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『とある夏の一日に』
桃李la3954

 夢というものはどうしてこうも儚いのだろう。見ている最中は現実そのものだと思い込む程深くまでのめり込んでいるのにひとたび目が覚めてしまうと、その記憶は瞬く間に消え失せ、必死になって思い出そうとしてもせいぜいこういう感じの内容だった筈と、その程度の印象しかなくなるのだ。しかし、反面で気持ちだけは酷くこびりついて離れない、ということもあるらしい。ライセンサーになるにあたり、書類には桃李(la3954)と記名した自身はといえば全く覚えがないのだが。或いはいつか遠い昔には経験したこともあったかもしれない。すっきりと目覚めて、けれども何か夢を見たことは覚えているのにやはり具体的に思い出すことは叶わず、桃李は横になったままの格好で暫し解を見出そうと思考を巡らせたのだが、当然のように夢で見た光景は遥か遠く霞んでいた為、手繰り寄せることは出来なかった。仕方ないと諦め、身体を起こすと布団から抜け出る。窓際まで近付き薄手のカーテンを引けば丁度東雲の頃だと判った。いつもと同じ見慣れた空の色。真夜中のひやりと冷たい空気の残滓があるこの時間帯は、冬場には身も凍える寒さを感じるのに夏場は思わずすっと背筋が伸びるような、程良い涼しさが肌に触れ、中々に心地良い。これから昼過ぎまで気温はずっと上がりっ放しなのを思うと尚更だろうか。暑いなら暑いなりに楽しむ術もあるとは思うのだが、どうにも食欲が失せてしまうところが難点ではある。油断すると、元々身長と比べてあまりに細い身体の線が最早不健康に思えるくらい痩せてしまいかねないのだ。自然と食欲をそそるようないい店があれば助かるけどと、徐々に白んだ空が朝焼けの橙に染められていき、照明のついていない室内を薄ぼんやりとした光で照らし出すのを窓の側に設置した椅子に腰掛けつつ眺め、思った。
(休みの日もこの時間に起きるのは少し勿体ないような気もするけど、逆にいえばゆっくり時間が取れそうだから、溜まった本でも読もうかな? あ、服を新調するのもいいかも)
 そう、今日はたまの休日である。何かの依頼を受諾しているわけでもなく、ただ生きていくのに必要な煩わしい手続きもない。その気になれば家に篭って一日を終えることさえ出来るのだ――即ちそれは食事を摂らないのと同義だが。この先どうしようか考えているうちに夜は明けきって、桃李は立ち上がると今日という日を始めることにした。

 午前中に本を読み、午後になったらすぐ出掛けるつもりだったのが、気付けば選り分けた何冊かを読み切らない間に昼を過ぎ、二時を回っていた始末である。溜め込んでいるといっても急いで読むつもりもなかったので己の見る目の確かさを自画自賛した。物語中に入り込む感覚を味わうのが久々だったのも手伝い楽しめたと思う。なので、結果的にはよかったといえた。昼ご飯は珍しく興が乗った為、すだちを乗せてさっぱりとした味付けのそうめんを作って食べて、身支度を整えると自宅を出る。
 そうして向かったのは、馴染みの呉服店――トレードマークというわけでもないが羽織っている着物や服は全てオーダーメイドだ。着物はマントのように前で留めるようにすることもあり、シャツやベストといった洋装は市販のものだと高身長だが細身という桃李の体格に合わないので、毎回採寸し、肌触りや色合いなどの生地の質にも拘り作ってもらっている。予め連絡していたのもあって、店の前まで辿り着くと殆どの場合、桃李の担当同然の店員が出迎えてきた。既に仕立てられた着物でもこの店のように最高級品にまでなると数十万は軽く飛ぶのが当然のことで、それが特注品にもなると料金は上乗せされ、桃李は金に糸目はつけない性格なので、気に入れば値段は気にせずに即決している。つまりは上客も上客。二回り以上年上だろう女性店員はしかし柔和な態度を崩さず、本心はどうあれ丁寧に応対してくれる。桃李もうん、と鷹揚に応えると店内に入っていった。
「今回も新しい着物を仕立ててもらおうと思ってるんだけど、良さげな柄はあるかな?」
 と訊けば、いつものことなのですぐ頷き、奥の座敷で店員が幾つもの反物を用意し並べる。季節ごとに暖色か寒色か、または暗い色合いか淡い色合いかがはっきりとしていて、季節を先取るのが着物では一般的とされている。草花がモチーフの場合は特にそれが顕著で、八月の現在だと萩や桔梗が主に該当するだろう。露骨に夏らしい柄もそれはそれでいいがと黒や深い藍色を下地にした着物を一つ一つ広げてはしげしげと眺め、どうするか思案する。流石に関係が長くなると桃李が派手な柄の着物を好むのは相手もよく承知していた。また羽織って使う為、模様が出る面積は広いに越したことはない。いざ現場に出れば屋外で汗水を垂らしてナイトメアと戦うこともよくある仕事の為、通気性も考慮したい。
「うん、悪くはないんだけど」
 落胆も憤りもないとはいえ、どうにもしっくりとくる柄がなく、珍しくも桃李の表情は曇った。いつもなら相手が桃李の好みを熟知しているのもあって出された柄の中に二つ三つは仕立ててもらおうと思えるものがあるがと心なしか女性店員の顔色も蒼い。と、最後に出された生地を目にし、桃李の瑠璃色の黒目に散りばめられた金が光を受けたでもなしに輝きを増した。
「……ふむ、これはいいねぇ」
 そう呟き、桃李が見下ろすのは赤と白の椿の木を左右に配して、その葉や花に雪が積もっている図柄の反物。一応断りを入れて触れると夏用の薄単衣で絽で作られたその着物の上に紗を合わせるのも良さそうだ。八月は紗合わせの頃ではないがそこまで厳密に拘らずともいいだろう。納品する時期次第では良い具合だと笑みを浮かべる。
「今回はこれにするかな。色は地味だけど……こういうのも粋でいいよね」
 桃李の上機嫌な様子に店員もほっと胸を撫で下ろしたのが見ていて伝わった。ベースは濃紺のそれを畳み直すと、ではこちらでと言う。そのままここで見積もりと会計も全て済ませた。カードどころかスマホで高額決済も楽々なのは、傍から見ると金銭感覚が麻痺しているといえなくもない。しかし生活に困窮する中無理くり、というわけでもないので、桃李は気に留めなかった。まだ時間に余裕がある為洋装のほうもまた新調しようか、或いは新しい着物に合う髪留めも買おうかなどと思案しながら店を出ていった。
 桃李自身も本職程ではないにしろ着物を愛用する身として、それなりに知識は持っていると自負している。だから暑い真夏に敢えて真冬を思わせる柄の着物を着て、視覚的に涼むとの意図があるのも知っていた。昔は部屋の温度を自在に操ることなんて出来なかった分、様々な手段を駆使し涼を得ようとしていて、しかし、その足掻きが桃李は嫌いではない。気温という軛から抗おうとする意思が垣間見えてむしろ感心するくらいだ。
「俺もあの着物を着て残りの夏を何とか乗り切るとしようか」
 別に今の便利な世の中に対して何か物申すでもないのだが、先人の考えに従うのもたまになら悪くないと思えた。蝉の声も今はよく聞こえない世界。外を歩いていれば桃李の暑さを苦とも思わないような涼しげな貌にも玉のような汗が浮かび、額や頬に髪を貼り付かせる程に過酷である。ある意味ではナイトメアよりも厄介な敵を前に桃李の夏はもう暫く続くが、辟易とした感情はいつに間にか消え去っていた。

━あとがき━━━━━━━━━━━━━━━━━…・・
ここまで目を通して下さり、ありがとうございます。
折角だからと夏らしい要素も交えつつの桃李さんの
日常を描かせていただきました。わたしには着物の
知識があるわけではないのでふんわりと調べた後の
付け焼き刃的な知識ですが、派手好きかつ常識人を
自称する桃李さんの感性だと夏に敢えて冬の模様を、
というのは好きそうかなと勝手に思ったのでそれを
採用してみてます。いつも派手な着物ばかりなので
色合いは地味でもおっと人の目を惹くようなものも
たまにはありじゃないかなと。プロフィールを見て
暑さが苦手そうな印象を感じたというのも手伝って。
今回も本当にありがとうございました!
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グロリアスドライヴ
2020年08月07日

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