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『標的』
水嶋・琴美8036

 ターゲットを確認した彼は迷うことなく、その体に巡らされた回路に全力運転を命じた。
 極低温ならずとも為される超伝導――室温超伝導技術を用いた人工神経系は、彼の挙動を常人の数倍にまで引き上げる。物理的な行動を伴わぬ認識や感知だけなら10倍にも届くだろう。
 人を超えたと云えば聞こえはいいが、人であることを棄てて得た、闘う以外には障るばかりの力。知っていながら求めた理由はただひとつ、あの女を排除するためだ、
 果たして隠れることもなく、彼は無造作にターゲットの前へ立つ。
 そして。
 ターゲット――水嶋・琴美(8036)は艶やかな笑みを傾げ、彼を迎え入れた。

「おひとりですか。ずいぶんと信頼されているのですね」
 琴美はわずかな力みも震えもない声で問い、右手に苦無を抜き落とす。
 ボディラインをそのままに描き出す黒のインナーの上から、袖を半ばで落とした着物とミニ丈のプリーツスカートをつけ、帯で繋いだ奇抜な戦闘衣装。しかしそのすべてが守りばかりでなく、攻めにも使われることを、彼はデータから学んでいた。
 つまり、様子見は無駄。
 故に彼は5メートルの間合を半身で踏み越え、右手のダガー(両刃のコンバットナイフ)を突き込んだ。
「ああ、何処かの軍の方ですか」
 琴美は編み上げブーツで鎧われた左脚を突き上げてダガーを内から弾き、軸足を鋭く巡らせ、右手の苦無を彼へ投げ打った。
 初手で得物を棄てる? いや、ちがう。こちらに守らせ、次手を遅らせるつもりだ。
 苦無の軌道の予測演算と回避行動は回路に任せ、彼は自身が行うべき攻めへ集中する。ダッキングで苦無を避け、そのまま上体を倒し込んで琴美へ肉迫。ダガーを逆手に握り込んだ重い左拳を振り込むが。
 琴美は回転を止めずに体を正面へ向けなおし、バックハンドで左拳を叩き払った。
 が、彼女がそうしてくることはすでに演算済みだ。彼はさらに踏み込んで肘を折り、中国拳法を応用した肘打ちを繰り出す。受け止めようとも全体重を乗せた肘はそのまま彼女を打ち据えるし、たとえ肘が払われようと肩が襲いかかり、さらに避けるならば畳んだ肘から打ち出されるダガーの刃が追いすがる。
 と。琴美は重心を据えた彼の膝を踏み、前方へ跳んだ。後方へ逃げていたなら追いつかれていたはずだから、この判断は唯一の正解であるといえよう。さらに彼女は宙で苦無に結んでいたワイヤーを引き、彼の後頭部へ刃を向かわせる。
 もちろん読んでいるがな。思考したときにはもう、超伝導は彼を起動させていた。さらに低く上体を倒し込んで反転、的を絞らせぬよう頭を振りつつ琴美の着地地点へ――ここだ。踏み止めた反動で上体を引き上げて、左のショートアッパーを突き上げた。
 足がかりなき宙にある琴美に避けようはない。しかし彼のナックルガードで鎧われた拳は、やわらかななにかに押さえられて……掌だ。グローブをつけた掌が、彼の拳を包み込んでいた。
 足がかりではなく手がかりを、しかも敵の攻めに求めるとは! 驚愕や恐怖以上に感動を覚えながら、彼は重心を右手へ移す。
 すでに琴美は宙での体勢を転じているが、地へ降り立ったわけではない。優位は未だ、彼にある。
 琴美の着地地点を演算し、今度は逆手に取られぬよう、その足が着く寸前まで待って。彼は先と同じようにダガーを振り込んだ。こちらのやりようは彼女も“演算”しているだろうが、それすらもこちらは演算している。
 体をわずかにひねってダガーをやりすごす琴美。その体は今も落ち続けていて……ここから再び跳ぶか、地を得るか。どちらにせよ彼は対処策を講じていたが、ターゲットは高確率で後者を選ぶ。足場の広さこそは戦術の選択肢の幅なのだから。
 彼は思う通りに拳をスルーし、地へ足を伸べた琴美に全体重を乗せた肘を振り込んで――空振りした。
 なっ!?
「やっと、声を聞かせてもらえましたね」
 彼の耳元でささやいた声音。その余韻が後方へ流れ去っていく。
 結果から言えば、琴美は降り立ったのだ。ただし地へではなく、ワイヤーを繰って地へ打ち込んだ苦無の柄先へ。弾みをつけることなく筋力ばかりで跳躍したからこそ、「着地タイミング」を狙い澄ましていた彼は彼女を捕らえ損ね、さらに深く踏み込んでいたがために演算の起点である敵の視認がかなわなかった。
「ずいぶんといい目をお持ちのようでしたので、見とがめられないよう振る舞わせていただきました」
 彼の肩に額をつけ、ヘッドスプリングさながらに身を巡らせた琴美が背中越しに声音を投げた直後、彼の首にぎちりとワイヤーが食い込んだ。いや、首だけではない。両肩、両脚の付け根にも次々と絡められ、引き絞られる。
 が、四肢の先は未だ自由だ。さらに言えば彼の関節の可動域は相当に拡げられてもいる。根元を縛られたからとて、対応の余地はいくらでもあった。いや、あるはずなのに、動かない。正確に言えば動きはすれど、彼の背に背をつけた琴美へ届かない。
「動きのすべてを封じることができなくとも、2割を阻害できれば事は足ります」
 告げた琴美が彼を担ぎ上げた。これによってさらにワイヤーは引き絞られ、強制的に彼を仰向けに縛り上げる。
「あなたが何者かを割り出すことは情報部にお任せしますが、私からもひとつだけ聞きたいことがあります」
 体に張り巡らされた超伝導回路がびぎびぎと悲鳴を上げた。ワイヤーに食いつかれた上で無理矢理に引き伸ばされ、ちぎれ始めているのだ。
 そして。なにも答えられぬままあえぐ彼は続く琴美の問いをただ聞いた。
「この程度で私に届くと、本気で思っていらっしゃいましたか?」
 もちろん、答えることはかなわない。
 回路と共に血流を断たれた彼は、後悔する間すらも与えられぬまま絶命した。

 今日の敵はどうやら身体能力を強化したサイボーグであったらしい。
 相当の力を持ってはいたが、結局のところ、足りていなかったのだ。言ってみればそう、インスピレーションが。
「捕らわれることなく能力を生かすことができていたなら、届いていた可能性はあるでしょうね」
 とはいえ彼女自身、そんな可能性があったとは微塵も思っていない。自らが傲慢であることを自覚しながらも、それ以上に強く、自らの実力に及ぶものがあろうはずはないと否定してしまう。それが許されるに足るだけの戦果を、彼女は重ねてきたのだから。
 これまで通り、これから先も、彼女は重ね、積み上げていくだろう。戦闘と勝利と、そして傲慢を。
 しかし――その果てに、迎えるのかもしれない。自らが築いた頂の根元を崩され、足を踏み外して転がり墜ちるときを。
 そうなればきっと、琴美は抗えまい。窮地から必死に這い出す術も、無様を推して再起を図る経験も、なにひとつ知らぬ彼女はただ失意に飲まれて這いつくばり、心を空(から)にしたまま蹂躙される。彼女が彼女であればこそ学ぶことのできぬ敗北は、いったいどれほどの勢いをもって襲い来るものか。
「……」
 琴美は左右に頭を振り、内にわだかまる暗い思いを追い出した。
 今はただ闘うばかりのことだ。いずれ墜ち、堕ちるその日までは。
 この国を脅かそうとする尖兵の処理を終えたことを報告すべく、彼女は歩き出した。そして先に待つ新たな敵との出会いを早めるため、足を速めるのだ。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年07月08日

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