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『願給』
芳乃・綺花8870

 紡がれる言の葉は大気のただ中へ呪を刻み、呪は各々に詛の核となりて仇なる大輪を咲かせ、咲かせ、咲き誇らせる。
「ご挨拶は省略させていただきます。これ以上世界を汚していただきたくありませんので」
 芳乃・綺花(8870)は小首を傾げ、世界を穢す呪詛の中心に在るものへと語りかけた。
 彼女がまとう装束は、プリーツスカートの裾をミニ丈に折り込んだセーラー服。合わせた黒のストッキングはランガードで下腹部と脚部が区切られており、さらにはバックラインで飾られて、伸び出した脚のなめらかな起伏を強調していた。
 実に大人びてはいるが、その服装だけならば人は学校帰りの女子高生と認識するだろう。そう。左に朱鞘の打刀さえ佩いていなければ――
 綺花は高校生にして退魔士。携えた二尺三寸は、妖魔跋扈せし室町の世に鍛えられた鬼切り刃を打ちなおし、綺花自身の法力を焼きつけた退魔刃である。
 その彼女がここに在る理由は当然、魔を討ち滅ぼすがためだ。
 もっとも、呪詛の主(ぬし)たる異形が綺花の出で立ちを気にする様子はない。銀に色づくその体はただの真球であり、故に見てすらもいないのだろうから。
 しかし、存在しないはずの口が紡ぐ呪は刻々と世界を腐らせゆく。元は杉林であったはずの土地はどろどろと解(と)け崩れ、ローファーの裏に法力を張っていなければ、綺花もまた同じように解(と)かれていたはずだ。
 言葉を発する以上、口が無いわけではなく、在るはずのものが私に見えていないだけかもしれませんね。
 彼女はこの場へ踏み入ると同時に鯉口を切り。腰を据えて息を絞っている。いつなりと抜き打てる構えであればこそ、いつ抜き打つかを図るのが常なのだが。
 綺花は迷わず刃を抜いた。剣術の基礎構えである正眼に刃を据え、滑るように踏み出していく。

 と。異形が泡立ち、彼女へ呪を吐きつけた。ひとつふたつ、三つ四つ五つ。呪は速やかに花弁のごとく拡がり、綺花を巻き取りかかったが。
 しぃっ。綺花の呼気が未だ無事を保つ空気を揺らし、突き押しの型で伸べられた退魔の刃が呪の核を打つ。切っ先ではなく鍔元で為したのは、崩壊する呪を押し退け、次の呪との間合を保つがため。
 続けて呪を断ち割り、斬り払い、打ち落として、綺花は突き通した五つめの呪を振り払った。
 本体ならぬ呪詛ですら、核を断つには相応に踏み込む必要がありますね。
 下へ落ちた四つめの呪に切っ先を突き落とし、綺花はかすかに泡立つ異形へ視線を向けた。
 踏み込みを徐々に浅くして試したが、引っかけるばかりでは壊せない。それだけこの呪は強く、異形もまた強い。
 先よりもさらに侵蝕が進められた世界。長引かせるほど侵される域が拡大し、異形に力を与えることとなろう。
「推して参ります」
 綺花は法力まとう左足で穢れた地を蹴り、跳んだ。
 大上段からの唐竹割りが異形の正中線へ降り落ちる。
 が、異形は右へも左へも動くことなく、ただその身を震わせた。寸毫をもって泡立ちが波打ちまで震えを高め、多数の呪を撒き散らす。精度は低いが、拡がる呪が互いに結び合い、壁となって刃を阻んだ。
「っ」
 ぬるり、あるいはずぐり。重い手応えが刃へまとわり、絡みつく。押しても引いてもびくとも動かぬことを察した綺花は手に込めた力を緩め――丹田の内にて巡らせていた法力のすべてを刃へ伝わせ、爆ぜさせた。
 物理的ならぬ霊的な衝撃が異形を激しく揺らして突き退け、同様に突き押された綺花もまた後方へ飛ばされる。
 宙で一転し、地へ降り立った彼女は、体勢を立てなおすよりも先に異形へ駆け出した。一時も止まることなく穢され続ける地はすでに形を失いつつあり、法力の護りをもってすらあとどれほど立っていられるかわからない。
 急ぐことができるだけの確証を得たとは言えませんが、後で悔いるよりも、試すことができる内に試させていただきましょう。
 一歩ごと、引き抜くように足を繰り、吐きつけられた呪を斬り払いつつ異形へ迫る。強い法力を乗せた刃は触れるばかりで呪を爆ぜさせ、この世のものならざるもやめきで空気を濁らせていった。
 その奥に在る異形が視界を塞がれているものかは知れないが、迫る綺花に対してより濃密な呪を吐かんと激しく波打つ。
 かくて吐かれた呪詛を切っ先で受け、鍔元まで使って押し斬った綺花は、踏み止めた右足を軸に回転、次なる呪詛を横薙ぎに斬り払った。そしてまた進み、進み、進む。
 あなたは強大なのでしょう。呪詛を紡ぐだけで世界をも侵す力を持てばこそ、あなたはただそこに在ればよかったのですから。
 異形の眼前にまで至った綺花は、しかと腰を据えた構えから、万全の一閃をはしらせた。踏み込む間に鞘へ戻した刃をそのまま、鞘の重さを加えた鈍い一打を、波打つ銀へ。
 打ち据えられた異形はぶるりと震え、呪詛を噴き出した。前方の綺花ならぬ、なにもない後方へだ。
「耳目があるかはまだ知れませんが、どうでもいいことですね。あなたという存在のすべてが紡ぐ口であること、それだけが知れていれば」
 球に生じる泡立ち、それが生む音なき波動こそが呪詛を語る口。震動をまとう異形はそれを攻撃や防御に使うものだが――このような使いかたをする異形相手では、綺花が所属する退魔社「弥代」も居所を掴むまでに時を必要するわけだ。
 しかし。出遅れたのだとしても、手遅れではない。
 綺花という刃が届いた今、すべては覆されるのだから。
「あなたの声はもう、私には届かない。つまりは私が護る世界を侵すことももうかないません」
 再び異形を打ち据え、呪詛を散らした綺花は、大上段に刃を掲げた八相――示現流に云う蜻蛉に構え、直ぐに振り下ろした。その中で刃は鞘を置き去り、剥き身を晒して異形へはしる。
 果たして球の正中を断つ刃。
 刃の芯で異形の芯を引き斬る中、返る手応えは一切なかった。
 ――終わってみればいつもの通りでしたね。
 物寂しさを息に乗せて吹き抜き、綺花は刃を鞘へと納めた。

 異形を退治た綺花は法力を放ち、世界に応急処置を施した。本格的な修復は得意な者に任せるとして、今はとにかく侵蝕の進行を抑えておかねば。
 と、その最中にふと思う。
 相手が神であれ、この身に触れさせるつもりはない。いや、神ですら彼女に触れたものはなく、これからも現われ得ぬだろう。当然のことだ。今このときにも勝利を積み、進化し続けているのだから。
 でも、だからこそ、待ち望んでしまうのです。私に及ぶ方と相対するときを。
 予感は甘やかに彼女の心を奮わせ、背を震わせる。自身がどれほどの傲慢に駆られているものかは自覚していた。それをしてなお、止められず。我が身に宿りし業を噛み締め、彼女は息をついた。
 しかしながらだ。彼女に並び立つ者がないのならば、及ぶほどの敵とはすなわち、彼女をも凌ぐ力を持つ者となろう。対したときには為す術もなく蹂躙され、躙られるほどの。それに思いが至らぬのはまさに、彼女が傲慢であるが故のことであった。
 いつか、彼女の願いがかなう日が来るのか、それとも来ぬまま失せるのか、それは定かではない。未だ来ぬ先であればこそ未来。なにが待ち受けるものかは、先が今となるまで誰にも……おそらくは神にすら知りようはないのだ。
 帰路につく綺花の表情に色はない。それが変わるのは、次に対する敵次第。


東京怪談ノベル(シングル) -
電気石八生 クリエイターズルームへ
東京怪談
2020年07月27日

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