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『意味なんてどこにもない』
柞原 典la3876

 体調不良を自覚したのは起きてから約十分後、まだぼんやりとする頭で酒と煙草のついでに買っておいたパンをひと口齧ったときだった。淡々と咀嚼しクリームが舌先に触れたところでようやく味がしないことに気付く。全部飲み込んだ後で、矢庭に机上のペットボトルへと手を伸ばした。パンと同じでそれと拘りがあって選んだのではないカフェオレが確かに喉の奥に通り抜ける――のだが、その味はするようなしないような、酷くはっきりとしないものだった。一度でも疑念を持ってしまえば、倦怠感を感じ始める。おそらく風邪だろう、と当たりをつけてただ機械的に摂取するだけになった食事を済ませると引き出しの中身を雑に攫って体温計を取り出した。今日の予定の算段をつけている間に検温が済み、見れば案の定というべきか三十七度七分の熱があるのが分かる。幸い仕事も今日でなければならない用事もない。早速スマホで最寄りの病院を検索し、どこか把握するとすぐに向かうことにした。こういう場合は早めに行動するに限る。男の一人暮らしだ、下手に放置すると重症化し生死の境を彷徨う羽目になる、というのが決して冗談ではないのが恐ろしい。看病してくれる宛てもあるにはあるが過去の経験上、寝ている間に何をされるか判らないのだ。気付かれる前に完治しておきたいと重い腰を上げて、出掛けることにした。

 病院に到着し、待合室で人心地つこうにも初診の為、受付にて診察券を作るのに必要な情報を書かされることになった。ガラスの向こう側の女性が気遣わしげに何かと話そうとするのを不調を理由に躱しつつボールペンを持つも、ふとその左手が止まった。一番上の項目の名前欄に柞原 典(la3876)と書くことなんて普段なら何も疑問に持たない至極当然の行動だ。というのに今日は妙に引っ掛かりを覚える。その理由に一拍遅れで気が付いた。つい先日受けた任務中に味方と敵が交わしたやり取りとそのときに自分が抱いた感情が蘇ったから――一瞬、胸の内側にさざ波が立って、受付の女性にも聞こえない声で溜め息を零すと同時に消える。症状などを一通り書き終わって、お待ち下さいの言葉に従って空いている席に腰掛けるとやっと気が抜けた。遅めの朝食を摂り家を出て、今は昼前だ。小規模な病院で待っているのも老人ばかりなのが有難かった。調子が悪い日に絡まれること程煩わしいものはない。会計を済ませ病院を出ようとする人に通り過ぎ際、美形だねぇと独り言の大きさではない独り言を言われる程度、実に可愛らしいものである。茹だった頭によぎるのは先程も思い出した、任務中の一幕だった。
 自ら名乗る名を持たず、SALFがその能力に因み便宜上付けた名で呼称されるエルゴマンサー。同じナイトメアからは外見通りに呼ばれていた。その事実を心から憐れみ可哀想だと言う彼ら同行者たちの言葉を聞きながら、ふと言葉には出来ないが引っ掛かりを覚え、それから彼の主というエルゴマンサーの台詞を聞いて自身の感情を消化したのだった。
 ――名前なんてそんな大事なものかい?
 ――わかるなら名前でなくてもいいじゃないか。
 酷くつまらなさそうに、全く意味が解らないとでもいうように、彼女はそう返した。話は通じる。しかし価値観が違うのだから、話はいつまで経っても平行線のままだ。親子のようなやり取りを交わそうとも彼と彼女はナイトメアである。人間を喰らって知恵を得ればこそ、世間では当然だとされてきたものの無駄が分かる――己には悲しい、寂しいという同行者の思いは理解出来ない。その反面、人類の敵である鏡の向こうのナイトメアの言葉を耳にし、一人心の中で呟いたのだ。
(ああ、そうやね。その通りやと俺も思うわ。なんせ俺のこの名前は偽物なんやから)
 ただ単に法律上、戸籍に登録する名前が必要だからと付けられただけだ。名字が柞原なのは赤ん坊の時分に遺棄されていた状態で発見されたのが柞原という土地だったから。典は産着に書かれていた字なので普通なら自分の名前になるのだろうが、わざわざ名前を付けておいて、棄てるというのも意味不明な話で、例えばどこかから盗んできたもの、という可能性もある。もしも両親なり親類縁者なりが付けた名前だとしても、本当に読み通りかどうか。人名として読むなら“つかさ”が一番尤もらしいといっても、“のり”や“ふみ”もまあなくはないだろうと思う。地名と発見時纏っていたものに残された文字を組み合わせただけの名前なんて、アサルトコアの識別コードやライセンサーの登録番号と何ら変わりないだろう。
(他人が耳にして、すぐに俺やって分かる為だけの記号やろ)
 一応は縁から出来ている。しかしそれは細く何の宛てにもならない、酷くちっぽけなものだ。寄り掛かることはおろか、一歩足を踏み出すだけでぶちりと音を立て千切れる。
 果たして、生まれ落ちてからどれだけの間必要とされたのだろうか。女の胎にいたときには既に疎まれていたのではないかと思う。もしも誘拐など意図しない形で奪われたのならば自分が物心つく頃には生みの親と一緒に暮らしていたに違いない。あるいは里親になりたがった夫婦の元に行っていれば今は別の姓を名乗って、全く違う人生を歩んでいたのかも――切り捨てられたり、己もまた切り捨てていった可能性を思い、けれどやはり怒りや恨みの感情も、逆に開き直る気なども全く起きなかった。
「俺の名前、ほんまは何やろなぁ」
 ぽつりと零れた声は大型テレビのスピーカーから聞こえるがやに紛れて掻き消えた。その番組は老人の視線を集めているのに目を開いているから視界に映っただけというように一切反応を示していない。かくいう己も興味はすぐに失くし、背中を丸め窮屈に感じるネクタイを緩めると息をつく。
 先程の言葉は何となく口に出ただけで別に知りたいわけではないし、また過去にもそう願ったこともない。偽物だろうが記号に過ぎなかろうが本人が「それでいい」と頷けるなら充分だとそう思うのだ。愛着はないが嫌悪感もない、そんなこの名前とこれからも付き合っていくのに何の疑問も持たなかった。結婚すれば相手の姓を名乗れるし正当な理由があれば名前を変えることも出来る。知識としてはあっても実践する気にはなれず、もし仮に何らかの形で本当の名前を知る機会があったとして、だが何月何日かに二十八になった今まではなかったことにはならない――型に嵌まり損ねたパズルピースは全て歪で無理に当て嵌めようとしても、絶対に一つの絵は出来ない。たったそれだけの話。便宜上ずっと使用してきて、今後も使い続けていく。
 などと自らの名についてつらつら思うも、やはりあのときの同行者の可哀想という気持ちは理解出来そうにもない。人間も動物、動物園の檻の向こう側にいる彼らと何ら変わりないだろう。花に役割や花言葉という意味を与えるのも、結局は人間のエゴであり、当の花が生きるのに何の影響も持たない。少なくとも己の場合はそれと同じようなことだった。
 柞原さん、柞原典さん、と名前を呼ぶ声に思索に耽るのをやめ、緩慢な動作で立ち上がった。早く診察を受けて帰って、薬を飲んで早めに治してしまおう。同業者に十代が多いだけによく感じてしまいがちだが、流石に体調不良が長引く程老け込んでいるわけではないのだ。偽物の名前との付き合いは、いつか何らかの形で幕を閉じるまで続いていく。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
お年寄りが沢山いるような、田舎っぽい病院が典さんの
家の近くというのは少し不自然かなとも思ったんですが、
最初スマホを替えに携帯ショップへとも考えたはしたものの
名前は呼ばないだろうし人目もありそうだし買い替える訳も
全然思いつかなかったので、まだしっくりきそうなこの形に
しました。発想力が貧困で申し訳ない限りです……。
綺麗な人がいるなくらいの感じで済む空気も書きたかったり。
名字のほうはルーツを辿っても意外と適当なのも多いですが、
名前はちゃんと意味を持っていないと悪みたいな風潮も
あると思うのでこういう目線も面白いです。
今回も本当にありがとうございました!
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グロリアスドライヴ
2020年08月03日

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