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『夜明けは未だに遠く』
塵の尾la3544

 夜道を歩くときは気を付けなければならない。特に今日のような月明かりも何もない夜は。一つでも進むべき道を違えた瞬間足を掬われて蹴躓く羽目に、或いはそのまま、崖下に突き落とされたかのように一瞬で幕引きを迎える可能性も否めない。所詮世の中は弱肉強食であり、弱者はただ這い蹲って目の前にいる強者に命運を委ねることしか出来ないのだ。少なくともここはそういうふうに作られたところだ。外の者からは暗黒街と評されているこの街では、それが常識。とはいっても外を識る者ならばそう容易く常識の箍は外れないが――但しここで生まれ育った人間が例外なのは推して知るべし。裏路地にいる二人の兄弟もまたそうだった。
「なあ、ソレくれよ」
 ここに迷い込んだ人間は余程呑気でもなければ一刻も早く立ち去ろうと酷く焦る。目の前にいる若い女もご多分に漏れず、無造作に差し出す手に化粧を塗りたくった頬を引き攣らせていた。ソレと指で指し示したのは女の腕で煌めいているブレスレットである。審美眼、なんていう程大層なものでもないがそれが高いか安いか程度なら今までの経験からおおよその見当はつく。売ればそれなりの日数は生活出来るだけの金になる筈だった。伸ばした手は女が自ら差し出すことを信じて疑わず、少年は真っ直ぐな目でその顔を見返す。然しそれが純粋無垢なものであったかと問われればそうでもなく、年齢にそぐわない酷く草臥れた目だった。世の中の澱という澱を煮詰めて凝縮したような、そんな――。けれど女は相手が子供と見るや侮蔑を剥き出した顔で鼻で笑うと、少年の手を軽く振り払う。それはただ、払い除けただけで乾いた音は鳴れども痛みなどは全くといっていい程なかった。然しながら、明確な拒絶を感じた彼は隣に立つ弟と視線を交わす。小さく頷いて元の世界に戻ろうとする女の腕を掴み、そして捻り上げれば絶叫が迸った。その小さな手のひらにはミシミシと掴んだ箇所の骨が軋み悲鳴をあげているのがはっきりと伝わっている。念と力を込めれば容易く粉々に砕け散った。人は心の底から恐れ慄いていると声すら出ない。ただ見開き、こちらを見つめる視線を少年は自分こそがまるで親の仇を取るような憎々しげな目で見返す。最早見る影もない手を離すと女は当然逃げようとするが、既に弟が背後に回り込み、こちらからは女の背中が邪魔でその顔は見えなかったがどんな表情を浮かべているか想像するに難くない。きっと似たような笑みを浮かべている。鬼、と今にも消え入りそうな声で女が言う。いつからか遠巻きに見ることしかしなくなった大人が口にしたのを何度か聞いたことがある。意味は分からないが別に困らない。前後から別の手を引っ張り合えば直にぶちりと人は嫌がるらしい音が聞こえた。肩から鮮血が噴き出して、股間から垂れ流す尿が刺激臭を撒き散らす。身体が倒れ込むのと共に何か甲高い音が地面の上を転がった。兄弟はしゃがみ込み、指一本動かなくなった手首からその高価そうなブレスレットを引き抜くと笑う。と、稼ぎを得たことを喜ぶ間もなく辺りに悲鳴が響き渡って、二人は立ち上がった。一人だと確認をした上で声を掛けたつもりだったが、どうも女に連れがいたらしい。危険が迫っていると、兄弟は直感ながらも理解した。それと同時にバケツを引っくり返したかのような雨が昼間も暗い裏路地に降り注ぐ。
「あそこで」
 少年が呟いたのはたったの一言。それも場所の情報さえ第三者には分からない不可解に尽きる言葉を吐くと雨音で聞こえなかった可能性など少しも考えずに、予め打ち合わせたように別々の道に入った。少なくとも物心がつく頃にはこの街にいた兄弟にとって迷路同然に張り巡らされた道は庭のようなものだ。雨も大して邪魔にはならない。ただ悔いが残るとすればブレスレットを引き抜いた直後弟が向けた視線だ。多分アレが欲しかったのではとそう思うのだが、あそこに今更戻るなど出来る筈もない。然しもしも弟が欲しいというなら何がなんでも、どれだけリスクを侵そうとも、絶対に手に入れよう。自分たちにはそれが出来るだけの力がある。そしてその力――想像力を現実に変えられる手段もまた。道理なんてものを教える人間がいないこの世界。力があれば子供でも何でも入手出来ることを知っている。
 どれだけの間、走っただろうか。まだ人を呼ばれてはいなかったし、追いかけてくる気配もなかったので迂回は最初の内だけで以降は最短距離をひた走った。――疾く疾くもっと更に疾く。傍にいなければもしや自分のいないところで何かあったのではないかと酷く不安に駆られた。息があがり、全身濡れ鼠になった頃に漸く家の一つに辿り着いた。自宅とはいっても空き家を勝手に拝借し使っているのが実情。薬と暴力で街を牛耳る連中も自分たちにおいそれとは手出し出来なかった。幸い中に知った気配を感じて、一人静かに肩の力が抜けるのを感じる。中に入れば子供二人には広過ぎる部屋の隅に弟がいて頭をあげた。顔を確認し、暗がりの中安堵したように笑うのが見える。黙って隣に座り、自分より小さな手にブレスレットを握らせ、少年は弟に微笑みかけた。ただ一人の兄弟。実際に血縁関係があるかは分からない。然し少年にとって彼は大事な弟であり、この書き割り同然の世界で唯一信じられる相手に間違いなかった。自分と彼とが真に生きていて、このブレスレットの持ち主も連れも目が合うと慌てて顔を背ける大人らも――全て物語の登場人物なんて、碌に本も読まず、読める字も少ないがふとそんなふうに思うことがあった。
「なあ、アレが欲しい? もし本当に欲しいのなら俺が取ってきてあげる」
 愛する家族の為なら無敵になれるとそう信じ、少年は笑う。記憶へと刻んだ女の――そう確か女だった筈だ、それ以外は覚えていないが――鞄か何かから転げ落ちた、透明のペン。アレが欲しいのではないかと思う。自分たちが何かを書き残すことなんて一度もなかったし、必要性もまるで感じない。然し世間には誕生日というものがあり、弟も自身もそれが定かではなかったが、代わりに何かがあった際、贈り物と称し物を渡すようにしていた。弟が自分を見て口を開く。
「――……」
 吐き出された筈の声は激しい雨足に掻き消された。けれど笑みを浮かべているからきっと彼もそれを望んでいるのだろう。確信を持って少年はそう思い笑う。何が何でも手に入れよう。アレそのものが手に入らないなら似たようなものを。そうやって手渡したとき、弟はきっと今以上に幸せそうな表情を浮かべてくれるに違いなかった。使い道がなくたって透明である意味が分からなくたって――つまり大事なのは弟が欲しがっているというその一点に尽きるのだから。
 肩を寄せれば弟の呼吸を感じた。彼だけは自分を裏切らないし家族として無償の愛を注ぎ続けてくれる。世界に二人だけだったならどんなによかっただろう。こんな二人で過ごすにはただただ広い部屋ではなく、例えば二人で丁度いい狭さの、どこにでも行ける家で暮らせたなら楽しそうだ。深夜には焚き火を囲んで。夢想は一人でに飛び立ち、少年は窓の外を見つめた。星一つ見えない真っ暗闇の下、見えない星を飛んでは掴んで引き摺り落とすと夢想した。子供の無知で歪んだ一つの夢。
 それは塵の尾(la3544)がそうと名乗るずっと前の夜。ありふれた一日の終わりのことだった。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
色々と想像が浮かぶ過去なので何を書こうか悩んで、
結果あれやこれやを参考にしつつの話になりました。
核心に触れるともしその辺りを深く考えていらっしゃる
場合に地雷になってしまう気がした為、ふんわりですが。
暗黒街で幼い兄弟が生きるには力が必要かなと思い、
何らかの形でEXISを入手し、利用している設定です。
また、子供特有の無邪気さと汚い大人を見てきた影響の
歪んだ感情が心に同居している的なイメージですが
上手く表現出来ていなかったら申し訳ない限りです。
塵の尾さんは弟を愛していたけれどしかし
その逆はと妄想が広がります。
今回は本当にありがとうございました!
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グロリアスドライヴ
2020年07月22日

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