い青紅葉色の襟巻きがなかったからだ。……全く、小憎らしいほど細い首だよ。そして何より、結い上げた夜更けに色を添える秋の葉――楓の簪が僕の心を揺さぶった。

「これで着物を貰ったら完璧だね?」

 露骨な欲さ加減に僕は何故か悪心よりも胸が詰まるような動悸を覚えた。
 ……冗談だろう?
 僕の琴線が弾かれたとでもいうのだろうか。……そんはずはない。ないんだ。

「――なら、君は一生“僕”でいるといい」

 まるで、僕の心を見透かしたかのような言の葉が耳を衝いてくる。

「“ ”は、前を向いて歩くよ」

 僕は歩いていないとでも言うのかい?
 僕は僕なりに償いたいと思っているよ。負い目では無く、守りたい存在だから。大切な存在だから。だから僕は――



「なら、」



 “僕”は、



「どうして?」



**



 かちこち。
 かちこち。



「……おとけいさん?」

 そう呟いたのは、里隣の子供がその歌で手遊びをしていたのを無意識に思い出したからだろう。

「僕……」

 そう、僕――。不知火 楓(la2790)は、見慣れた天井を数秒見据えることで靄がかった双眸の奥を鮮明にしていく。

「葭始生……父様の花だ」

 浅紫の藤棚が僕の瞳に波を打つ。
 そう言えば、天井の機嫌……この前母様が遊びに来た時からずっと変えていないけど、そろそろ元に戻してもいいかな?

「楓蔦黄の紅葉に、爪紅の……、……――」

 僕は言葉の代わりに温い吐息を漏らすと、敷き布団から身体を起こし、狩衣の乱れを直しながら寝室を出る。

「(ええと、確か……あの子とパフェ巡りをして別れた後、夜まで時間があるから昼寝をしに一旦戻ったんだっけ)」

 ……あ。

 居間の丸窓から夕刻の色が差していた。

「いけない、寝過ぎたかな。そろそろ出ないと。店じまいしていて買えませんでしたなんてことになったら大変だ。特に、母様をフォローする父様が」

 僕は千年杉の机に置いていた墨流しの長財布を袂へ滑らせると、自室の鍵を閉め、“地上”の仮住まいである灯籠アパートを後にした。




 西の刻を染める夕陽が、朱華や琥珀、躑躅へと表情を変えていく。その色を湛える天空に、ぽっかりと浮かぶ双つの満月は、赤と青――。交わることの無い円の前者が僕の実家だ。不知火一族が住まう土地……いや、月地と言った方がいいのかな? まあ、そんなわけだから此方の世界でも“彼”は幼馴染みなんだよね。
 今夜は月に一度、赤い満月への階段が架かる日。つまり、僕が実家に帰省出来る日というわけで、毎度注文の多い人達の為に、手土産を買い揃えに行かないとね。

「先ずはたい焼きかな」

 僕は善哉小路に入ると、目当ての店まで直行した。店頭では相変わらず香り高いたい焼き達が巨大な空の水槽の中を悠々と泳いでいる。

「やあ、今日も君達は可愛いね」

 知っているかい? たい焼きは皆、個性のある顔つきをしているんだよ。来る度に和ませてもらっているんだ。……まあ、最終的には美味しくいただくんだけど。
 僕はすっかり馴染みとなった店員さんにいつもの量を箱詰めしてもらった。活きの良いたい焼き達が箱の中でぴちぴちと踊っている。元気なのは良いことなんだけど、持ち運びが結構大変なんだよね……。でも、この時間で全種類買えたのは運が良かったな。

「母様、新しい味の蜜林檎気に入ってくれるといいけど。――さて、お次は」

 三件隣の甘味処だ。
 此処の店は、種類は少ないけどお酒も置いているんだよね。冷えた蜂蜜酒で喉を潤したいところだけど……夜のことを考えて我慢しておこうか。

「まあ、父様達と飲むのに何本か買っておく分にはいいかな」

 僕は蜂蜜酒と桜酒を数本、そして、幼馴染みが好きな白蛇の苺大福を、三段に積んだ月見団子なみに購入した。

「あ、南瓜饅頭は売り切れか。きんつばもないようだし……大玉南瓜でも買っていけば母様が何か作ってくれるかな」

 一緒に作るのもいいね。
 そうと決まれば、急いで小路を抜けようか。八百屋まで少し距離があるからね。
 ……それにしても、

 ……



 活きが良いなぁ(ぴちぴち)










 南瓜とおまけのカブを風呂敷バッグに提げ、僕が街離れの湖畔に到着した時には、とっぷりと日が暮れていた。
 街で沢山の星を浴びてきたけど、この星の群れには敵わない。澄んだ空気や水に映える繻子のような星月夜が、僕を御伽草子の絵巻へと引き込むかのようだ。

「御伽草子、か」

 そう呟いて、僕は自虐気味に口の端を上げた。
 
 ――既にもう、引き込まれているじゃないか。
 そう。

 僕は呑まれているんだ。

 この夜に。
 空に。
 星に。
 月に。
 世界に。
 ……僕に?



 “ ”に――。



「ああ……理不尽だな」

 残酷でない世界なんて、やはりないんだ。
 僕は立ち尽くしたまま、どうしようも無く美しい景趣から目を伏せた。

「……僕の真実は今も“僕”の中に在るよね? ……在ってくれるよね?」

 偽っていたつもりなんてない。
 そうだ。例え世界を敵に回しても、全て失っても、僕の気持ちが変わることはない。

 ……けれど、

『どうして?』

 ……。

 叶わないと決めつけて、想いを閉じ込めていたとしたら、僕は――

「……母様の素直さが、少しでも僕にあればいいのに」

 その時、優しい声が聞こえたような気がして、僕は目を開けた。
 風が吹き抜け、時間が再び動き始める。
 青白く伸びる星屑の天の川が、地上への架け橋となっていた。その筋を辿って降りてくる、一人の男性。

 並んで歩き、時には背中を合わせ、心を許した彼だ。

「……わかっているよ、これでも。いざという時、僕は臆病で、大切なことほど上手く伝えられない。けれど、自分の心を取り繕うことはしないよ」

 これは、僕の意地。

「ふふ、此処で玉兎に変身してしまおうか。僕は彼の肩に乗り、荷物は全部彼に任せてしまおう。そして、ゆるりとお喋りしながら天の川を上るんだ」

 今、僕の目の前に君が居てくれることが真実。

「(……これでいい。今はまだ、“僕”のままでいい)」

 僕は弓形に細めた双眸で、光の帯を仰いだ。
 全く、身を以て感じて見えてくる君は、相変わらずで――





 嗚呼。何て仙に燃ゆる、美しい“炎”なのだろう。




━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ご依頼ありがとうございました。
そして、大変ご無沙汰しております。ライターの愁水です。
灯籠アパートノベル、お届け致します。

とあるお嬢様の言葉を借りるなら「大きくなったわね……」と楓ちゃんにお伝えしたいです!(
当方の心像としましても楓ちゃんは月の印象が強かった為、妖怪や話の内容もすぐに決まりました。懐中時計=兎という名残もあったのは秘密です…(
とある単語や楓ちゃんの繋がりある“家族”の話題など、当方なりに色々と詰め込んでしまいましたが、如何でしたでしょうか?
楓ちゃんが抱える“ ”の面を取り違えていたら申し訳ありません。

感慨深いご依頼に感謝を籠めて、あとがきとさせて頂きます。
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グロリアスドライヴ
2020年07月06日

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